2009年09月30日

PTAの愛育委員

昨日の「参考資料」でPTA関連のブログ記事をとりあげましたが、実は私、PTAのクラス役員で、愛育部というのに所属していたりします。愛育部というのは「安全マップ」をつくったりするところで、つまりは非常に「いかのおすし」的な場所であったりします。

私はそんなことを知っていてこの愛育部になったわけではありません。単純に、6年間に1回は役員が回ってくるということと、同じやるなら何もわからない1年生のうちにやったほうが楽だろうという打算から、クラス役員に立候補し、空きがあった愛育部に割り振られたということです。そして、「いかのおすし」を知ったのは二学期になってから。つまり、PTAとは直接関係ありません。

ですから、ちょっとした偶然なのですが、「いかのおすし」を考える上でこの立場は有利かなと思います。明後日が定例の部会会合日なので、そのあたりに目配りしながら参加してこようと思っています。まだまだ正面切って取り上げられるほどには、私も考えが練り上げられていないので、とりあえず様子見です。
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2009年09月29日

凶悪事件、監視社会、PTA

以前、犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (浜井 浩一/芹沢 一也  光文社新書)という本に触れましたが、まだ読んでいないこの本に関して詳細な感想が書いてあるサイトを見つけました。

浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』1
浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』2
浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』3
浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』4
浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』5

特に重要と感じたのは、1の「客観的統計からは治安悪化はまったく認められない」という部分、「2年前と比較して犯罪が増えたと思いますか?」という2006年アンケートの結果、2の「犯罪者は理解不能(「理解できない」というよりも「理解すべきでない」という感じか)な恐怖の対象となり、社会は犯罪者を憎悪するようになった。」というあたり、3の「小学生が殺害される事件」の統計です。ちなみに、この統計によると、未遂を含んで小学生が殺人事件の被害者となった件数は、1976年の100件から2006年には27件に減少しているそうです。以前見た犯罪白書と併せて考えると、この27件の大部分は児童虐待によるものでしょう。つまり、「知らない人」よりも危険なのは「よく知っている人」なのですね。5では、保護者の過剰防衛による悪影響がアメリカの事例をひいて述べられています。「いかのおすし」問題の本質を考える上で重要なことかもしれません。

一方、この本の著者である芹沢一也氏が運営しておられるブログにも、いくらか参考になる記事がありました。

伝統芸能的な監視批判の無効性
直接「いかのおすし」と関係はないのですが、監視カメラを多くの人が望んでいるという統計が興味深いものでした。「いかのおすし」も、実に多くの人が「これはいいことだ!」とばかりに子どもに教えようとしています。誰もその害を感じていないわけです。ここに、「いかのおすし」の難しいところがあります。「だからOKじゃない」とは、私にはけっして言えないのですから。

死刑について思うこと
こちらはさらに関係の低い「死刑」に関するエッセイですが、「殺人認知件数」に関する部分が、やはり「いかのおすし」が「神話」の上に成り立っていることを伺わせてくれます。

PTAって一体……。川端裕人「PTA進化論」@
PTAって一体……。川端裕人「PTA進化論」A
これは、「いかのおすし」を推進する側に回ることがある(幸い私の息子の学校ではそうではありませんが)PTAに関するエッセイです。PTAの奇妙なところについては私もかねがね思うところがあるのですが、現在は実態をもうちょっとよく見てみようと考えているところです。ひょっとしたら、「いかのおすし」への手がかりが今後、こんな方面から見つかるかもしれません。

このSynodos blogというサイト、ちょっと違和感のあるところなのですが、今後も情報が出てくるかもしれませんので、もうちょっと読み込んでみようかと思っています。

今回も備忘記事でした。
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2009年09月28日

いかのおすしと「治安悪化神話」

こちらのブログによると、「治安悪化神話」というものがあるようです。

「治安悪化神話」によって進んだ会議の模様
2004年の国会法務委員会での議事録にコメントしたもののようです。

「体感治安と実際には落差」(o^-')b 東京新聞♪
東京新聞の記事にコメントしたもののようです。

このほかにもいろいろと参考になる情報がありそうなブログなのですが、全体をまだ読んでいないので、とりあえず備忘のため書いておきます。

> 日本の「不審者通報」も近いものがありますよね。
> 私の家のまえにも「××区は通報します!」と場
> 違いなノボリがいつのまにかできました。

という記述あたり、「いかのおすし」に近いものを感じました。

「いかのおすし」は、「神話」の上につくられるのかもしれません。あるいは、「いかのおすし」的教育が「神話」をつくっていくのかもしれません。このあたり、まだまだ詰めていかなければならない部分ですね。
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2009年09月27日

凶悪犯罪は減っている?

犯罪の発生数や検挙数に関しては、Web上でも公開されている犯罪白書に統計がありますが、素人にはなかなか読みづらいものです。実際に子どもを狙った犯罪が増えているのかどうか、他に情報がないかと検索をしていて、次のようなページを見つけました。

テレビにだまされないぞぉ
分析!日本の殺人事件 その1

これによれば、河合幹雄教授という人の分析で、凶悪犯罪は減少しているそうです。

だからといって手放しで喜べるのかというとそうでもないような内容なのですが、詳細な論評は差し控えましょう。

とりあえず「いかのおすし」関連では、やはり「いかのおすし」的教育とは異なった方向で、より効果的に子どもの安全と健全な成長を両立させることができるのではないかと感じた次第です。

参考資料の備忘までにアップしておきます。
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2009年09月26日

強者と弱者をつくらないために

前回の記事を書きながら、「ああ、これにはツッコミどころがいっぱいだな」と思っていました。いろいろな立場から、いろいろと批判できる記事だったと思います。そして、私自身の立場からも、ひとつ、大きく欠落している部分がありました。今回はそこを書こうと思います。

前回の論旨は、荒っぽくまとめると、「実際には犯罪者は "いかのおすし" が必要になるほどには多くはいない。犯罪者ではない "不審者" は、"いかのおすし" 的感性からつくられるものである」というようなものでした。事実関係について批判を受ける可能性も、もちろんあります。しかし、仮にこれが事実だとしても、その上でやっぱり、大きな問題はあるのです。

それは、「不審者なんていない」という考え方が、強者の論理だということです。仮に、世に言う「不審者」の大部分が実際には悪意がなかったり犯罪性が希薄な「非常識」程度の行為だと仮定しても、それを「あの程度じゃ不審者とは言わない」と笑えるのは強者だけです。被害を受けやすい弱者にとっては、どのような犯罪の兆候でも笑って見過ごせるものではありません。だからこその「不審者」であるわけです。

強者には、弱者の視点はわかりません。ですから、弱者が「怖い」と素直に訴えても、「そんなことはあるものか」と門前払いを食わせます。かつての警察はそうでした。不安感に少しでも漠然としたことがあると、とりあってくれなかったものです。

しかし、犯罪の兆候を敏感に感じた人の訴えを退けた後に実際に犯罪が起こる事例がくり返された反省なのでしょうか、最近は警察も、ややあやふやな訴えをとりあげてくれるようになりました。以前の強者の論理を改めて、弱者に歩み寄るようになってきたわけです。このことは高く評価すべきでしょう。

しかし、その結果、「不審者」の情報は増加していきます。気がつけば、まわりには不審者だらけで、世の中が非常に危険になってしまっているような錯覚に陥ってしまいます。

そして、その「不審者」の中には、不審者情報を届ける人々とは別な意味での弱者が含まれています。家を失って公園ぐらいしか行き場のない人や、昼間からぶらぶらせざるを得ない失業者、十分なケアを受けられない障害者などが、ひとくくりに「不審者」として報告されている可能性があります。こういった社会の周縁部にはじきとばされた人々をさらに疎外していこうとするのは、やはり強者の論理ということになります。

つまり、「不審者なんかいない」というのも強者の論理ですが、「不審者がいるから用心しよう」というのも強者の論理です。弱者の視点が欠けています。どちらをとっても、どこかで弱い人が苦しむ可能性が高いのです。

ここを改めなければ、「いかのおすし」問題は解決しません。

なぜ、弱者の視点を取り入れた「不審者情報」が、強者の論理になってしまうのでしょう。検討すべき課題とは思いますが、私の思いつきでは、これは共感が足りないからではないかという気がします。

警察は、絶対的に強者です。これは社会制度上、強者であるようにつくられているわけです。警察が弱ければ、犯罪は取り締まれません。弱い警察など不要です(理想としては警察が不要な世の中になればいいわけですが、そこまで話を拡張するのは控えましょう)。ですから、常に弱者に対する共感を意識しないと、その行動はどうしても強者の論理にもとづいたものになってしまいます。

弱者の「怖いから助けてください」という訴えに対して、強者の論理では「それではその不審者に対する警戒を強化しよう」となるでしょう。しかし、それが本当に弱者に対する共感にもとづいた行動なのでしょうか。弱者の不安を取り除くには、「怖い」対象を「不審者」として一括りに警戒対象にするのではなく、実際に恐怖を与えた人物が誰であったのか、その行動がどういうものであったのかをしっかりと実地に検証し、恐怖をひとつひとつ解消していく対応が必要なのではないでしょうか。

まさかとは思いますが、警察は「不審者の届け出」を「成績」のように扱っていないでしょうか。不審者情報を、自分たちの業務の根拠づけとして利用していないでしょうか。

「不審者」の実体が判明すれば、それは「不審者」ではなくなります。「不審者」が「不審者」として放置され、ただ単に「情報」や「統計」として流布してしまうのは、ある意味、警察がその正体を確認する能力を欠いていることをあらわしているに過ぎないのではないでしょうか。

とはいえ、警察ばかりを責めるべきではありません。「不審者」を届ける人にも、「不審者」扱いをされた人にも、相手の気持ちを思いやる共感する力があれば、「不審者」は大きく減るのではないかと思います。その上で、共感する力は、弱者よりも強者により大きく求められます。そういう意味で、警察には、ことに弱者に対する配慮をさらに求めたいと思うわけです。

そして、何よりも、数多くの弱者である子どもらをあずかる学校には、弱者に対する共感を強く求めたいわけです。いったい、「いかのおすし」を子どもに唱えさせることが、本当に弱者のためになるのでしょうか。それは、強者と弱者をどんどん再生産していく思想を植え付けることにはならないでしょうか。

強者と弱者は、常にこの世に存在します。しかし、人間には共感する力があります。この共感する力によって、強者と弱者をできるだけつくりださないよう努力することはできるはずです。そして、そのために教育の果たす力は小さくありません。

その教育は、「いかのおすし」的教育ではあり得ないと、私は思います。
posted by 松本 at 15:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月25日

「不審者」をつくり出す「いかのおすし」

「いかのおすし」は防犯のために考えられた標語です。防犯は警察の仕事であり、犯罪の多寡にかかわらず、犯罪がこの世からなくならない限りは続けられるべき活動でしょう。ただし、「近年多発する犯罪に」とか、「少年犯罪の増加傾向」のような宣伝文句には、実証性がないかもしれません。

私自身がデータをもっているわけではないので真偽の議論に立ち入るつもりはないのですが、たとえば、こんな本があります。

犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (浜井 浩一/芹沢 一也  光文社新書)

私はまだ読んでいないのですが、この本には、「治安悪化言説こそが「神話」なのである。……事実と相反する「神話」がなぜ「常識」と化したのか? 統計と思想の両面から迫る」というようなことが書かれているそうです。公式統計のグラフにかかわらず、その内容を精査すると、実際には犯罪は増えていないのではないかということのようです。

「いかのおすし」を肯定する人々の大半は、そもそも異議があることなど考えられないようです。子どもの安全は無条件で重要であり、そのために「いかのおすし」があるのなら、やはり無条件でそれを普及すべきだろうと、強いて尋ねればそんなふうに考えておられるでしょう。しかし、なかには、「確かに嫌な言葉だよね。でも、むかしと違って怖い事件がいっぱい起こっているから、しかたないよ。時代が悪いんだから」と、「いかのおすし」のマイナス面を認めながらも、「危険な時代だからしかたない」と肯定される方もいらっしゃるようです。

しかし、「治安悪化言説」が「神話」に過ぎず、実際には凶悪犯罪は増えておらず、子どもの身の危険も「むかし」と大差ないのだとしたらどうでしょう。「しかたない」の根拠は崩れるのではないでしょうか。

けれど、「しかたない」とおっしゃるお母さんは、きっと、「むかしに比べてそれほど危険じゃないのかもしれない。でもやっぱり……」と反論するでしょう。やっぱり少しでも危険があるのならそれは防ぎたい。やっぱり、「知らない人」に用心するに越したことはないと。

ここに、「いかのおすし」の根深さがあります。それは、存在しない危険に対する過剰な防御姿勢です。いえ、「存在しない」と言ってしまってはウソになります。実際に犯罪は発生するのです。それに対する防御の姿勢も絶対に必要です。存在しないのは、「想定されているほど過大な危険の可能性」です。あたかも日常的に近所の公園に犯罪者が現れるかのような想定であり、そんな想定にもとづいた「人を見たら泥棒と思え」式の防御姿勢です。これはどう見ても過剰です。

こんなことを言うと、「いえ、そんなことはない。だって、先週もこの町内で不審者が現れたっていう警報メールがあったのよ。声をかけられた女の子が逃げたからよかったらしいけど」というような反論があるでしょう。実際、「不審者」を見たという通報はあとをたちません。「不審者」が発見されると、たちまち防犯メールが送信され、保育園や学校、町内掲示板に「不審者情報」が掲示されます。回覧板にも「見かけない人に気をつけましょう」という呼びかけとともに、これらの情報がまとめて告知されるでしょう。こういった情報に気をつけていれば、「過大な危険の可能性」などという指摘は世迷い言に聞こえるはずです。

私は、これこそが「いかのおすし」問題だと思うのです。なぜなら、「不審者」は、「犯罪者」ではありません。「声をかけられた」「連れ去られそうになった」「下半身を露出された」などという被害報告は、「被害者」の一方的な主張です。確かにその中には犯罪につながりかねないものもあったかもしれませんが、多くは意志の疎通を欠いた誤解であったり、犯罪性の希薄な異常行動だったりするのではないでしょうか。

そういった「確かに怪しいけれど危険ではない」人々を「犯罪者」と同一視される「不審者」にしてしまうことで、「神話」は現実となります。そして、それに対処するために「いかのおすし」的教育が強化されます。

上記の「犯罪不安社会」の著者は、「神話」生成の原因をマスコミの過剰報道に求めているそうです。しかし、何でもかんでも「マスコミが悪い」というのは、何でもかんでも「不審者」のせいにする心性と大差ないように思います。そういったマスコミの言説を生み出しているのは、私たちひとりひとりの心の過剰防衛反応かもしれません。

そして、そういった過剰防衛反応を生み出すのが、「いかのおすし」的教育だと私は思うのです。

私たちは、小さいころから「知らない人に気をつけましょう」と繰り返し教え込まれてきました。私は個人的な性癖からこれに対して「それっておかしいよね」と思ってきたのですが、ほとんどの人はそれを疑問に思うことなく育ってきたのではないでしょうか。そういう「常識」を教え込まれた人は、「知らない人」が、ほんの少し常軌を逸した行動をしているのを見ただけで「不審者」と感じるでしょう。そんな「常識」にもとづいて生きていれば、確かに世の中は「不審者」だらけです。そんな「不審者」から子どもを守るには、どうあっても「いかのおすし」がなければなりません。

「いかのおすし」的教育は、このようにして再生産されます。そして、それはどんどんと「不審者」を増やしていき、この世の中をどんどんと生きにくいものにしていきます。

「安全崩壊」が本当に「神話」であるのかどうか、私には検証する能力はありません。しかし、少なくとも、それが「神話」ではないかと疑うことは許されていいのではないかと思います。「神話」だと疑えば、「いかのおすし」が奇妙に見えてきます。

だから私は、「いかのおすし」に疑問を投げかけていきたいと思うのです。

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2009年09月24日

休み明け

休み明けの朝は、どの子もみな、不機嫌そうですねえ。眠いんだろうな。うちの子も、くたくたになって帰ってきました。
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2009年09月23日

結局、私は何を求めているのか?

「いかのおすし」的教育がおかしいと思ってこのブログを書き始めた私ですが、では、私はいったい何を求めているのでしょう。「ぐちゃぐちゃ文句をつけているけど、何が欲しいんだ?」と聞かれたら、何と答えればいいのでしょう。

私は、自分の子どもに「いかのおすし」を教えてほしくないと思います。それが子どもの成長に悪影響を与えると思うからです。余分なことは子どもに吹き込まないでほしいと思うのです。

「いかのおすし」は指導要領に記載されているわけでもない、学校の自由裁量で指導している事柄です。私は個人的に文部省指導要領の記載事項のなかにさえ、「教えてもらわなくていいよ」と思うことがあるのですが、そこにはとりあえず文句を言わないでおこうと思います。息子を公立の学校に行かせる選択をした時点で、ある程度のことは容認しなければいけないと覚悟を決めました。ですから、「学校で教えると定められたこと」について問題にするつもりはないのです。

「いかのおすし」が教えられるのは、おそらく警察の都合、そして学校の事なかれ主義です。そういった教育とは全く関係のない事柄に子どもを巻き込まないで欲しいのです。

もちろん、親御さん方の中には、やはり報道される「連れ去り犯罪」に対する嫌悪感から(この嫌悪感は私も共有しています)、「学校は予防対策を万全にとって欲しい」と希望される方も多いでしょう。そのために「いかのおすし」推進を願う方も多いかと思います。つまり、私が「いかのおすし」を止めてほしいと願う一方で、それをやってほしいと思う親御さんもいるわけです。学校としては両者の意見を公正に聞いて、おそらくは多数派である「いかのおすし」推進派の意見を尊重せざるを得ないということもあるのでしょう。

けれど、冷静になってほしいのです。「いかのおすし」で子どもの不幸は防げません。たとえばこんな記事にあるように、「いかのおすし」という言葉を覚えても、そこに込められた願いが届いているとは限りません。それよりは、こんな語呂合わせではなく、本当に何を心配しているのか、本当はどうしてほしいのかを具体的に説明する方がいいのではないでしょうか。

そして、さらにじっくり考えていただければ、仮想敵である「知らない人」を持ち出すことが本当に子どもの安全につながるのかどうか、疑わしいことが理解いただけるのではないでしょうか。子どもを傷つけるのは他者かもしれませんが、子どもを救うのも他者です。他者を締め出して可能性を奪うのではなく、もっと踏み込んで、あらゆる状況に「生きる力」を発揮できる知恵を子どもに与えるべきではないのでしょうか。

私は、「いかのおすし」に賛辞を送る人々、「いかのおすし」を子どもに教えるべきだと唱える人々と、対立したくはないのです。そういった人々と手を携えて、本当に豊かな子どもたちの未来を考えていきたいのです。

これは大それた願いなのでしょうか。

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2009年09月22日

ちょっと失望

「いかのおすし」がおかしいって思う人は、少数でも絶対いると思うのです。私の身近では、だれも同意してくれません。「だって子どもの安全は大事じゃない」「世知辛い世の中かもしれないけど、それが現実なんだから」という反応はまだマシなほう、私が何を問題にしているのか全くかみ合わない方が多いでしょう。

それでも広い世の中、「こんなものを普及させようという大人の態度は許せない」と思う人が他に一人や二人いるはずだ、と思いたいのです。

今日、少し時間があったので、ブログ検索をかけてみました。ほとんどの記事が、「いかのおすしを子どもに教えましょう」というものばかり。たまにちょっと批判的なものがあっても、それは「言葉として無理があるんじゃない」という程度で、発想そのものが問題だと書いている人は一人も見かけませんでした。

これが世の中なんでしょうか。自分だけは正義の側にいると思って、実際には(確かに存在はしても)不確かでつかみどころのない「知らない人」や「不審者」に全責任をおっかぶせようとする態度が、いまの人間社会なんでしょうか。

軽い絶望感におそわれます。
posted by 松本 at 18:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月21日

リアル「いかのおすし」

今日、近くの回転寿司に行ってきました。私、けっこう「いかのおすし」が好きなんですね。いえ、本当のイカをネタにしたおすしです。甘いコウイカも、歯ごたえのあるスルメイカも、ゲソをつけたヤリイカ姿なんかも、いつも必ず食べます。焼いたイカや煮たイカはそれほど好きでもないのに、どういうわけかお寿司は好きです。

ところが今日は、回っているイカがどれも干からびて見えて、結局手を出しませんでした。いえ、テカテカ光っているのもそれなりの処理をしてあるからだってわかっているので手を出し辛いのですが、その上に乾いてしまっているのはなおのこと...

こんなブログを書き始めてしまったから、リアルな「いかのおすし」にまで見限られてしまったのかもしれません。けれど、おかしいと思うことはおかしいって言わないと。もうちょっと、「いかのおすし」批判を続けることにしましょう。
posted by 松本 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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