2009年10月10日

「いかのおすし」は子どもの安全を脅かす?

私が「いかのおすし」を子どもに教えて欲しくないと思うのは、それが子どもの健全な成長にとって有害だと思うからです。本当に有害なのかどうかは発達心理学など関連分野を調べなければならないのでちょっと手間取っていますが、常識的に考えて人を信頼することは子どもにとってかけがえのないほど重要なことです。根拠は必ずあると思っています。

そしてやっかいなのは、たとえこの部分で同調してくれる方がいたとしても、「でも、子どもの安全のためにはやむを得ないよ」と、「いかのおすし」を肯定することです。そこでここしばらくは「いや、決して子どもは危険に晒されてなどいないのだ。犯罪は増えていないし、不審者情報は参考情報に過ぎないのだ」ということを裏付ける資料を探してきました。「凶悪犯罪の増加」や「子どもが狙われている」という思い込みは「神話」あるいは「迷信」に過ぎないことがほぼ立証されていると思います。

しかし、仮に「危険」が事実だとしても「いかのおすし」は安全を高めるどころか危険を増加させるのではないかと思わせる説を発見しましたので、今日はそれを掲載します。実際、過度な不安は「神話」にもとづくものですが、子どもが狙われる犯罪が全くないのかといえば、「不審者による連れ去り」的な事件は事実、広い日本でおそらく年間数件の割合で発生しています。これが大きく報道されるので「ゴキブリが一匹出れば無数のゴキブリが隠れている」的発想から「神話」が生まれるわけですが、事実は報道されている事件がほぼ全てです。しかし、たとえ数百万分の1の確率でも、危険は危険です。その対策は必要なのかもしれません。

そして、その対策として「いかのおすし」を実施した場合、効果があるのでしょうか。次のブログのこんな記事を見る限り、答えはノーです。

不必要に疑わない習慣をつける
社会心理学の世界で、興味深い実験がある。
相手が嘘をついているかどうか見分ける課題で、
日常的に疑い深い人(=「人を見たら泥棒と思え」という人)のほうが、
人を信じやすい人(=「渡る世間に鬼はなし」という人)よりも、
なんと成績が悪かったのである。


この短い引用だけでは「興味深い実験」のことがよくわからないので、あるいは的を外しているのかもしれませんが、「疑う人ほど騙されやすい」という結論が出ているようなのです。「いかのおすし」にあてはめれば、「不審者」を警戒している子どもの方が、いざ悪意のある犯罪者に直面した場合には被害にあいやすいということになります。

これは、現実の場面を考えれば容易に理解できます。「不審者」対策をする子どもは、相手が「不審者」かどうかの判定に全力を注ぎます。犯罪者の側からいえば、この防御壁さえ突破すればいいのです。そのため犯罪者は、「お母さんが呼んでいる」とか、「事故が起こった、大変だ、早く来て」というような騙しの手口を使います。もちろん子どもには、「そういったことを言われても信じないように」と、更なる防御が教えられます。けれど、犯罪者にとって新たな手口を考え出すことはたやすいことです。結局は、いたちごっこです。

しかし、このブログの記事によると、
普段から「疑わない」習慣を持っている人は、疑うポイントを押さえているわけだから、どんなに親切にされようとも、そのポイントに来れば一瞬立ち止まることができる。

らしいのです。「人を信じる」態度を身につけた子どもは、どんな巧妙な嘘でも、それが嘘であるということだけで最終的に「おかしい」と感じて立ち止まることができるでしょう。

そう思えば、「いかのおすし」を教えることがかえって子どもの安全を損なっているのだという主張もあり得ることだと思います。

たまたま見つけたブログ記事ひとつの記述など、それこそ「信じる」べきではないのかもしれません。そこで、私としてもとりあえずは「『いかのおすし』が危険だ!」という主張まではしないでおきましょう。そうではなく、当面は、元ネタである「社会心理学の興味深い実験」をはじめこの方面の資料をもう少し探って、そういう主張が可能かどうかを検証してみる方向で進もうと思います。

ひょっとしたら、「危険神話」を肯定した上でも、「いかのおすし」はやめるべきなのかもしれません。何重にも根拠が危ういのが「いかのおすし」なのかもしれないのです。
posted by 松本 at 09:59| Comment(4) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月09日

「いかのおすし」と不安社会

前回、資料を元に「いかのおすし」が必要な根拠とされる凶悪犯は実際には増えておらず(過去20年は安定、それ以前から見れば急減)、また連れ去り犯もそれほど多数は発生していないということを示しました。しかし、これは見方を変えれば、「いかのおすし」が効果を上げているからだと、「いかのおすし」が必要な根拠にもなり得る数字です。これほど不安な時代に実際に犯罪が増えていないのは、その対策が十分にとられているからだと、論じることも可能なわけです。

これは検証不能なのです。「いかのおすし」に限りません。一般に、個別の事例は検証不能なものです。たとえば、慢性疾患に苦しむ人は、「医者なんて何の役にも立たない。私の病気はちっともよくならない」と言うでしょう。けれど、担当医に言わせれば、「自分が治療をしているからこの程度で済んでいるのだ」ということになるはずです。治療をしなければもっと悪化していたのを、悪化を食い止めたのは相当な効果と評価するはずです。個別の事例の評価は、立場によってどうにでもなるものです。

学門の世界では、検証不能な個別の事例を論ずるのではなく、複数の事例を統計的に処理して、より客観的な検証を行います。医者の治療に効果があったかどうかは、治療を行わなかったグループと治療を行ったグループの結果を統計的に比較して判定されるでしょう。

けれど、そういった「客観的」とされる検証方法を、「いかのおすし」に適用するのは不可能です。比較可能な2つのグループを用意することができないからです。日本では全国津々浦々で「いかのおすし」が推進されていますから、日本国内の地域間で比較することはできません。日本と外国では犯罪事情がまったく異なるので、比較対象になりません。日本国内で「いかのおすし」がない地域を選べたとしても、ほとんど発生しない連れ去り犯の発生件数を統計的に意味のある比較対象にするのは不可能です。

結局のところ、いくら数字を根拠としてあげても、同じ根拠から、「だから『いかのおすし』なんて不要だ」という結論と、「だから『いかのおすし』が必要だ」という結論の両方が導かれてしまうのです。そして、それぞれ別の結論を導くのは、数字の根拠ではなく、議論をする人の信念であり、世界観です。こればっかりは、いくら議論しても解決するものではありません。

ですから、「いかのおすし」をやめさせたいと思うなら(私は思っています)、「『いかのおすし』なんて不要だ」という考え方に近い信念、世界観の人を議論に巻き込んでいくしかありません。そしてそういう人々はいると、私は思います。

確かに、「いかのおすし」で検索すると、世の中には「子どもに覚えさせましょう」「防犯のために大切です」といった意見ばかりです。けれど、ほんの少しキーワードを変えれば、「いかのおすし」的世界はまっぴらだと感じる人があちこちにいるように見えてきます。

たとえば、遠く北海道の恵庭市では、市議会の議員が、「安全・安心なまちづくり条例」に関して、

解釈として、記載されているのは、不審者情報の収集や防犯カメラの設置で、不必要な市民統制を強めることにつながります。
それが具体的に恵庭の犯罪や交通事故を減らすことにつながるためには、具体的な事例の検証とそれに対する対策を細かく練り上げることだと、私は思います。

という意見をブログに書いておられます。「不審者情報」に誰もが疑問を持たないわけではないと知って、心強く感じます。

地方新聞としては珍しいほどの個性を持った河北新報社の昨年の特集記事では、

日々不審者情報が飛び交い、雇用や社会保障の仕組みは揺らいでいる。不安が不安をあおるような中で、実体を見誤ってはいないか。人々の不安の深層を探る。

というリード文とともに、
多くの自治体や学校で今、不審者情報の発信に積極的に取り組むようになってきた。だが、地域の治安が実際には悪化していないのに、不審者に警戒しようと呼び掛けることは、不要な不安感まであおることにならないのか。

という問題提起をしています。「いかのおすし」的発想の負の側面を問いかけていると考えていいでしょう。ちなみにこの記事のコメント欄には、
子供を狙った犯罪は、寧ろ減っている。ならば、防犯に協力するほうが、社会悪なのではありませんか。敢えて防犯に協力せず、不審者など存在しないことを暴露するのが、正義だと思います。増えてもいない犯罪をちらつかされ、行動を萎縮させられる現代っ子が気の毒です。
学校関係者、警察関係者に対し、はっきり言いましょう。
「子供を狙った犯罪が頻発している。」
「ウソツキ!」。

という書き込みがあります。ただひとり「いかのおすし」に異議を唱える私にとって、心強い言葉です。

実際、「いかのおすし」に関しても、こちらのブログには、
♪ 道を聞かれても ごめんなさい 知りません
♪ 誰か大人に聞いてくださいと言おう
という事を子供に教えないといけない世の中になってしまったんですね、、、
ついこないだ旅先で道を聞いて、人の親切に直接触れてきた身としては、複雑な感情を抱かざるを得ません、、、、
それにこれは、子供に”ウソをついてもいい”という事を認めるだけでなく、薦めていることになります。
現代社会においては、こういった事を教えていかないと子供を守っていけない、、、という止むを得ない事情もわかりますが、なんかなぁ、、、
小さな頃から”ウソをついてもいい”と教わった子供がいったいどんな大人に育つのかという事を考えると、日本の将来をちょっと悲観してしまいます、、、

という書き込みがあります。「いかのおすし」が子どもに対して悪影響を与えると感じる人は、決して少なくないはずです。それが「やむをえない」という大きな声に押されて表面に出てこないだけではないのかと思うのです。

私は、「いかのおすし」にはメリットよりもデメリットがはるかに大きいと思います。こういうことを学校で教えるのはぜひ止めてほしいと思います。そして、学校の教員の方々も、このブログにあるように根拠もなく「不審者が来るかもしれないから帰りなさい」なんて言わないでほしいのです。正体不明の「不審者」のせいにするのではなく、もっと健全な常識として「遅くならないうちに家に帰りましょう」と言えば済む話なのです。「不審者」は、妖怪やおばけと同じレベルで子どもを脅す迷信と化していないでしょうか。そういう迷信に教育者が手を貸していいのでしょうか。

根拠のない「不審者」迷信は、こちらの記事にあるように、「社会的弱者を不審者として排除する格差社会を産んでいる」のかもしれません。大きな声で叫ばれる「いかのおすし」に流されるのではなく、きちんと事実を見つめてみたいものです。

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2009年10月08日

「いかのおすし」は何をしたいのか?

新聞紙上を亀井大臣の発言が賑わせています。「改革と称する極端な市場原理、市場主義が始まって以来、家族の崩壊、家族間の殺し合いが増えてきた。そういう風潮をつくったという意味で、(経団連に)責任がある」という発言です。

個人的には「お金」を中心に回る社会は人間を不幸にする危険性を大きく孕んでいると思っているので、一瞬、この発言に拍手をしたいと思いました。しかし、実際に「家族の殺し合いが増えてきた」のかといえば、以前にこのブログを書きながら調べたところでは決してそうではありません。日本では伝統的に家族内での殺人の比率が高いわけで、これは最近の傾向でもなさそうです。

そこで、これを裏づける統計がないかと、ちょっとネットを検索してみました。意外にもドンピシャリのものは出てこなかったので断定はできないのですが、どうやら各所の記事を見ると、数十年スパンの長期的な傾向では「家族間の殺し合い」(心中などを含む)は大幅に低下傾向にあるようです。ただし、「改革と称する極端な市場原理主義」の時代のここ十年ほどをとってみると、若干の増加はあるようです。それでも、これは大きな流れからいえば誤差程度のもの。どうやら大臣の発言は事実誤認に近いようです。

とまあ、「いかのおすし」と全く無関係な話をしたのですが、こんなことを調べていたら、以前に見つけられなかったいくつかの犯罪統計に行き当たりました。興味深かったのは、警察庁の統計をまとめたWebサイトに掲載された「平成21年上半期の犯罪情勢」というレポートです。同様なレポートは毎年度発表されているようなので全て見ればさらに有益な情報が得られるとは思いますが、私は特に犯罪に興味があるわけではないので、これひとつで「お腹一杯」という感じです。

まず、「凡例」の冒頭には、犯罪の分類が載っています。こんなことも私は知らなかったわけですが、

刑法犯を「凶悪犯」「粗暴犯」 「窃盗犯」「知能犯」「風俗犯」 「その他の刑法犯」の6種に分類したものをいう。
凶悪犯..................殺人、強盗、放火、強姦
粗暴犯..................暴行、傷害、脅迫、恐喝、凶器準備集合
窃盗犯..................窃盗
知能犯..................詐欺、横領(占有離脱物横領を除く。)、偽造、汚職、背任、「公職にある者等のあっせん行為による利得等の処罰に関する法律」に規定する罪
風俗犯..................賭博、わいせつ
その他の刑法犯......公務執行妨害、住居侵入、逮捕監禁、器物損壊、占有離脱物横領等上記に掲げるもの以外の刑法犯


という分類です。「いかのおすし」の広報には、「近年、凶悪犯が増加し...」というようなことが書いてありますが、これはつまり、「殺人、強盗、放火、強姦」の4種類の犯罪が増えているという主張なわけです。子どもが被害にあいやすい暴行、傷害、脅迫、恐喝は「粗暴犯」、痴漢などのわいせつ行為は「風俗犯」ということになるようです。

「いかのおすし」の内容からして、これが「強盗、放火」の予防を目的としたものには思えませんから、つまり「殺人、強姦」が増えていきているから「いかのおすし」が必要になったという文脈でしょう。

ところが、これは事実に反しています。こちらのサイトに詳しいグラフがあるのですが、小学生以下の殺人事件被害者数は、1970年代半ばをピークに1980年代末頃までに4分の1にも急減し、以後はほぼ横ばいが続いています。もちろん特定の年を取り出せば、たとえば2003年から2004年にかけて急増しているわけですが、全体的な傾向として「増加している」とは読めません。過去20年は、一定の振れ幅のなかに収まっているというのが実状のようです。そして数十年スパンでは急減です。

次に「強姦」ですが、やはり同じサイトにグラフがあります。小学生以下の幼女に関していえば、こちらも殺人と同じ傾向で、過去数十年スパンで見れば激減(5分の1程度)、過去20年で見ればほぼ一定の振れ幅の中に収まっています。「凶悪犯が増加し」という前提は、少なくとも小学生、幼稚園児対象の「いかのおすし」に関する限り、どうやらおかしいのです。

ただし、同じページの別のグラフの中に「強制猥褻被害者数」の推移があり、こちらによれば逆に被害は過去20年で5倍増と、全く逆の傾向になっています。ただし、これも小学生に関してはさほど大きな増加ではなく、ここ数年ではむしろ激減傾向があります。1980年代半ば以降に被害者数が増えたのは、犯罪の増加ではなく、「泣き寝入り」の減少を反映したものではないかという考察もありますが、私にはそこは判定できません。とりあえず、「凶悪犯」以外の部分では、確かに犯罪の増加傾向が(少なくとも「いかのおすし」誕生前後では)あったかもしれないというに止めておきましょう。そして、これも現在では必ずしもそうではないわけです。

さて、先の「平成21年上半期の犯罪情勢」に戻ると、もうひとつ、「いかのおすし」の内容からいって「凶悪犯」以上に重視されていると思われる「連れ去り犯」に関係する統計があります。「図表4−1−(5)−2 略取誘拐・人身売買の被害者の年齢・性別認知件数の状況」を見ると、12歳以下(つまり小学生以下)の年齢層で、上半期だけで33件の被害があったことが記載されています。年間にすればこの倍程度でしょうから、けっこう無視できない数字です。やはり「いかのおすし」は必要なのでしょうか。

しかし、次のページをめくると、「図表4−1−(5)−6 身の代金目的略取・誘拐事件の認知・検挙状況の推移」というのがあって、これは年齢層に関係なく年間2〜12件、過去5年には一定して減少していることが記載されています。よくよく見ると、「図表4−1−(5)−2」には、「人身売買」が合算されています。子どもの人身売買も怖ろしい犯罪ですが、「いかのおすし」が対象とする「連れ去り犯」とは大きく違います。「連れ去り犯」の全てが「身代金目的略取」ではないのですが、どうやら「上半期33件」の被害の中に「連れ去り犯」が占める割合はそう多くはなさそうです。

こんな数字を見てくると、「じゃあ、結局『いかのおすし』って何がしたいわけ?」と疑問を抱かざるを得ません。「凶悪犯罪が増えているから」必要なわけではありませんし、「連れ去り犯」はおそらく年間数件で、こちらも増加傾向にはありません。さらに、増えてはいないかもしれないけれど確実に存在する凶悪犯や強制猥褻犯の多くは、「知らない人」ではなく「顔見知り」や家族であるのかもしれません(たとえばこちらには教師の強姦事例が列記されています)。

「いかのおすし」は、幻の「凶悪犯」を追いかけているだけなのではないでしょうか。確かにこういった犯罪が1件でもある限り、その被害にあいたくはないというのは偽らざる親の心理です。けれど、ほとんど天文学的とも言えるほど微小な被害の確率を下げるために、「やむをえないけれど」と子どもに「人を疑え」と教えるのはあまりにバランスを欠いていると思います。

「だったらお前の子どもが誘拐されてもいいのか」というような感情的な議論の前に、冷静に、いったい「いかのおすし」は何に効くのか、その害はないのか、総合すればメリットとデメリットはどちらが大きいのかと考えてみることが必要ではないでしょうか。

posted by 松本 at 12:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月07日

私はひとりではないのかも?

「いかのおすし」を大部分の人は疑いももたず「子どもに覚えさせましょう」「広めましょう」と考えておられるようです。私のように、「そんなことを子どもに教えるのはやめてほしい」と感じる人は、ごく少数です。いいえ、ときには「私ひとりではないか」とさえ思えるほど、「いかのおすし」派の声ばかりが目立ちます。

そんななか、少しでも疑問を呈する意見に出会うとほっとします。

たとえば、非常に場違いなある掲示板で、「すきな言葉、嫌いな言葉」の募集をやっているところに、こんな書き込みを見つけました。

No.210 by 匿名さん 2009-02-12 21:53
嫌いな言葉⇒いかのおすし(学校内で問題をおこしている学校がいう)
知らない人間による犯罪から子供を守るために子供たちに「いかのおすし」を教えるのは大事なことだけど、いくら「いかのおすし」をとなえていても学校がいじめなどの問題をおこしていたら子供を不幸におとしいれていることには何ら変わりがない!!(もっとひどいのをいうと学校が学校内の問題を隠蔽する)


「いかのおすし」そのものの問題点を指摘していらっしゃるわけではないのですが、「嫌いな言葉」としてあげておられるのには、「やっぱり同じ感覚の人がいるのだな」と、嬉しくなります。

そして、そういった学校の教育姿勢に問題があるというのは、事実かどうか私は知りませんが、これまでの考察から「そういうこともあるかもしれないな」と納得できます。「いかのおすし」は、決して子どもに寄り添った発想から生まれる言葉ではないからです。むしろ、事なかれ主義と表面の取り繕いを重視する発想と近いものだと思います。

もうひとつ、こちらも「いかのおすし」を直接批判したものではないのですが、「もっとだいじなものがあるよ」と教えてくれる記事です。

日本短詩人協会
「いかのおすし」を子どもたちに勧めよう 投稿者:若丼 投稿日:2008年10月17日

「知らない人」よりもはるかに怖いのは、人を差別する心です。差別の行く果てが戦争です。戦争に「いかない」ために、「不審者」を排除する「いかのおすし」が役に立つのかどうか、冷静な判断を多くの人に望みたいものです。
posted by 松本 at 10:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月06日

「不審者情報」の実際

警察は、積極的に「不審者情報」を流します。それが仕事ということになっているのだから咎め立てをすべきではないのかもしれませんが、いたずらに不安を煽るような気がしないでもありません。しかし、「不審者情報」とはどんなものかをしっかり把握すれば、「不審者情報」がたびたび寄せられるからといって不安がることはないのかもしれません。

たとえば、鹿児島県警は「防災・安全・安心メール」を登録者に配信していますが、その内容は「鹿児島 犯罪情報 ライブドア支局」で見ることができます。たとえば今年の8月20日には、こんな情報が配信されています。

《鹿児島市で声かけ事案》【男の特徴】60歳位,頭に白色タオルを巻く,白色乗用車使用【日時】8/18(火)午後6時頃【場所】西伊敷3丁目の路上【内容】帰宅中の小学生男児が,白色の乗用車に乗った男から「ちょっとおいで」と声をかけられた事案。男児はすぐに近くの大人に知らせました。子どもたちには不審者への対応と併せて,不審車両のナンバーを覚えておくことも指導してください。


この文面を見れば、実に怪しげです。こんな「不審者」がウロウロしているのでは、落ち着いて暮らせないような気になります。けれど翌日21日には、こんな訂正が入っています。

《声かけ事案の解決》8/20に配信しました鹿児島市西伊敷3丁目における小学生男児への声かけ事案につきましては,車のナンバー等から,知人による善意の声かけと判明しました。御協力ありがとうございました。今後も,子どもたちには,日頃から防犯意識を持って行動すること,ナンバー等を覚えておいて大人に知らせることを指導してください。


「不審者」は、単なる知人であったわけです。

つまり、「不審者」は、「犯罪者」もしくは「犯罪の隙を伺っている悪意をもった者」とイコールではないのです。「不審者」の中にそんな人々もいくらか含まれている可能性はありますが、そうでない可能性も高いわけです。

この鹿児島県警の防犯メールでは、上記のように「結局は知人でした」というような訂正が入ることは多くありません。むしろ、「不審者」は「不審者」のまま解決されないケースがほとんどでしょう。であっても、だからといってそれらの中に知人や善意の人が相当数含まれていなかったとは考えにくいわけです。

たとえば、某巨大掲示板では、「
「コンビニを教えて」と聞いただけで犯罪になる時代がやってきました
」として、大阪府警の同様な「不審者情報」に関するスレッドが立っているようです。この「不審者」も、単に道を尋ねただけという可能性が高いわけです。

「不審者」に定義はありません。通報者が「不審者だ」と思えば、それ以外に何の根拠もなく、「不審者情報」は発生します。1週間ほど前に私は近所を車で走っていたときに、息子の友だちのお姉さん(小学校6年生)とすれ違いました。車の窓越しに手を振ったとき、視力の低い彼女は私の顔を見分けられず、不審な顔をしていました。こんなふうにして不審者情報がまたひとつ発生したかもしれません。

警察がこういった「不審者情報」を受理するのも、それに前向きに取り組むのも、それはそれでけっこうなことでしょう。また、その情報を希望者に流すのも、決してそれ自体は悪いことだとは思いません。ただ、こうやって累積する根拠のあやふやな「不審者情報」が統計となり、「これだけ多数の不審者情報が寄せられている」「不審者は年々増えている」というような解釈を引き起こすのは問題です。それは、「不審者」の実態を反映しないからです。

「不審者」は、「犯罪者」ではありません。「不審者」の増加は、「犯罪」の増加ではないのです。むしろ「不審者」の増加は、通報者の不安意識をより強く反映したものであるように思えます。コンビニへの道を聞いただけで通報されるのは異常です。そんな異常な行動を異常とも思わないほどに、人々は不安に怯えているのでしょうか。そんな不安は、どこから生まれたのでしょうか。

「いかのおすし」的教育は、その責任の一旦を担っていないでしょうか。「人を見たら泥棒と思え」という教えは、どんどんと「不審者」を増やしているのではないでしょうか。

私たちはみな、安心して住める社会を願っているのだと思います。「いかのおすし」はそんな社会の実現にプラスに作用しているのかマイナスに作用しているのか、冷静に検証してみる必要があるのではないでしょうか。
posted by 松本 at 09:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月05日

現場の教員は「いかのおすし」をどう見ているのだろう?

「人を見たら泥棒と思え」という姿勢は恥ずかしいものです。表現が変わっていても、「いかのおすし」は子どもらに「知らない人=不審者=潜在的な犯罪者」と教えるもので、姿勢としては全く同じです。私は自分の子どもにこんなことを教えてほしくありませんし、自分自身、子どもたちにこんなことを伝えたくありません。そのこと自体が非常に恥ずかしいことだと思うのです。

そんなふうに感じるせいで、現場で子どもたちにこういうことを教える役割を担わされている先生方がどんなふうに感じているのか、知りたい気持ちになります。以前、学校の懇談会の席で「いかのおすし」を持ち出したときには、自分の気持ちを言うのが精一杯で、先生の意見までとても聞くことができませんでした。なかなか難しいものです。

できれば利害が直接関係する担任の先生にではなく、学校関係に勤めている知人にでも尋ねてみようと思います。直接に小学校の教員はいなかったと思うのですが、知り合いの知り合いぐらいの関係なら見つけられそうです。

それはそれとして、ブログを検索していたら、北海道の小学校で教員をされている方のブログに「いかのおすし」関連の書き込みを見つけました。

ひとつは「防犯教室」で「いかのおすし」的な内容の劇を演じた記事です。
http://suzukiq.blog.ocn.ne.jp/index/2007/12/post_4061.html

こちらには、「子供達は大喜びである」とか「学期末の忙しい中、1週間で30のセリフを憶えなくてはならなかったマモル君役のT羽先生の方が災難だったと思われる」といった感想が書いてありますが、「いかのおすし」に関しては、「それにしても「いかのおすし」って何度聞いても覚えられない・・・」とあるのみ。

一方、こちらは「いかのおすし」をメインで取り上げた記事です。
http://suzukiq.blog.ocn.ne.jp/index/2007/12/post.html

こちらの内容は、「もうちょっと親しみやすい標語にしてもらいたいものだ」というもの。やはり、「いかのおすし」そのものには何らの問題視もなく、ましてそれを教えることに対する抵抗もないようです。

こういう感覚が、おそらく世間標準なのでしょう。私の感覚はこれほどまでに世間とはズレているのだと、再認識させられます。

けれど、やっぱり「いかのおすし」的教育は嫌です。問題だと思います。直接に「いかのおすし」ではないけれど、やっぱり同じようなことを感じる人も、少数ではあるけれどいるようです。たとえばこんなブログを見つけると、本当にほっとします。そんな機会は滅多にないのですけれど。
みちのたまご - 人を見たら力になろうと思え

こんな記事を読むと、「いかのおすし」なんて誰も考えなくなる日まで、あきらめずに自分の考えを書きつづけなければならないと思います。それが「人の力になる」ことだと思えてならないからです。

以上、今回も、参考資料の備忘でした。
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2009年10月04日

矛盾なのか、バランスなのか?

私自身の思いとしては「理由もなく人を疑うくらいなら騙された方がいい」という気持ちを子どもに伝えたいのですが、不必要に軽率である必要もなく、用心が必要だという考え方も否定するつもりはありません。だから全てはバランスの問題だと思うのですが、「いかのおすし」は、救いようのないほどバランスを欠いていると感じます。

ただ、それを警察が主張するのは、「ちょっとなあ」と思いながらも理解できなくはありません。解せないのは、それを学校のような警察とはまったく趣旨の違う機関が代理店のように繰り返すことです。こういう「右から左へ」式の情報伝達は、情報の意味を考えたら非常に奇妙です。

その奇妙な見本のようなページを見つけました。ある市の公式ページらしいのですが、「いかのおすし」とそれを真っ向から否定するような記事が全く同じページに記載されています。まあ、「お知らせバックナンバー」ということでソースが別々、趣旨も別々な情報がたまたま同じページに掲載されたに過ぎないのでしょうが、この矛盾は非常に変です。

http://www.city.sakurai.nara.jp/news/bnews133.html

長いページなので見つけにくいと思いますが、

「けいさつコーナー「暴力団・銃器追放奈良県民大会」開催」の部分に、

子ども見守り活動(自主防犯パトロール活動)への参加をお願いします
☆子どもに教える6つの心得「いかのおすしだ!」
 いか〜知らない人にはついていかない
 の〜車に乗るように言われてものらない
 お〜怖いと思ったらおおきなこえで「たすけて」とさけぶ
 す〜怖い思いをしたらすぐににげる
 し〜なにがあったかをすぐにしらせる
 だ〜遊びに行くときはだれとどこへ行くか家の人に言って出掛ける


と、「いかのおすし」の変形版が掲載されています。

同じページの「空(212)自然のままに」というエッセイの部分には、

大人が子どもに道を尋ねる。子どもはあわてて走り出す。老人が重い荷物を持って道を歩いている。その姿を見た若者が、「どこまで行かれるのですか。荷物をお持ちしましょうか」と声をかけると、老人が荷物をしっかり持ち直し、返事もせずに去っていく。
 なんと心寂しい時代であろうかと思う。人を見たら泥棒と思え。いやな言葉である。いやな響きの言葉である。

 本来人間の持っているやさしさを、もう一度考え直さなければならない。


と、「いかのおすし」と真っ向から対立するような感慨が記載されています。

私の心情はこのエッセイの方に近いわけですが、しかし、これが「いかのおすしだ!」と並べられていると、まるでバカにされたような気持ちになります。いったいこんな矛盾を放置して何を考えているのだろうと思ってしまいます。

これが行政の公平性なのかもしれません。あるいは特殊な考え方だけが突出しないようにというバランス感覚なのかもしれません。どうなのでしょう。私にはわかりません。

ただひとつ思うのは、もしも学校現場がこのようにさまざまな情報を右から左に流すだけの対応をしているのだとしたら、子どもはずいぶん混乱するだろうなということです。学校は、諸機関からの情報提供に対して、子どもへの影響を十分に配慮した上で対応してほしいものだと思います。
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2009年10月03日

性悪説からみた「いかのおすし」

「いかのおすし」は過剰防衛的ではないかというのが私の感覚なのですが、世の中にはむしろ「こんなものでは手ぬるい」という考えの方もいらっしゃるようです。私の考えと対極にあるのですが、大半の人が「いかのおすしって大事だよね」みたいな感覚でいるような状況の中では異色ですので、参考資料としてここにメモしておきます。

「学校でつくる危機管理のマニフェスト―善人論で子どもを地獄に落とさないために」(大泉 光一著 明治図書出版 2006/03)

紹介に「“よいこのお約束―合言葉は“いかのおすし””などの安全指導の問題点について解説した」とあるので、どのような「問題点」なのか気になります。幸いに発行元の明治図書出版のサイトで一部が立ち読みできますので、該当部分のリンクを貼っておきます。

第V章 平和ボケ学校の危機管理対策の問題点と提言(冒頭)

考え方は正反対ですが、「子どもに<いかのおすし>と丸暗記させても,突然襲われてパニック状態に陥ってしまえば,すべて頭の中から消えてしまう」といった指摘は、なるほどなのかなと思います。そのためこの本の著者は「特訓が必要である」とか「逃げるタイミングをもっと具体的に教えることが大切」と、防衛の強化を力説しています。

このように、脅威を完全に防ごうとすると、子どもら全てにスタントマン並みの特訓を施さなければならなくなります。それが、総合的な子どもの健全な成育という観点からみて妥当なのかどうか、常識的に考えればわかることでしょう。

このような対極にある考え方の論も、冷静に読めばそれなりに参考になるものだと感じた次第です。
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2009年10月02日

PTA愛育部にて

今日、月に一度の定例のPTA愛育部のミーティングがありました。「安全マップ」というのに記載する「子ども110番の家」募集に関する依頼文発送というのが、今日の活動内容でした。「子どもの安全」ということではかなり「いかのおすし」に近い活動です。けれど、実質的な子どもに対する影響という面では、かなり違ったものだと私には思われました。

確かにどちらも「不審者が子どもの安全を脅かしている」という思い込みを前提にした「不審者対策」ではあるのですが、「いかのおすし」が100%それに向けられているのに対し、「安全マップ」や「子ども110番の家」は、子どもが危険に陥る事故・事件全般を対象にしたものです。「危険を感じたらここに助けを求めましょう」というのは、「人をみたら泥棒と思え」式の教えとはだいぶ違います。「見知らぬ人であっても必要があれば助けを求めましょう」というのは、人間同士の本来あるべき信頼を根底とした考え方です。こちらの方が、同じ前提から出発してもはるかにマシではないかと、私には思えます。

実際、「困った事例」として、「子ども110番の家のステッカーをはっていると勘違いした子どもがトイレを借りにきたり、喉が乾いたから水をくれといってきたりする」という苦情があったそうです。しかし、これは苦情を言うようなものではなく、これこそが本来のあるべき姿ではないかと私には思えるのです。ステッカーを貼っていようがいまいが、気軽に他人にものを頼める地域社会こそが、本当の意味で子どもの安全と健全な発達を確保する上で重要なのだと思うのです。道を尋ねただけで不審者扱いされるような「セキュリティ意識」の高い社会には住みたくありません。

ともかくも、私の学校のPTAでは「いかのおすし」活動に積極的ではないということがわかって一安心したのですが、やはり「愛育部」というのはそれにいちばん近い活動をするところです。前回私はうっかり欠席をしてしまっていたのですが、前回の活動は「安全マップに関するアンケート」の配布でした。その集計は今後になると思いますが、過去のアンケート結果がファイルされていたので、待ち時間にそれを眺めていました。保護者の「安全」に関する意識が伺えて、興味深いものでした。

まずひとつは、アンケート回収率が非常に低いということです。過去2年分合わせて10件弱の回答があったに過ぎません。配布数の1%程度でしょうか。つまり、ほとんどの保護者は子どもの安全を、警察や学校が喧伝するほどには不安視していないということが伺えます。

そして、回答の大部分が、交通安全に関する不安でした。「この交差点は見通しが悪いので危ない」とか、「ここにガードレールを新設して欲しい」といったものです。「不審者」に関連した不安と思われるものは、「この道は下校時に人通りが少ない」とか「冬の夕方には暗い」といった指摘が合計2件か3件あっただけです(回答1件あたり複数の指摘があったので、全指摘数は20件弱になります)。その他、「遊び場として危険」に類するものが1件あったので、結局、8割ほどが交通安全で、1割強が不審者関連ということでしょう。「安全崩壊神話」といわれますが、不安感の実態としてはこの程度のようです。この実態から考えれば、「いかのおすし」が突出しているような気がするのは私だけでしょうか。

ちょっと欠席が続いた不真面目な役員の私としては、今回は直接「いかのおすし」に関する話題を持ち出すのははばかられました。もうちょっと他の役員の人と面識が十分にできたら一度意見を聞いてみようと思います。

けれど、けっこう待ち時間があったので、他のお母さんと雑談をすることができました。その中で印象に残ったのは、「うちの子が公園で木登りをしていたら、わざわざ電話をかけて注意してきた人がいた。子どもの木登りぐらいさせてやったらいいのに」というお母さんがいたことです。「うちの子は慎重過ぎて公園でしか遊ばない。子どもって、もっと冒険するものだと思うのに」と、別なお母さんは言っていました。つまり、子どもの安全は大切だけれど、あまりにそれを重視しすぎて子どもの自由を奪ってはいけないと、当たり前のバランス感覚をきちんともっておられるお母さんが多いようです。これはちょっと、ほっとする事実でした。

結局は、バランスが重要なのだと思います。一方的に「知らない人」を悪者と決めつける「いかのおすし」は、それ自体があまりにもバランスを欠いています。考案者の方々は、それに気がつかなかったのかと、不思議に思います。それよりも不思議なのは、それを推進して何とも思わない学校関係者です。このあたり、今後もうちょっと究明できたらなと思っています。
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2009年10月01日

雨中の「いかのおすし」

興味深いブログ記事を見つけました。
「鹿児島県鹿屋市で地域の安心と安全を守る活動を続けているボランティアグループ」と自己紹介のある「勇士会」という団体のブログ記事です。

http://blog.goo.ne.jp/yusikai/e/a8675ee665273f709344c8179a389dd3

集中豪雨で冠水が発生するなか、児童の下校に付き添って安全を確保したという活動記事です。地域の方々の子どもを見守る意識が高いことがうかがえます。

印象に残ったのは、

青パトが「いかのおすし」を推奨しながら学校付近を廻っていました。窓を閉めて涼しそうに…。豪雨による交通事故や災害を警戒している時に…。理解不能です。何を護りたいのでしょう?右に左に自転車で移動し、雨に濡れながら児童達を誘導している俺達を見て何も感じないのでしょうか?給料まで貰って…。


という部分です。
より緊急度の高い危険がいくらでもあるのに、「いかのおすし」はないだろうと、私も思います。

そして、一般的に子どもたちの健全な成長を確保するという大問題の前では、「いかのおすし」の重要性などとるにたらないほど優先度の低いものだと、私は思うのです。そうであるのに、「いかのおすし」がここまで喧伝されている事実に対して、私は疑問を呈したいと思っています。

おそらく、「勇士会」の方々は、そこまで「いかのおすし」が無意味なものだとは感じておられないでしょうし、まして有害なものだとは思っておられないでしょう。しかし、「雨に濡れ」ている善意の人々を、あたかも無関係のように「涼しそうに」走り去るその姿勢こそ、「いかのおすし」的教育の末路であり、「いかのおすし」的な心を再生産していくものだと、私には思えてならないのです。これを有害といわずして、何といえばいいのでしょうか。
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