2009年10月19日

「いかのおすし」と小杉・山岸論文

昨日、oikaさんよりコメントをいただき、以前に「いかのおすし」は子どもの安全を脅かす?という記事で引用した社会心理学実験に関して、「『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)あたりをご参照いただけるとわかりやすいかと思います。」とご教示いただきました。この本の著者である山岸俊男さんという名前を手がかりに探した結果、この実験と思われる報告が「一般的信頼と信頼性判断」(小杉素子・山岸俊男 1998 『心理学研究』 69(5), 349-357.)という論文に掲載されていることがわかりました。これは山岸教授のWebサイトからダウンロードできますので、ちょっと読んでみました。

これによると、1970年代には「信じやすい人の方が騙されやすい」という研究結果が示されていたのが、1980年代に入って必ずしもそうではないという実験結果が出てきたところ、1990年代にこの論文の研究者らの実験で、「信じやすい人の方が騙されにくい」という結果が出たということのようです。

学問としてこの論文は興味深いものですが、ただし、この結果を即座に「いかのおすし」にあてはめて「"いかのおすし"的教育はかえって子どもを危険にさらす」とまで言いきってしまうのは無理があるのかなと感じました。せいぜいが、そういう「可能性がある」程度を言うのが関の山でしょう。それでもちょっと引っ張り過ぎかなという感じです。

というのは、この実験で用いられた「信頼」の尺度は、必ずしも想定される「連れ去り犯」の行動や特徴とは重ならないからです。さらに、実験の被験者となったのは大学生であり、子どもとは違います。後天的な社会的行動を獲得した後の大学生と、先天的な本能の部分がまだまだ大きい子どもの行動ではかなりちがってくるでしょう。

さらに、この信じやすさ、疑いやすさは、むしろ相手の行動を分析する能力の差異によって後付け的にできたものではないかと推論されていることが重要です。これによれば、騙されやすさの方が先にあるわけですから、教育によって疑うことを植え付けることが必ずしもマイナスにはならないということになります。

ということで、詳細を知ることで「いかのおすし」批判の根拠の可能性を一つ失ったわけですが、しかし、こういった方面の社会心理学の研究が、何か手がかりになるような感覚は残りました。ひとつの取っ掛かりが見つかったので、この方向で、もう少しこの方面でいろいろな研究をあさってみようかと思っています。

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2009年10月18日

子どもの安全は「不安」ではなく「自信」から

英語圏の「いかのおすし」にあたる「Stranger danger」には、「いかのおすし」と違って批判があることを先に書きました。ただ、批判をすぐに商売に結びつけてしまうのがアメリカ人です。stranger dangerで検索するとすぐに出てくるのはこんな会社です。これは、「stranger dangerなんて時代遅れで役に立たないから、私のところの安全教育をどうぞ」という教材やトレーニングを販売する会社のようです。役に立たない「いかのおすし」なら廃止すればそれでいいと私などは思うのですが、「代案」を売る商売を考えつくとは、何とも商魂たくましいものです。

とまあ、ちょっとどうかと思うところもあるにはあるわけですが、このプログラムの説明には、なるほどと思わせるところもあります。たとえば3つの基礎として、次のようなことが書かれています。
1. 怪しい行動を見破る
外見や年齢、その人を知っているかどうかなどはあてになりません。肝心なのは、その人があなたに何をしろといっているのかです。
2. 本能と感情を取り戻す
自然な本能と感情を信じ、それにもとづいて行動することで身を守ります。
3. 自信をつける
自分を大切に思う気持ちがあれば、身を守ることの価値がわかり、自分を守ろうとするでしょう。

子どもは、騙されやすい存在です。しかし、騙されやすいからといってそれを守ろうとするばかりでは、子どもの能力は伸びません。騙されやすいと同時に、子どもには身を守る本能が備わっています。その本能を自信をつけることで育てようという考え方には、(それで商売をするのはともかくとして)賛意を表していいのではないでしょうか。

もちろん、商売ではなく子どもの安全を考える団体も存在します。たとえば、行方不明の子どもや虐待されている子どもの安全に特化した団体のサイトが、Wikipediaにリンクされています。この団体のサイトには、子どもの安全に関して、
何十年も、子どもたちは「知らない人」に近づかないように教えられてきました。しかし、この概念は子どもには把握しづらいものですし、犯人が子どもの知っている人であることも少なくありません。特定のタイプの人物に注意するよう子どもに教えるよりは、子どもに自信をつけさせて危険な状況への対応を教える方がずっと有益なのです。

と、書かれています。「自信」の意味は先のサイトとは違いますが、やはり、子どもには「不安」よりは「自信」をつけさせるべきだというのが、「Stranger danger」批判から生まれた新しい安全対策のようです。

さて、日本では「いかのおすし」批判から何か生まれるのでしょうか。いずれにせよ、子どもにとって自分自身を信じ、自分自身を尊重することはもっとも重要なことのひとつだと思います。
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2009年10月17日

便利な言葉、「不審者」

「いかのおすし」を考えていると、必ず出会う言葉が「不審者」です。そして、この言葉は、非常に便利に使われていると思います。「便利に」という言い方が不正確なら、「恣意的に」と言い換えてもいいでしょう。

マスコミでは、犯罪報道の際に、呼称がころころ変わります。最初は「○○さん」だったのが「○○容疑者」に変わり、「○○被告」から、最後には呼び捨てになります。これはときに滑稽に映るのですが、根拠のないことではありません。裁判で有罪と確定しない人を犯罪者扱いすることができないからです。警察が嫌疑をかけ、検察官が捜査を許可した段階で、「容疑者」にはなりますが、「容疑者」は「犯罪者」ではありません。裁判所に訴えられた時点で「容疑者」は「被告」となりますが、これも法廷における地位を表現したに過ぎず、やはり「犯罪者」ではないわけです。

法治国家では、「あいつは怪しい」というだけで相手を犯罪者とすることはできないのです。いくら怪しくても、現に違法行為をはたらいていない人、違法行為をはたらいているという証拠がある人以外は、「犯罪者」はおろか、「容疑者」にもなれないのです。法にもとづかずに人を「犯罪者」や「容疑者」と呼ぶことは、それ自身が違法行為です。

この「容疑者」にもできない「怪しい者」を一括りにしたのが「不審者」です。ですから、「不審者」は「犯罪者」ではありません。何の法的根拠も必要なく、ただ、任意の誰かが「怪しい」と思っただけで「不審者」は発生します。

ところがこれが、「不審者情報」となり、その統計となって数値化されると、あたかも「不審者」の増加が「犯罪」の増加を示しているような錯覚を起こさせます。

私が、現在の「不審者」の使われ方が一種の私刑であると感じるのは、こういった法にもとづかない情報が一人歩きするからです。人は、危険を感じたときに他者の行動を「怪しい」と思います。「不審者が増加している」という情報は、それだけでわずかでも変わった行動を「怪しい」と思わせる動機になります。この「怪しい」感覚が更なる「不審者」を生み、「不審者情報」は自己増殖していきます。

もちろん、「怪しいな」と思ったときにそれなりの注意を払うのは大切なことでしょう。車のナンバープレートをちょっと控えておくとか車種を覚えておくというのは、万一の事態が発生したときに重要な手がかりになります。「不審者」を警察に届けるのも正当な自衛でしょう。実際、私もかつてコソ泥に侵入されたことがありますが、後に判明した犯人は典型的な「不審者」風の男でした。見かけない人が何をしているのだろうと関心をもち、ときにそれを他の人々と共有することは、犯罪の防止になることが少なくないでしょう。

しかし、「不審者」は、正体がわからないからこそ「不審者」であるわけです。見かけない人でも実は何らかの業務で周辺をうろついていることもあるでしょう。周縁化されて行き場のない人々であるのかもしれません。そういった正体がわかれば、「不審者」は「不審者」ではなくなります。「何をしでかすかわからない」から「怪しい」のであって、素性が知れればそれでいいのです。

ですから、「不審者」をなくして安全な社会をつくっていくには、「不審者情報」に敏感になって「不審者」の発見に努めることではなく、「不審者」の素性を明らかにしていく作業が必要なのです。「不審者」を見つけ出して統計化することは、どんどん不安感を増加させるだけです。そうではなく、地域で「不審者」の存在を感じたら、警察を利用するか、あるいは自分自身で、その「不審者」がいったいなにをしているのかを明らかにすればいいでしょう。そうすれば、「不審者」は消えてなくなります。

私自身、警察に職務質問されるのは嫌なものです。けれど、いわれもなく「不審者」として統計化され、「犯罪の増加」の根拠にされるのはもっと嫌なことです。だれでもそうではないでしょうか。

「不審者」は、無根拠にレッテルを貼って統計化するのではなく、その場その場で解消していくことが重要なのではないでしょうか。現状は疑いが疑いを呼ぶ無法地帯です。これではいけないと、「いかのおすし」ついでに感じた次第です。
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アメリカの「いかのおすし」

「いかのおすし」は、日本だけの現象なのでしょうか?
日本は、犯罪の発生件数だけをとるならば、世界でも有数の安全な国です。一方、アメリカ合衆国は、犯罪が多発することで知られています。アメリカなら、日本どころではない「子どものための安全教育」が行われているに違いありません。

ところが、ちょっと調べたぐらいでは、これはなかなか発見できませんでした。こういったものは、実際に生活してはじめて体験するものなのでしょう。実際、私は「いかのおすし」を、子どもが小学校に入学するまで知りませんでした。知らないものは調べようもないのです。

それでもようやく発見しました。アメリカ合衆国だけでなく、イギリス、オーストラリアなど英語圏で広く用いられている標語、「stranger danger」です。

「stranger danger」は、たぶん「知らない人に気をつけて」ぐらいに訳せばいいのだろうと思いますが、もうちょっと強く危機を訴えているような感じです。Wikipediaに詳しい解説がありました。

http://en.wikipedia.org/wiki/Stranger_danger

部分的に抄訳すれば、こんな感じでしょうか。

Stranger dangerは、「知らない人」による子どもたちへの危険と考えられているものを説明したものである。このフレーズは、未知の大人によってもたらされる悪意による危険に関連するさまざまな懸念を要約したものである。このフレーズには幅広い用いられ方が見られ、多くの子どもたちが成人までに耳にするものである。子どもがこのアドバイスを覚えるのを助けるため、多くの本、映画、広報が用いられてきている。この概念は、ほとんどの子どもの誘拐や危害が知らない人によるものではなく、子どもがよく知っている人や血縁関係者によるものであるという事実を無視しているとして批判されてきている。


「stranger danger」は、まさに英語版の「いかのおすし」です。その歴史は古く、少なくとも1970年代に遡るようです。ただし、「いかのおすし」と大きく異なるのは、一方でそれを広めようとする人々がいるにもかかわらず、「stranger dangerなんて博物館行きだ!」と批判する人々も少なくないということです。日本で「いかのおすし」がおかしいという声が(このブログ以外)ほとんど聞かれないのと実に対照的です。

その批判の内容は、上記のように子どもが犠牲者になる犯罪が「知らない人」によるものより「知っている人」による方が多いということを踏まえたものの他、Wikipediaの同じ記事には次のように述べられています。
知らない人という形をとった危険の可能性を繰り返し子どもに注意するプロセスは、潜在的な危険を誇張したものであり、不信感を不必要に広めるものだとしても批判されてきている。特に、(一例をとれば)アメリカ合衆国では年間80万人の子どもが少なくとも一時的には行方不明になっているが、「古典的な知らない人による誘拐犠牲者とみられるのは」わずか115に過ぎないという事実を考えれば、この批判はなおさらである。その他の理由によって子どもが危機にあるような状況では、(援助を期待できる)知らない人を避けることは、それ自体が危険である。たとえば、「さらわれる」ことを怖れるあまり救援隊から隠れつづけた11歳のボーイスカウトの少年の事件などがそうである。


つまり、日本とは桁違いに「子どもの連れ去り犯罪」の多発しているアメリカ合衆国でさえ、「知らない人」による危険性は誇張されていると批判されているのです。そして、「不信感を不必要に広める」弊害もはっきりと指摘されています。

こういった実状の一端をWikipediaという限られた窓口から覗くだけでも、「いかのおすし」を無批判に受け入れる日本の現状がいかに異常であるかということがよくわかります。怖いのは、「いかのおすし」そのものよりも、批判が一切封じられているという事実かもしれません。すべての人がおかしいと思う必要はありません。「やっぱり"いかのおすし"は必要だよ」という人が多数でもかまわないでしょう。けれど、私以外にはほとんど誰も「"いかのおすし"はおかしい」と言わないのはおかしいではありませんか。

何かこれには、私の気づかない原因でもあるのでしょうか。まだまだ「いかのおすし」を巡る謎は解明されていないのかもしれません。

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2009年10月16日

リスクは確率論

リスクを論ずるとき、それは確率論だということを忘れてはなりません。この考え方は感情的には納得しにくいものです。けれど、やっぱりリスクは発生確率を抜きにして論じることができません。

リスク論でもうひとつ重要なのは、リスクの想定被害です。こちらの方が忘れられることはありません。しかし、発生確率に関しては、ときにはうっかりと、ときには恣意的に無視されることが多いのです。

たとえば、人工衛星が頭の上に落ちてくるというリスクを回避するために外出を控える人はいません。このようなリスクが存在しないわけではないのです。実際、過去に人的被害は出ていないものの、オーストラリアの牧場で牛が人工衛星の破片の直撃を受けて死亡しています。この瞬間にも、戸外にいるあなたの頭上に人工衛星の破片や隕石のかけらが直撃しないとは限らないし、その場合、大怪我や即死につながることも十分考えられます。しかし、その発生確率は天文学的に低いものです。だから、だれもがこのリスクを無視して生活するわけです。

一方、最近流行のインフルエンザに対するリスクには、人は敏感です。マスクは飛ぶように売れますし、うがい、手洗いの励行が叫ばれます。死亡例がないことはないとはいえ多くの症状は発熱や吐き気で命に関わるものではないにもかかわらず、このようにリスクに対する対策がとられるのは、発生確率が非常に高いからです。

ですから、あらゆるリスクの対策は、想定被害と発生確率を乗じた期待値にもとづいて必要性が判断されます。その上で、対策の実行においてもうひとつ重要な要素は、対策手段の実施可能性や実施に要するコストです。

たとえば、地球と小惑星の衝突は、まさに天文学的に低い確率でしか起こりません。数億年に1回の確率は、無視できるほど小さいものです。しかし、その被害は人類滅亡を含む巨大な破滅です。想定被害と発生確率を乗じた場合、対策をとるには十分な期待値になるかもしれません。しかし、一部の研究や研究的な試験を除けば、具体的な対策は実施されていません。それは、対策の実施可能性が現段階では極めて低いからです。どれだけリスクが大きくても、それを避ける有効な手段がなければ対策を行うのは無意味です。逆に、リスクが小さくてもわずかの投資でそれを避けることができるなら、リスク対策は広く実施されることになります。たとえば、予備の電球を常備しておくことは多くの家庭で広く行われていますが、電球が切れることによるリスク被害はたいしたものではありません。それでも、予備の電球の購入が特別な追加投資や余分の手間を必要としないものであるため、「同じことなら安全側」という配慮から予備の電球が購入されるわけです。

リスクを論じる場合、これら3つの要素の分析が欠かせません。ところが、実際には、想定被害だけが一人歩きし、あとの2つを恐怖感で抑えつけてしまうことが少なくないのです。これは、単に理性を欠いた言動である場合もありますし、通常では説得力をもたないリスク対策を購入させようという商売上の動機から欺瞞的に行われる場合もあります。自分自身の仕事の枠を広げようという誤った仕事熱心が原因の場合もあるでしょうし、特定の社会構造を実現したいという政治的な動機によるものもあるでしょう。

実際、「核戦争になればすべておしまいですよ。核シェルターへの投資なんて安いものです」といわれれば、「そうかな?」と思うのが人情です。けれど、このような欺瞞に乗ってしまうことは、より多くの人々の安全を確保する「核のない世界」の実現を遅らせるだけでしょう。リスクを論じるときには、常に理性が必要とされるのです。


「いかのおすし」も、その例外ではありません。子どもを狙う「連れ去り犯罪」の想定被害は実に大きいものです。ときには子どもの命にかかわり、そこまでいかない場合でもPTSDによる長期的影響など、無視できない被害が発生します。この事実は、決して無視してはならないものです。

しかし、この想定被害だけを前提に「だから"いかのおすし"だ!」というのは、あまりにも短絡的です。このような被害がどの程度の確率で発生するのか、そして、その有効な対策のコストはどうなっているのかを検証しなければなりません。

まず、発生確率は子ども一人当たり年間に百万分の1以下です。犯罪統計から余裕もって見積もってもこの程度なのです。日常的に発生する交通事故被害とはスケールが完全に違っています。

そして、対策の実施可能性は非常に低いものです。一言でいってしまえば、百万分の1以下の確率で発生する犯罪に統一的な対策などあり得ないからです。数多く起こる犯罪であれば、「傾向と対策」のようなものを導き出すことは出きるでしょう。しかし、年間数件しか発生しない犯罪に対して、その傾向を分析したところで、それは多様な想定し得る手口のごく一部があらわれたに過ぎません。いくらでも「新手の手口」は発生するでしょう。そして、それを予防的に想定して次から次へと防衛策を講じることは、ほとんど滑稽でしかありません。

このように、仮に「いかのおすし」が想定被害から見れば正当な対策であるとしても、発生確率と実施可能性の2つの要素を組み合わせれば決してそうではないことがわかります。

そして、「いかのおすし」はそもそも対策として誤っている可能性が高く、また、その弊害も無視できないほど大きいものです。

リスク論の立場からいっても、「いかのおすし」は廃絶すべきといえるのではないでしょうか。

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2009年10月15日

子どもへの安全指導はどうあるべきか

「いかのおすし」を廃止してほしいというのが一児の親である私の願いなのですが、おそらくこれは、「児童への安全指導は必要です」という立場で一蹴されることでしょう。しかし、私は、「いかのおすし」を子どもに唱えさせることが何ら子どもの安全を高めることにもならないと思うのです。本当の意味での安全指導は、全く異なった形でなければならないと思います。そこで、今回は「対案」として、私の考える有効な「安全指導」を説明したいと思います。
なお、私は教育関係者でもなく、また学校で教育関連の学問を学んだこともありません。大学卒業すらしていません。ですから、専門家からみれば滑稽なほど誤ったところもあるかもしれません。それでも、「いかのおすし」よりもはるかに効果の高い安全指導があるはずだという点においては、誤っていないはずです。もしも私にその他の点で誤りがありましたら、ぜひ専門家の方の訂正をいただきたいと考えております。

まず最初に重要なのは、小学校レベルの教育においては、すべての教科を含めたすべての指導が密接に絡み合っているという事実です。国語で文字の読み書きを指導することは算数の文章題読解につながります。音楽や図工は運動神経の発達促進という面で体育と深く関係しています。生活科と括られた理科と社会は、初等教育レベルで深く絡みあっているからこそ、統一的に教えられるようになっているわけです。

安全指導も例外ではありません。これは、生活科や道徳教育と結びついて行われるべきものです。これらの教科と矛盾や齟齬があってはならないでしょう。

そういった出発点からはじめれば、安全教育は何よりも「大人の常識」の押しつけであってはならないことがわかります。そうではなく、子どもら自身に考えさせ、できるならば議論させて、「何が問題なのか」「その解決のために何をすればいいのか」を見出させていくのが正しい指導方法ということになります。

指導者は、問題点となっている事実を、わかりやすく、しかし正確に説明します。「子どもの安全」を課題とするのであれば、子どもがどのような事故や犯罪に巻き込まれるのか、統計にもとづいて重要な順に説明すべきでしょう。この場合、当然ながら第一にくるのは交通安全であり、次にくるのが家庭内の虐待でしょう。以下、子ども同士のトラブルや遊び場での事故などが続き、おそらく誘拐や通り魔ははるかに優先順位の低いこととして取り上げられることもないでしょう。

しかし、社会的な恐怖を全く反映しないわけにもいかないかもしれません。指導の中で、誘拐や通り魔といった犯罪の可能性を取り上げることが有益である場合もあるかもしれません。そういう場合でも、指導者は最初から大人の常識を教えてはいけません。まず、子どもたちに考えさせることです。

たとえば誘拐犯の事例を(警察の流すイメージではなく事実にもとづいたケーススタディとして)子どもたちに考えさせたとしたら、子どもたちはどんな反応を返すでしょう。昨今の闘争的なテレビ番組やゲームの影響を考えるなら、多くの子どもが「たたかう」という答えを出すのではないでしょうか。指導者が介入するタイミングはここです。そして、「いかのおすし」に何らかの真実が含まれるとしたら、この部分でしかありません。

「たたかう」という結論を自ら考え出した子どもに対してそれが実際には被害を拡大すること、そうではなく拒否する、逃げる、叫ぶ、助けを求めることが実際にはより有効なことを事実にもとづいて説明すれば、子どもは自らの誤りを再検討し、新たな考えを納得して受け入れることができます。重要なのは、子どもに考えさせることです。そうすることで新たな考え方は子どもの武器になり得ます。

この違いをはっきりと意識してください。子どもに考える余裕を与えずに「これが正しいから」とばかり「いかのおすし」を斉唱させることは、百害あって一利なしです。そのようにして刷り込まれた「いかのおすし」は、子どもの発達を阻害し、偏見を生み出し、柔軟に危機に対応する能力を削ぎ落とします。一方、子どもが自分で考えて身につけた知恵としての「拒否する、逃げる、叫ぶ、助けを求める」手段は、必要に応じて子ども自身が柔軟に使えます。一般化されて教えられた場合と異なって事例に即して考えていますから、不必要に消極的な態度や一般化された偏見を生じさせる危険性はほとんどありません。実際の危機に際して、よりその場に即した応用が期待できるでしょう。

「そこまで安全指導に時間をかけていられない」のが現場の実状なのかもしれません。時間がないときに、とりあえず「いかのおすし」を一斉に唱えさせるのは簡単で、アリバイにはなるでしょう。しかし、無意味なこと、有害なことをやって意義のあることの代用だと主張するのはおかしなことです。

もしも時間がないのなら、「有効な安全指導を行う時間がとれない」事実を報告しましょう。時間がないのは教員の責任ではありません。もしも文部科学省が安全教育を必要なものだと考えるなら、指導要領を改訂してくれるでしょう。そうでなければ、やっぱり行き過ぎた安全教育は不要なのかもしれません。

以上、私の考える「いかのおすし」に代わる「安全指導」を説明しました。本音でいえば、そういった安全指導さえ必要がないほど、日本の犯罪発生率は低いと思っています。けれど、何事であれ、子どもら自身に自分の頭で考えさせることはいいことです。題材は何であっても構いません。やってはならないのは、無批判に「これが正しい」と大人の考えを刷り込むことです。その弊害は、「いかのおすし」に止まらない一般的なものだと多くの人が認めるでしょう。だからこそ、現代の教育が昔と違った形に進化しているのだと思います。

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2009年10月14日

メインサイトを開設しました

本ブログ「いかのおすし対策協議会」も、開設から1ヶ月あまり、情報が少し錯綜してきたので、別途メインサイトを立ち上げることにしました。こちらです。

http://sites.google.com/site/ikanosushi/

また、同時に、ご賛同いただける方の「協議会」への参加も募りたいと思います。メインサイトの方からご連絡いただければと思います。「協議会」を単なるブログの名称から、実質をもった集まりへと進化させていければと願っております。
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2009年10月13日

夢の中の「いかのおすし」

小学校1年生の息子は、空想力の豊かな子どもです。いろいろと空想とも現実ともつかない話をしてくれます。もっとも、最近はそのストーリーにかなりマンガの影響が強く見られるようになってきたので、ときどき興ざめします。まあ、それも成長の過程なのでしょう。

さて、今日は、一緒に歩きながら、夢の話をしてくれました。昨日の晩見た夢、一昨日の晩に見た夢と、順に話してくれるのです。「初日の出の上に乗って地球を見下ろしていた」というようなお目出度いというか気宇壮大な話があるかと思えば、「お小遣いで1370円もらった」というようなやたら現実的な話があったりとバラエティに富んでいます。が、3日前に見た夢というのがちょっと気になりました。

「ヒゲづらのおじさんに追いかけられて、なんとか防犯ブザーで防いだ。校長先生にその話をした」というもの。

ちなみに、「ヒゲづらのおじさんというのは?」と聞いてみると、「ヒゲだらけでニタニタ笑ってる人」という形容。「それって父ちゃんと同じやない」と私が笑うと、彼は真剣な顔で「いや、人相が悪いねん」と。「なぜ追いかけられたの?」と聞くと、「ランドセルをひったくられそうになった」との説明。

実際にそういう経験、それに似た経験があったとは考えにくいので、これは例によってマンガの影響なのでしょう。あるいは、学校で「知らない人に気をつけましょう。知らない人に声をかけられたら先生に言いましょう」と繰り返し教えられているせいなのかもしれません。

ちなみに、「夢の話」というのもいい加減なもので、たとえば4日前、5日前の夢をそういうふうに具体的に覚えているわけはなく、口から出まかせの空想話です。そうではあっても、「知らない人に気をつけましょう」という「いかのおすし」的教育の影響がこんなにもはっきりと出ていることに、改めて愕然としました。

「不審者」のイメージは、こんなふうにしてできていくのでしょう。それは日常的な実体験によってできるものではありません。学校で教え込まれるステレオタイプです。「こういう人は怪しい」という根拠のない予断を、学校では日々子どもに教えているわけです。

その一方で、「人を見かけで判断してはいけない」とか「偏見は差別を生む」という教育も、学校では行われるわけです。子どもが混乱するのをどうやって避けろというのでしょうか。

そんなふうに思えば、学校というところは、本音では「人を見かけで判断」する「偏見」と「差別」に満ちたところではないかという気がしてきます。それが現実世界であり、学校は現実世界の入り口なのだとすれば「そんなものさ」と言ってしまうこともできるのかもしれませんが、それはあまりにさびしいことだと、私は思います。
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2009年10月12日

備忘

きちんと記事に書く時間がないので、備忘のためだけ。

以前、「いかのおすしなんか生ぬるい」という意見の掲載された本を参考資料としてあげましたが、同じように「「いかのおすし」は、いまいちです」と、より厳しい「安全教育」を主張しているサイトが合ったのでメモしておきます。

よりよい生活の為のライフコーチングとコンサルタント

こちらでは、「誘拐犯からの安全脱出セミナー」をされているとか。子どもが被害者となる「誘拐」犯罪がどの程度の頻度で発生しているのか、その「誘拐」の内容はどうなのか(たとえば親権のない離婚親が子どもを連れ出しても「誘拐」です)、などを検討すれば、この「セミナー」がいったいなにを目指しているのか、非常に奇妙に感じます。が、それ以上の突っ込みは本日はなし。おそらくこういったセミナーの存在を奇異に感じない社会の方が異常なのでしょう。

もうひとつ、何か教育関係に関する意見を書いてあるブログなのですが、記事の内容はともかく、たったひとつ、大きく賛同できる一行があったのでメモ。

「いかのおすし」なんて子供に教えたら、まともな人間に育つとは思えないです・・・

なんとなく・・・

「まともな人間」という言い方はともかく、健全な成長に「いかのおすし」が非常に有害であるということは、このブログで繰り返し述べてきていること。またも「私一人じゃなかった」という気持ちで、少しほっとしました。
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2009年10月11日

幼児教育の「いかのおすし」への視線

私は「いかのおすし」に小学校で初めて出会ったのですが、「いかのおすし」キャンペーンは実に広く行われていて、小学校での展開はその一部に過ぎないようです。具体的には、幼稚園、保育園で「いかのおすし」キャンペーンが行われた報告が、検索結果には数多くかかってきます。

私が暗澹とした気持ちになるのは、そういった報告のほとんどが、「いかのおすし」に何ら疑問をもたず、「自分たちは頑張っているのだ」「子どもたちはよく聞いていた」というような「いかのおすしは当然」という立場に立ったものだということです。そこには、「与えられたものをこなすのが自分の仕事だ」という、現代の誤ったプロフェッショナル意識が見えます。本来のプロフェッショナルな意識とは、専門性にもとづいた職務に忠実であることであり、組織に忠実であることではありません。教育の現場では、子どもの健全な成長に尽くすことが職務です。上長からの指令にしたがうことは、組織に忠実なことですが、これが職務に忠実であることと必ずしも合致するとは限らないのです。

「いかのおすし」を推進することが子どもにどのような影響を与えるかを専門職として検討することが本当の意味でのプロだと思うのですが、そんなことを考えている形跡は、少なくともWeb上を少し探したぐらいでは、出てきません。それでも、現場レベルというよりはもう少し上のレベルで「いかのおすし」に疑問を呈している幼稚園関係者のエッセイを見つけましたので、資料としてあげておきます。

広島県のある幼稚園で保護者に配布する「おたより」をWebで公開しているものらしく、そのエッセイにある一文です。
小学校の入学式に行ってきました。毎年のことでずが、 校長先生の大切なお話しに「いかのおすし」と呼ばれるものが あります。学校生活の第一歩でこのような話が例外なく求められていることが日本社会が負っている問題だと思います。 見ず知らずの人にはついていかない。大人は必ずしも信頼で きるものではないのだから。子ども達に大人とは無条件に信 頼できる存在。大人になることは素晴らしいことだと子ども 達に胸を張って言える社会にしたいものですね。不信感にあ ふれた人間関係は、子どもの成長に何も良いものを産みません。 幼稚園は、小さな子ども達が初めて母親や父親の保護の手 を離れて保育者という大人の保護と見ず知らずの子ども達の 集団の中に身をおかなければなりません。ここで人間への信 頼を獲得し、仲間とやりとげる面白さ、協力して歩む素晴ら しさを獲得していくのです。その為にも、登園までの毎日を しっかりと子どもと手をつないで歩んできて欲しいと思いま す。そして幼稚園に来ると、まるで忍者のようにすっと消えるように、幼稚園への信頼の思いの雰囲気を十分に伝えなが ら。保護者が子ども達に不安をあおるようにしないで下さい。 人間関係はとてもとても素晴らしいのだと。

幼稚園での「いかのおすし」ではなく、小学校入学と同時に実施される「いかのおすし」に対する幼稚園関係者としての疑問です。この記述からは、「『いかのおすし』は子どもにの成長に悪影響を与える」という強い思いが伺えます。全くその通りだと思います。「人間関係はとてもとても素晴らしい」。それこそがあらゆる教育の原点であると思います。

このような考え方から、「いかのおすし」をはねのけられている幼稚園・保育園も多いことでしょう。しかし、小学校は管轄外となって、新入学の子どもが「いかのおすし」を強制されるのを防ぐことはできません。一歩踏み出す必要がどうしてもあるのです。

「自分のところだけはそういうことを受けつけない」というのは、プロフェッショナルとして職務に忠実な行為でしょう。しかし、それだけでは最後まで職務に忠実であり通せないと思うのです。自分の管轄以外にも積極的に働きかけ、そういう悪習をやめさせるように動いてこそ、本当の専門職ではないでしょうか。大変なことだとは思いますし、なかなかできることではありません。けれど、そんな専門家の出現を願ってやみません。

教育関係ではありませんが、福祉関係で、現行の「不審者」に対する社会の視点がおかしいと考えられているところもあるようです(たとえばこちらのブログ)。あらゆる教育関係者、福祉関係者は、自分の学校や施設内のことだけでなく、広く社会に目を向けて、本当の意味での教育・福祉の実現を目指していかなければならないのではないかと思うのです。

posted by 松本 at 10:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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