2009年10月30日

Kulkofsky博士の論文について

昨日、Sarah Kulkofsky博士の「Stranger Danger: 子どもに対する誘拐対策教育の効果アセスメント」という論文を紹介しました。アメリカで2003年に発表されたこの論文に書かれたような事情は、現在もそれほど変化していないようです。

この論文の骨子は、
  • 典型的な「知らない人」による連れ去りの発生リスクは落雷事故程度の低さである。
  • 伝統的な防犯教育は効果が立証されていない。
  • BST法による防犯教育は、単独で行われた場合には効果が立証されているが、教室で行われた場合にはその効果は低く、一定割合の落ちこぼれを生じる。
  • BST法の効果が立証されているのは、ごく短期的なものに限られている。
  • BST法は時間、費用、労力の投資が大きい。
  • 現実の低リスクに対して効果のない伝統的な防犯教育を施す意味が全くないだけでなく、効果があるかもしれないBST法でも対費用効果から考えれば無意味である。同じ資源を他の安全教育に回すべきだ。

  • ということになります。

    この論文にも書かれていることですが、博士が私へのメールで特に注意を喚起したのは、防犯教育と現実の被害のミスマッチです。すなわち、
    合衆国では、「知らない人」による連れ去りの被害者のほとんどはティーンエージャーか思春期直前の子どもであり、児童・幼児ではありません(同様の統計は日本でもあるのではないでしょうか)。
    と、メールで述べられていることです。アメリカではstranger-danger教育は5歳前後に行われることが多いらしいので、ここに完全なミスマッチがあるのです。

    私は博士に、私の考えとして、「いかのおすし」の弊害として
    1. 子どもの正常な心理的発達を阻害すること
    2. 社会的弱者に対する偏見を子どもに植え付けること
    3. 犯罪が増加しているという誤った認識に基づいていること
    4. 誘拐に対して役に立たないばかりか時に危険であること
    5. 時間と費用の無駄であること
    6. 検討もせずに受け入れる教師は子どもにとって模範にならないこと
    を挙げたのですが、博士はこれらに対して、3、4、5は、この論文が根拠となるだろうとおっしゃいました。ただし、その他に関しては意見を留保され、1については専門家としてそういう事実はないのではないかと疑問を呈されました。

    1に関する博士と私の見解の相違は、おそらく「子どもの発達」でどの時期を重視するかの相違でしょう。子どもの発達に特に重要なのは乳幼児期であり、博士はその時期にはまだ防犯教育は施されていないことを指摘しています。それは確かにその通りです。しかし、私は子どもは常に成長を続けるものであって、「いかのおすし」教育を受ける時期にも悪影響は好ましくないと思います。ただ、私の見解を支持する証拠は、まだ見つかっていません。

    2、6に関しては、日本の固有の事情があるかもしれません。これは私の主要な論点でもありますので、この先も検討していきたいと思います。

    4の「時に危険」ということに関しては、「人を疑う人ほど騙されやすい」という研究結果が「いかのおすし」批判においてはあてはまらないだろうということを以前に確認しました。しかし、別の意味での危険性が欧米では指摘されています。そのあたりを、次回にでも紹介したいと思います。
    posted by 松本 at 15:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2009年10月29日

    防犯プログラムに関する研究論文の紹介

    英語圏では、「いかのおすし」のような防犯プログラムを俗にstranger-dangerと称します。日本で「いかのおすし」に関する研究がほとんど見られないのに対し、外国ではこのような防犯プログラムに関して、いくらかの研究が進んでいます。今回は、そういった研究の中から、2003年に発表された「Stranger Danger: An assessment of the effectiveness of child abduction education」という論文を紹介します(原文はこちら)。著者であるSarah Kulkofsky博士(論文執筆時はコーネル大学、現職はテキサス工科大学)の了解を得ていますので、今日は翻訳全文を下記に掲載します。
    Stranger Danger: 子どもに対する誘拐対策教育の効果アセスメント
    コーネル大学
    Sarah Kulkofsky
     子どもが被害者になる誘拐事件は非常に目立つことから、子どもをもつ人々や地域社会に恐怖を巻き起こす。エリザベス・スマートのおぞましい誘拐事件や、5歳のサマンサ・ラニオンの誘拐、殺人、性的暴行のような事件が世間の耳目を集めると、多くの場合、このような悲劇が二度と起きないよう何か対策が必要だという反応が引き起こされる。際立った事件は法制度(たとえばMegan法)や組織(たとえば全国子ども失踪・人身売買センター)、子どもに防衛技術を教えるための教育プログラム(たとえばSafe Street)の創設のきっかけとなる。
     1980年代以降、子どもに対する犯罪への意識が拡大してきたことを背景に、犠牲者とならないようにする方法を子どもたちに教えることを目的にした教育プログラムが増加してきた。アメリカ全土の子どもたちのうち3分の2近くがこのような犯罪防止プログラムに参加していると答えている(Finkelhor & Dziuba-Leatherman, 1995)。こういったプログラムは非常に一般的なものであるが故に、教室におけるその効果をアセスメントして、教育における貴重な時間と予算に価するものであることを確認することが重要となる。
     今日に至るまで、「伝統的な」誘拐防止プログラムの有効性を支持する証拠はほとんどない。これらのプログラムはさまざまな方法で子どもにメッセージを伝えるものであるが、おもに3つのテーマに集約される傾向がある。第一には、知らない人は外見がいい人に見えても危険であるということを子どもに教えるもので、一般に「stranger-danger」という用語で表現される概念である。第二には誘いの言葉を学ぶものであり、第三には誘拐犯から逃げる方法である。この点に着目した研究の数は実際のところごくわずかでしかないのだが、誘拐を避けるために必要となる適切な方法、知識、行動が子どもに見られたことを示す研究は報告されていない(Bromberg & Johnson, 1997)。
     伝統的なプログラムと対照的に、「行動技術訓練」(Behavioral Skills Training - BST)法に関しては比較的多くの研究が実施されてきている。BST法は指導、モデル化、リハーサル、顕彰、フィードバックによる修正に力点をおいた経験則に基づいたアプローチである。BSTプログラムは「stranger-danger」そのものを強調するわけではないが、知らない人からの誘いにどう対応すべきかは子どもに教えている。単独の子どもに対するBST訓練を検証した複数の研究によれば、これらのプログラムは子どもたちに誘拐防止の方法を教える上で効果があることが示唆されている。ただし、これらは多大な労力を要する訓練であり、子どもが身につけた技術が長期にわたって持続することを支持する明確な証拠は得られていない(Bevill & Gast, 1998; Bromberg & Johnson, 1997)。多人数の集団に対してBST法が用いられた場合、その利便性を示す実験結果はごく限られた支持しか与えていない。教室単位で行われたBSTプログラムの効果を検証した研究では、確かにこれらのプログラムの成績は伝統的なプログラム(及びまったくプログラムを施さない場合)よりも優れてはいるが、それでも必ず相当数の子どもが適切な誘拐防止技術を示せずに終わっている。加えて、長期的な技術の持続に関しては、その証拠は存在しない(Bevill & Gast, 1998; Bromberg & Johnson, 1997)。
     伝統的なプログラムが予防技術の指導に有効性をあらわさず、BSTが少なくともそこそこの成果を見せるらしいということから、研究者らは就学前の子どもや幼稚園児にBST訓練プログラムの実施を提唱してきた。たとえば、BrombergとJohnson(1997)は、「行動技術訓練プログラムの実施に必要な時間、費用、労力の投資は、わが国の子どもたちを守る上で重要な成果をもたらすだろう」(p.630)と論じている。しかしながら、下記に論じるように、広く信じられているリスクではなく子どもたちの実際のリスクという文脈においては、BSTプログラムはそのような「重要な成果」をもたらすものでもないのかもしれない。
     誘拐は一般に多くのメディアの注目を集めるものであるが、実際には非常に稀なものである。家族以外の犯人による誘拐というもっとも危険なものがステレオタイプ的な誘拐の形態であるが、これはメディアの誘拐報道でしばしば注目を集めるものである。近年の全国的な推計では、年間115件程度のステレオタイプ的な誘拐が発生しているに過ぎない(Finkelhor, Hamer, & Sedlak, 2002)。よって、ステレオタイプ的な誘拐のリスクは、ざっと60万分の1であり、落雷事故のリスクと同程度に過ぎない。さらにまた、ステレオタイプ的な誘拐のほとんどが青年期の子どもを被害者とするものであり、児童・幼児を被害者としたものではない。通常の学校ベースの防犯プログラムの対象となる5歳以下の子どもは、ステレオタイプ的な誘拐のターゲットとなる可能性がもっとも低いのである(Finkelhor, et al., 2002)。これら児童・幼児期の子どもにとって最大の危険は知らない人による誘拐ではなく、家族内での連れ去りなのである。このような家族による誘拐は、全年齢の子どもを通じて家族以外の犯人による誘拐よりはるかに頻繁に発生している。そして、知らない人を誘拐犯人と想定した防犯プログラムは、家族(たとえば親権のない親)による連れ去りに関してはまったく効果を発揮しない。
     知らない人を犯人とする誘拐の発生率が低いことを前提にすれば、BSTプログラムが「 わが国の子どもたちを守る上で重要な成果をもたらすだろう」という結論は再考すべきだと思われる。教育関係者は、高価で時間を浪費するBSTプログラムが、ステレオタイプ的な知らない人による誘拐の希少性に照らして(さらには長期的効果の証拠がほとんどない事実に即して)、本当に価値のある事業であるのかどうか判断すべきであろう。加えて、教育関係者は現行の伝統的なプログラムの実施に関しても再考すべきである。限られた時間とリソースを考慮すれば、安全教育は子どもが直面するより関連性の高いリスク、たとえば、いじめ、自転車事故、家庭内での虐待などに集中する方がより有益であるのかもしれない。誘拐防止教育のプログラム化は、より大きな誘拐リスクにさらされている思春期以後の子どもを対象に将来開発され得るかもしれないし、これら成長した子どもであれば、児童・幼児期の子どもに比べて認識能力が高いためにそういったプログラム実施からより大きな利益を受けられるのかもしれない。さらに、単に知らない人の誘いに反応するといった範疇を越えてより多様な状況に適用できる防犯技術に関する将来の研究が必要である。そういったプログラムが開発されるまでは、教育関係者や行政関係者は、誘拐事件を現象させるための戦略としての誘拐防止教育プログラムを考え直す必要があるだろう。

    参考文献
    Bevill, A.R. & Gast, D.L. (1998). Social safety for young children: A review of the literature on safety skills instruction. Topics in Early Childhood Special Education, 18, 222-234.
    Bromberg, D.S. & Johnson, B.T. (1997). Behavioral versus traditional approaches to prevention of child abduction. School Psychology Review, 26, 622-633.
    Finkelhor, D. & Dziuba-Leatherman, J. (1995). Victimization prevention programs: A national survey of children's exposure and reactions. Child Abuse and Neglect, 19, 129- 139.
    Finkelhor, D., Hammer, H., & Sedlak, A.J. (2002). Nonfamily abducted children: National estimates and characteristics. Washington, D.C.: U.S. Department of Justice, Office of Justice Programs, Office of Juvenile Justice and Delinquency Prevention

    いろいろと示唆に富む論文です。この論文に関するコメントは、明日にでも別エントリーで書きましょう。
    posted by 松本 at 14:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2009年10月28日

    「いかのおすし」へのいくつかのまなざし

    「いかのおすし」に正面切って反対しているのは(それが生ぬるいとする私とまったく異なる立場を除けば)、私ぐらいしかいないように思います。そういう状況に寒気を覚えるわけですが、しかし、正面切って反対とは言わないまでも、「おかしいんじゃない?」と感じる人ならいないこともないようです。

    こちらのブログでは、
    数日前、我が社宅の敷地内で不審者が目撃されたらしく、
    「気を付けましょう」という主旨の (社宅内) 事務連絡あり。
    不審者の特徴として、
    ・サラリーマン風
    ・スーツ姿
    ・黒のカバン持参
    などが挙げられてて、
    それとおぼしき人物を見かけたら、すぐ交番へ!
    とビックリマークまで付いてたんやけど、
    そもそもここ社宅やから、住人みなこれに該当するんじゃ…?
    などと思ってしまった俺は、(中略)
    また、その中で謳われている『いかのおすし』ってやつも
    個人的にどうもピンと来んくって。(後略)

    という感想が述べられています。「不審者」をあまりあおりたてると、「住民みなこれに該当する」というようなことになります。結局、子どもに「大人は信用するな」と伝えるのと同じ効果しか生みません。これは悲しいことです。

    また、こちらのブログでは、
    子供の安全を守るために家庭でこの合言葉を交わしましょうと告知する上越市の不審者情報ページ。このページにジャンプする前に、「いかのおすし」からどんな安全対策が浮かぶか想像できる考えて欲しい。果たして、「いかのおすし」が「安全対策」を連想させるキーワードとなっているのだろうか?謙信公が泣いている。

    というエントリーがあります。この方は、はっきりと「いかのおすし」を批判しておられるわけです。ただし、その批判の内容が、多く見られる「覚えにくい」といった程度のものなのか、私と同様に「このような指導は子どもに悪影響を及ぼす」と考えてのことなのか、あるいはまた、「これでは手ぬるい」というものなのかまではわかりません。

    「いかのおすし」的教育は、不安社会を生み、子どもの安全をかえって脅かします。そのことに多くの人が気づいてくれることを願ってやみません。

    posted by 松本 at 17:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2009年10月27日

    フェミニズムと「いかのおすし」

    英語圏で「いかのおすし」に相当するのは「stranger-danger」という言い回しらしいということを以前に書きましたが、日本で「いかのおすし」に関する研究があるということを聞かないのに対し(どなたか存在をご存じであればぜひ教えてください)、英語論文では「stranger-danger」に触れたものは少なくないようです。参考になるかと、検索して出てきたものを少し読み始めてみました。Making trouble: cultural constructions of crime, deviance, and control(著者: Jeff Ferrell,Neil Websdale)の中の第5章の一部がGoogle Booksで立ち読みできたので、少しその内容を報告します。「プレデター──ワシントン州における"stranger-Danger"の社会構造:父権イデオロギーの一形態として」という論文です。

    まず、背景として、英語圏ではもともと「いかのおすし」同様に子ども向けだった「stranger-danger」が、最近ではより広く、性犯罪一般に拡張されているということを念頭に止めておく必要があります。以前に紹介した論文でも、アメリカにおける子どもの「連れ去り犯罪」の大多数が性犯罪であるという報告がありました。「stranger-danger」は、性犯罪者から「おんなこども」を守るスローガンに発展しているわけです。

    そして、表題の「プレデター」ですが、映画の題名にもなったこの言葉は、もともと生態学で「捕食者」という意味です。中学校や高校で習う「食物連鎖」の「肉食動物」が「プレデター」です。そこから発展して、現在では「性犯罪者」を指す単語として特異的に用いられることがあるようです。この論文では、ワシントン州をはじめ全米各地で定められた「プレデター法」を問題のひとつとしています。これは、性犯罪者を他の犯罪者とは別格扱いで監視する法律で、憲法違反ではないかという疑義も提出されているそうです。

    さて、Google Booksの立ち読みですのでごく一部しか読めていないのでこの論文の本来の趣旨までは把握できていないのですが、前置きのところに興味深い指摘がありました。

    まず、性犯罪の大部分が、「stranger-danger」が注意を喚起する「知らない人」によるものでなく、家族内で起こっている事実を指摘します。であるのに、上記のプレデター法やマスコミ報道のほとんどが「知らない人」を対象としており、家庭内の性暴力に関しては知らん顔を決め込んでいます。

    ここで、性暴力が父権制度と強く結びついたものであることから、このような社会的に行われている欺瞞は、既存の父権主義を維持強化するためのものではないかという推論が行われます。すなわち、性暴力は家庭外からやってくるものであって、家庭内においては家庭外からの暴力に対する防備としての父権が必要であるとされ、さらに、家庭内における暴力装置としての父権が隠蔽されるというわけです。

    「知らない人に気をつけましょう」というのは、結局は「家族は安全だから安全性と引き換えに服従しましょう」という押し付けであるわけです。事実はむしろ、家庭内での暴力がもっとも頻度が高く被害も大きいという現実があるのに、それを糊塗するのには何らかの意図があると推定されるわけです。

    そして、社会構造がこういったイデオロギーにもとづいて構成されているため、法制度は「知らない人」による性犯罪に特異的に対応した厳罰主義となり、マスコミは「知らない人」による犯罪が起こるたびにそれを大きく取り上げることになります。一方で、日常的に起こっている家庭内の暴力に関しては、プライバシーを口実に、よほど極端な事例でもない限り無視をするというわけです。

    かなり端折って紹介しましたので、相当に不正確なところもあると思いますし、また、前振り部分しか読めませんでしたので、この後に違った展開があるのかもしれません。正確なところは原文にあたっていただきたいと思います。ただ、興味深いのはこのようなフェミニズムの視点から見ると、「stranger-danger」が、まったく違ったものに見えてくることです。たしかに、これほど現実と乖離した「stranger-danger」や「いかのおすし」にこれほどのエネルギーが投下されている状況の裏には、何らかの力が働いているのかもしれません。それを、社会構造という観点から見るのは、あるいは正しいのかもしれません。

    さて、「いかのおすし」をフェミニズムから見たら、どういう事実が明らかになるのでしょう。その道の方には、ぜひ分析をしていただきたいものです。

    posted by 松本 at 14:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2009年10月26日

    「不審者情報」と社会的排除

    以前、このブログで、「不審者は犯罪者ではない。いわゆる不審者もその正体がわかれば人々の不必要な不安は消えるのではないか」というような趣旨のことを書きました。私は間違っていました。人間というものの浅ましさをよくわかっていなかったのです。

    今日、「緊急回覧」ということで、町内に「防犯・緊急情報」の紙切れが回ってきました。その原文を下記に写します。
    ○丁目○○公園に不審者
    ○月○日午後3時30分ごろ、○丁目○○公園内で40〜50代の男が飲食(酒)をする不審者を住民が目撃し直ぐに110番通報をしました。
    直ぐに警察官が駆けつけ職務質問をした結果、浮浪者(ホームレス?)と判明。
    翌20日早朝にも同一人物が○○公園にいた為、再度110番通報をしました。警察官が駆けつけ○○警察署に保護されました。
    (浮浪者は○○公園に3〜4日間居た模様)
    不審者、不審車両を
     見かければすぐに
      110番通報を!

    「不審者」は「浮浪者」として排除されたわけです。

    「不審者」の正体がわかっても、この街の人々の「不安」はそれでは消えないのです。むしろ、「不審者」が「浮浪者」となったことで、よりいっそう「不安」に駆られて警察に排除を要請したというのが実際の行動でした。おそらく、郊外の住宅地の住民の治安意識というのはこういうものなのでしょう。

    確かに、家を失い、行き場を失い、収入を失った人は、そうでない人々よりも犯罪を引き起こす可能性が高いでしょう。だからといって、公共の場所にいる、まだ罪を犯していない人を、自分の身がかわいいからと排除する姿勢は、本当に人間性を失った行動だと私は思います。

    かつて、私の若い友人は、自分の家の近所の畑の小屋に身を寄せたホームレスのために、わずかの食料と毛布を差し入れました。数日間の付き合いの中でこの人の困窮の状況や原因がわかり、話し合ううちに最終的にこの人は福祉施設に身を寄せることができました。全ての人に私の友人のような対処までは求めませんが、一人の人間として正面向き合って話し合えば、こういった前向きな解決もできるのです。排除は何ももたらしません。

    異質なものを見ればすぐに排除したがる姿勢を、誰も恥ずかしいと思わないのでしょうか。いえ、恥ずかしいと思う心が残っていれば、誰も「いかのおすし」なんて教えないでしょう。「いかのおすし」的教育が堂々とまかり通っている現状と、「浮浪者は警察に突き出せ」という姿勢は、実によく符合します。人間は、ここまで浅ましいものなのでしょうか。

    その「浮浪者」がいたという公園には、日中でも人の姿はありません。子どもたちが遊び回る姿を見かけることは、本当に希です。なぜなのでしょう。「いかのおすし」です。危険を日頃から口やかましく注意される子どもたちは、公園のようなオープンなスペースで遊びたくないのです。

    そんなさびれた公園ですから、ますます「不審者」が現れます。大半は幻でしょう。けれど、さびれた公園には、そんな幻がよく似合うのです。時折、誰かが言います。「子どもたちが元気に遊び回る公園ならいいのにね」と。いったい、誰が公園をさびれさせたのでしょう。排除する心が、子どもたちの笑い声まで排除してしまったのではないでしょうか。

    百歩譲っても、既に解決した「浮浪者」の一件を、「防犯・緊急情報」として流さねばならないと感じる心性とはどういったものでしょう。私は、こんな住民が住む地域にいることが怖くてなりません。

    ほんの少し、想像力をはたらかせてみてはどうかと思うのです。

    posted by 松本 at 16:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2009年10月24日

    ショッピングセンターにて

    今日、ショッピングセンターでのこと。2歳ぐらいの女の子が、エレベータの前の床の上に寝転んで遊んでいました。5歳ぐらいのおにいちゃんが、いっしょうけんめいその子を立たせようとしているのだけれど、女の子の方はおにいちゃんにさからうのがおもしろいのか、全然いうことをききません。あたりをカートや台車が通り過ぎます。危険な状況ですが、誰も足を止めません。

    聞いてみると、お母さんはちょっと離れたセール中のお店のレジ行列に並んで動けないということ。おにいちゃんがいっしょうけんめい妹を安全なところに連れ出そうとしているのだけれど、うまくいかず、困り果てていました。

    事情を聞いた後、おにいちゃんと、「じゃあ、そこのベンチでお母さんを待とうか」と話して、女の子を抱き上げて、ベンチまで。気がついたお母さんもちょっとレジ行列を離れて女の子を落ち着かせました。互いに会釈をしてその場を離れました。

    こんな出来事も、ちょっと間違えれば、「連れ去り事案」ぐらいの不審な行動になってしまったかもしれません。けれど、そこに女の子と困り果てた男の子を放置することがどれほど危険かを考えれば、やるべきことは明らかです。

    こういった常識が通じなくなる社会につながるような気がしてならないから、私は「いかのおすし」教育に反対するのです。
    posted by 松本 at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2009年10月23日

    「いかのおすし」に疑義を呈する人々

    Webの情報を見渡せば「いかのおすしを子どもに覚えさせましょう」「いかのおすしがたいせつです」といった「いかのおすし」に何の疑問ももっていない人々の発信する情報ばかりがあふれているので、絶望的になります。けれど、細かくみていけば、ときに「いかのおすし」はいかがなものかといった趣旨の情報も、わずかではあるものの見つけることができます。そのいくつかはこれまでにもメモしてきました。今日も2つほど追加します。

    まずひとつは、杉並区の区議会での質問の記録です。こちらにありますが、この平成18年の定例会での質問で、関昌央議員という方が次のように述べておられます。
     子どもが道路で遊ばなくなって、親も周りもみんなで子どもを、ちょっと言葉は悪いですが、がんじがらめにしちゃって、一部の子どもは児童館に入れて、あとは塾通いか家に閉じこもっちゃっているのが多くなったのではないでしょうか。もしそうだとするならば、これでよいのだろうかと思うのであります。
     確かに、池田小学校以来、学校が閉鎖的になってしまって、その上、広島や栃木での相次ぐ児童をねらった事件で、関係機関も連れ去り防止の合い言葉というのですか、皆さん「いかのおすし」というのを多分ご存じだと思いますが、知っていらっしゃる方何人くらいいますか。――この「いかのおすし」なんて合い言葉を子どもに教えて、中身はこういうことらしいんですが、知らない人にはついて行かない、二、車や悪い誘いには乗らない、三、助けてと大声を上げる、四、すぐに逃げる、五、大人の人に知らせる、これの部分部分をとって「いかのおすし」というそうでございます。
     子どもに危機感を持たせてしまって、そして子ども安全パトロールで集団下校させたり、ボランティアの人たちが監視するみたいなことがもし長く続いていくとするならば、それでいいんだろうか。果たしてこれでいい人づくりができるんだろうかと思うのであります。
     よく言われることですが、田舎の子どもと都会の子どもを比べると、都会の子どもは頭でっかちになる子どもが多いそうで、徳育、知育、体育、そして食育と言われる中で、その中で徳育や体育の少ない、閉鎖的な、いわゆる犯罪を起こしやすい、これは言ってはいけないのかもしれませんが、そういう子どもができやしないんだろうかと思うのです。頭のよい、そして体のできた、文武両道というんでしょうか、バランスのとれた子どもをつくるのが、多分、山田区長の言っている人づくりなのではないかと思っています。今の子どもが、このふるさととしての杉並の環境の中でどのように生活していくのが最も望ましい姿なのか。区も対応されているとは思いますが、放課後の子どもの遊び方、もうそろそろ、具体的に一年二年かけて検討する必要があるのではないかと思いますが、今日の学校や子どもの状況を教育委員会はどのように受けとめているのか。多分、現状は決して望ましい姿ではないと思っていますが、ご所見をお伺いいたします。

    現在の「防犯」体制が望ましい姿ではないといういうのは、非常にまっとうな意見だと思います。

    このような「本当はいかのおすしは望ましくないのだけれど」という意見は、数少ない「いかのおすし批判」の大部分を占めます。そして、「望ましくないのだけれど、現状ではしかたない」とトーンダウンします。その「現状」認識をつくっているのは、「犯罪が増加している」という統計情報です。しかし、統計を正確にみれば、増加しているのは犯罪ではなく、「不審者事案」だということがわかります。そして不審者情報は、危険の増加を反映しているというよりは、むしろ人々の危機意識の増大を反映しているものです。

    ですから、ここまできたら、いま一歩を進めて、「いかのおすしは望ましくない。だから止めましょう」と言うべきだと思います。

    もうひとつは、愛知学泉大学という大学のコミュニティ政策学部の伊藤雅春教授という方のページです。ここの「教員ブログ」では、「2009/3/22:「八幡小学校での授業−『まちづくりリテラシー』ということ」と題して、次のような記述が掲載されています。
     前田さんは、小学生の子どもたちが、自分の町に対してできることとして、4年生にもなったら警察が教えている『いかのおすし』のような逃げではなく、「出会った人に自分から挨拶をするという積極的な行動」をして欲しいと話しました。僕自身は、自分のまちが自分の部屋のように自分たちのものとして感じられるようになるにはどうしたらよいかを伝えたいと思ったのですが、簡単ではありません。「自分がしたいことを自由にすることができるまち。一人でできることではなくて、多くの人たちとしかできないことを自由に提案し、実現することができるつながりのあるまちが、自分たちのまちだと感じることができるのではないか。そういうまちなら、それぞれの人が自ら責任をもって守っていくことができるのではないか。そんな思いで防犯パトロールを自らやっている」ということを伝えたかったのです。

    この先生は、日々防犯パトロールを行っておられるようなので、おそらくは「地域の安全が脅かされている」という認識の下に行動されているのでしょう。私としてはその前提からして誤っているといいたいのですが、しかし、その前提から出発しても、「いかのおすしのような逃げではなく出会った人に自分から挨拶をするという積極的な行動をしてほしい」という考えを共有されているのです。

    「知らない人」を「不審者」として外部化し、排除していくところからは、真のコミュニティは形成されません。「コミュニティ政策学部」というようなアカデミックな場所からは、そういった公平な観点も生まれるのでしょう。そういった場所から真に批判的な目をもった教育関係者が生まれてきて、「いかのおすし」の問題点を見つめてくれる日がくることを願って止みません。
    posted by 松本 at 15:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2009年10月22日

    事案とは?

    「不審者」は「犯罪者」ではありません。ですから、「不審者情報」は「犯罪者情報」ではありません。実際、警察から発表される不審者情報は、「防犯情報」などのように呼ばれます。「不審者がひょっとしたら犯罪と何か関係があるかもしれないから注意しましょう」という趣旨で犯罪の予防を呼びかけるのが不審者情報であるわけです。

    ですから、「不審者情報」の数が多いことと、地域の安全が脅かされていることは、全く関係がありません。地域の安全が脅かされていることは、実際の犯罪発生数の多寡からしか判断できません。いくら「不審者」の数が増えても、実際に犯罪が増えていないのなら、地域の安全は確保されているのです。そして、もしも「不審者」の増加と犯罪の発生数の間に相関がないのであれば、「不審者情報」など信用するに値しないものだということになりかねません。

    事実、「不審者」の増加に関わらず、犯罪は増えていないことが統計から明らかなようです。つまり、「不審者情報」の増加は、単純に人々の不安感の増大を反映したものに過ぎないようです。

    もちろん、そうやって人々が用心するようになったおかげで、不安な世相にもかかわらず犯罪の増加が抑止されているのだと論じることも可能でしょう。いずれの立場が正しいのかは、例によって検証のしようがありません。ただし、繰り返しますが、「不審者」の増加は「犯罪」の増加とは全く別物です。これは、警察自身が認めていることです。

    「いかのおすし」を調べていて、「事案」という言葉を知りました。奇妙な日本語だと思いますが、「声かけ事案」という成語として、大辞林にも掲載されているそうです。
    声かけ事案 【こえかけじあん】
    「家まで送るから車に乗らないか」と誘うなど,面識のない大人が子どもに対して呼びかけや誘いかけを行う出来事。犯罪に発展する可能性があるため,子どもが恐怖心を抱いた事案について,全国各地の警察が情報(発生日時・場所・状況など)を収集・公開している。
    提供元:「大辞林 第二版」(goo辞書による)

    一方、「事案」に関しては、同じ辞書に、
    じあん 0 【事案】
    問題になっている事柄。

    と掲載されています。これではよくわからないので英語の辞書を引いてみると、caseもしくはconcernの訳語が出てきます。caseは事件、concernは懸案事項です。一般には「懸案事項」の意味で使われる場合が多いようですが、「声かけ事案」のような防犯情報で頻出する「事案」は、意味としては「事件」と全く同じもののようです。

    しかし、同じ意味をもつのに別の言葉が使われているということは、どういうことなのでしょうか。これは「事件」の意味を調べれば推測できます。同じくgoo辞書によれば、
    じけん 【事件】
    (1)争い・犯罪・騒ぎ・事故など、人々の関心をひく出来事。 「―が起こる」 (2)「訴訟事件」の略。

    となっています。すなわち、司法の用語では、「事件」は「訴訟事件」に発展するような犯罪性のあるものに使うもののようです。

    「不審者」は、犯罪者ではありません。ですから、「不審者が出没していた」というのは、「事件」ではありえないのです。けれど、「警察などの公的機関が捜査すべき事態」(別の辞書による「事件」の説明)ではあります。そこで、意味としてはほぼ同じであるけれど「犯罪」という含意のない「事案」が使われるのではないでしょうか。

    発信元の警察では、このように「事件」と「事案」をきちんと区別しているのです。こういった区別の意味を十分に理解すれば、「不審者情報」に眉をひそめる必要がないことがわかります。そういった正確な理解を「いかのおすし」のような声高なスローガンは妨げていないでしょうか。

    posted by 松本 at 14:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2009年10月21日

    地域社会の再生と「いかのおすし」

    「いかのおすし」について書いたブログを漁っていたら、ちょっと古い記事ですが、こんなブログ記事を見つけました。この方の意見では、子どもの安全は、「子供が外に出歩くような時間帯に大人が、それも青壮年層のいざというとき頼りになりそうな男が地域には存在していない」以上、守れないのではないかということです。そして、子どもの安全を守るためには、最終的には「地域の人間関係を築く時間と余力を労働者に奪い返さなくてはならない」と論を進めていらっしゃいます。

    私も、地域社会の健全な再生は人間生活にとって必要なことだと思います。その崩壊の一端を過剰な労働時間に求めるのも、大きくは間違っていないのかもしれません。

    けれど、かつて地域社会の絆が強固だった時代に子どもが犠牲になる犯罪が少なかったのかといえば、事実はそうではないことが先に引用した各種資料から明らかになっています。また、「時間と余力を労働者に奪い返」したとしても、その「時間と余力」が「地域の人間関係を築く時間」に費やされるかどうか、疑問だと私は思います。現代の消費社会の構造をそのままにしておくなら、「時間と余力」をかってリゾートに出かけたり家にこもってエンターテイメントに興じるのがありそうな結果ではないでしょうか。

    と、いろいろと疑問はあるのですが、しかし、このブログ記事からひとつのことが考えられます。つまり、「いかのおすし」の問題や子どもの安全の問題は、そこだけを考えても根本的な解決にならないのかもしれないということです。子どもの安全を守るためには社会のあり方を変えねばならないのかもしれません。「いかのおすし」を廃絶するには、学校、教育、社会と、大きなものを変えていかねばならないのかもしれません。

    一足飛びにそういった大枠を論じるのではなく、地道に「いかのおすし」に取り組むことからそういった大きなものが浮かび上がってくることを目指してもいいのかもしれないと思った次第です。

    posted by 松本 at 14:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2009年10月20日

    「いかのおすし」資金はどこから?

    「いかのおすし」は、何か特定の団体が強力に推進しているものではないようです。ですからどこかに「いかのおすし」資金や予算が一括して組まれているのではありません。そうではなく、行政や警察をはじめ、学校や地域の団体がそれぞれ、「これはいいことだ」という思い込みのもとに、個別に推進しているもののようです。それでも、それぞれにインセンティブのようなものがあります。

    たとえば、PTAは、独自の予算で「いかのおすし」を推進します。最近になって気がついたのですが、息子が入学したときにPTAからもらったプラスチックのファイリングケースには、でかでかと「いかのおすし」が印刷されていました。こういったファイリングケースはPTAの予算で調達されます。そして、こういったグッズの調達には、行政や外郭団体からの補助金が出るようなのです。「補助をもらえるなら」ということで、それにいくらかの費用を追加しやすくなります。このようにして、「いかのおすし」予算は膨らんでいきます。

    ちなみに、同様の「いかのおすしグッズ」はポケットティッシュからペタメモまで各種あるようで、こちらの業者の資料によれば、たとえばポケットティッシュなら1個11円〜24円で調達できるようです。

    そして、行政が直接、「いかのおすし」に支出することもあります。たとえば、こういうクリアファイルは、神奈川県では教育委員会から配布されているそうです(こちらの議事録参照)。教育委員会の配布ということですから、当然、県の方で予算が組まれているのでしょう。岡山県では、「「安全・安心の岡山」の創造」事業として、複数年度で2081万9千円の予算が組まれていますが、この中には「「ももっち&イカのおすし劇団」による「おはよう」運動」が含まれます。

    市町村レベルでも、「いかのおすし」に予算が組まれているところがあります。北國新聞によれば、能美市の教育委員会は「いかのおすし」の下敷きとDVDを配布したとのこと。市政レベルでも「いかのおすし」費は計上されています。伊勢市では、平成19年度決算で防犯啓発事業 354万円の内訳のなかに、「「いかのおすし」チラシと子ども用グッズのセットの配布」が記載されています。八街市豊明市常総市大和郡山市などでは「いかのおすし」を求める質疑が議会で行われています。

    行政から一応は独立していながらほぼ行政の一部である各地の社会福祉協議会でも、「いかのおすし」が事業対象になっています。たとえば、銚子市の社会福祉協議会松山市の社会福祉協議会では、いかのおすし関連事業を行っています。

    警察の方でもいかのおすし関連の予算を計上しているようですが(たとえば石川県警の「警察行政主要施策の推進状況」という報告書)、むしろ、この手の啓発事業は、警察と一体化している防犯協会の方で行うことが多いようです。最初に書いたPTA等へのインセンティブは、こういった方面から出ているのかもしれません。

    また、結果的に行政の下請けをやらされることが多いNPOでもいかのおすし関連事業は行われています。たとえば、NPO法人みらい子育てネット山形では、平成19年度の事業内容で「いかのおすし」の紙芝居の製作・配布を実施しています。愛知県の特定非営利活動法人「夢の箱」でも、いかのおすし普及を行っています。

    そして、無数のPTAや自治会などの民間団体が、第一に善意から、そしてこれら行政や半公的機関からの要請や支援、補助があることから、「いかのおすし」の推進のために予算や人的資源を用意します。

    このようにして、全国を合わせれば厖大なお金が、「いかのおすし」に注ぎ込まれています。ひとつひとつはわずかのお金であり、あるいは善意に基づいた協力である場合も多いでしょう。

    私のように「"いかのおすし"は百害あって一利なしだ」という立場をとるものからすれば、これは非常に厄介な現状です。というのは、もしもこれが国家事業であれば、大元の「いかのおすし予算」を停止すれば事業は止まります。ところが、各都道府県、各市町村、各行政機関、各外郭団体、各民間団体ごとにそれぞれに予算が組まれているとなると、その全てを止めなければ「いかのおすし」は止まりません。「いかのおすし」の有害性を訴えるにしても、あらゆるレベルに訴えていかなければならないのです。現にここまで「いかのおすし」が普及してしまっている以上、これは不可能に近い難行でしょう。

    ですから、私はこのような巨大な構造に真正面から取り組むべきではないと思います。子どもに直接「いかのおすし」が伝えられる現場は学校です。そして、子どもがもっとも「いかのおすし」の悪影響を受けやすいのも学校だと思います。ですから、「いかのおすし」問題は、まずは学校の問題、教育問題として取り組むべきではないかと思うのです。

    実際、「いかのおすし」そのものは、100%害悪であるとも思いません。その中には警察の犯罪捜査の経験を踏まえた正しい情報も含まれています。問題なのは、人間に対する信頼感を培うべき小学校、幼稚園、保育園の教育において、無批判にそれが取り入れられていることなのです。無批判である教育関係者の姿勢が怖ろしいのです。

    現場から、「いかのおすし」はもうたくさんという声が出れば、行政からの働きかけも自然におさまっていくでしょう。そう願いたいものです。
    posted by 松本 at 10:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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