2009年12月07日

PTA愛育部にて - その3

先週のことになりましたが、PTA愛育部の月例活動日がありました。私は「安全マップ」や「子ども110番の家」に関する作業を行なうグループに属しているので、その関係のことを1時間ほどお手伝いしました。あいにくと子どもが学級閉鎖で留守番している関係で、途中で抜けねばならず、他の方に迷惑をかけてしまったのですけれど。

この愛育部、「いかのおすし」に非常に近いところで活動しているわけですが、「子ども110番の家」に関しては、私はどちらかといえば好感をもっています。ということでこれに「協力してください」という文書の作成をお手伝いするのはかまわないのですが、この文書、そして登録者の情報の取扱いを巡って、グループのメンバーの間でいろいろと意見が出ました。

その結果として明らかになったのは、「そもそも子ども110番の家って何?」ということが自分たちでさえ曖昧なままに、勧誘文書をつくろうとしているという事実でした。この事業に関しては、秘密でも何でもなく、ホームページ等で内容が公開されています。そのリンクも、勧誘文書には記載してあります。

けれど、紙に印刷されたURLなど、誰が1文字1文字打ち込んで見に行こうと思うでしょうか。はっきりいって、これは無意味です。実際、委員の誰一人としてこれを見てはいませんでした。登録者の取扱いを巡って、「じゃあ子ども110番の家って、そもそもは?」と疑問が出てはじめて、誰もそれを正確に知らないことが判明したのです。

自分でもわかっていないことを、何となくわかったつもりになって人に勧めるのはおかしなことです。ときには危険なことでもあるでしょう。しかし、PTA活動をはじめ、多くの活動がそのようにして進められているのではないでしょうか。

私が問題視する「いかのおすし」にしても、これはあてはまるように思えてなりません。「いかのおすし」の標語自体はわかりやすいもので、誰でも見ればわかります。けれど、なぜそれを広めようとする人々がいるのか、それがどのような背景をもとに広められようとしているのか、それが実際に何をもたらすのかを、誰も理解しようとしない、理解する必要を感じていないのではないでしょうか。

では、自分がわかりもしないことをなぜ人に平気で勧められるのでしょう。それは、勧めることのないようにではなく、勧誘活動そのものに意義が見出されているからに違いありません。私の場合、まず、PTAのクラス役員というものが義務として必ず回ってきて、活動日に顔を出さないとペナルティがあるという状況があります。そういう状況で委員になり、活動日に出席すると、自動的に、「あなたの仕事は子ども110番の家の勧誘です」ということになります。そういう仕組みで自分の仕事が与えられた場合、その仕事の意義は、単に自分のノルマをこなすことでしかありません。事業の中身まで敢えて立ち入って理解したいとは、誰も思わないのです。

幸いなことに、今回は、議論を通じて「勧誘する以上、子ども110番の家がどういうものなのかを正確に伝えなければダメだよね」ということがはっきりしました。これは、メンバーの質が高かったのでしょう。そして、勧誘文書に加えて、事業の説明文書を配布するということで合意ができました。この文書は、警察(の外郭団体?)から入手できるもののようです。

自分が何をやっているのかを理解する必要のないシステムは、非常に危険だと感じたことでした。
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2009年12月03日

「いかのおすし」の「永遠の嘘」

以前のエントリでSue Scott教授の「Swings and roundabouts」をとりあげたときから、どうにも気になって仕方ないことがあります。それは、この記事中にScottish Daily Mail紙からの引用として、
子どもをもつ親の心配と統計的確率の間のこの明白なギャップを、無知や愚かさを示すものだと考えるのはいかがなものか。
と書かれていたことです。

Scott教授は、この指摘に関して、
信頼できる研究がない以上、親たちがリスクを「現実的に」推し量れていないと考えることはできない。仮に親たちが危険を真剣にとらえていない場合には、他人から愛情が足りないとか無責任だとか見られる危険を冒すことになる。親たちは、「知らない人」に自分の子どもが性的暴行を受けたり殺されるような事態が統計的にごくわずかの確率でしかないことを知っているかもしれない。これは、宝くじを買う人々の動機を裏返したものだと思えばいい。宝くじに当たる確率は、非常に小さいかもしれない。けれど、「ひょっとしたら」と思うから、宝くじは売れる。被害にあう確率は非常に小さいかもしれない。でも、「ひょっとしたら」。
と、説明しています。

つまり、親たちは、被害にあう確率が低いことを知らないほど無知ではないかもしれないけれど、周囲の目を気にして心配をするようになるし、さらに、どんなに確率が低くても絶対に被害にあいたくないから心配をするのだというわけです。

それはそうなのかもしれません。けれど、私はこのあたりを読んでいるとき、あるブログ記事を思い出さずにおれませんでした。それは、常野雄次郎さんという方の「「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 前編」という記事です。記事そのもののテーマとはほとんど無関係なのですが、その一節、
だから嘘を批判するには、ただ嘘が嘘であることを暴露するだけでは不十分である。嘘が嘘であることは、騙す者も騙される者も先刻承知なのかもしれないからだ。そのような場合は、真実を暴露する者はただ「空気の読めない痛い奴」として処理されるだろう。(中略)「永遠の嘘」の批判は、真実を暴露することではない。嘘に気づかないふりをする「お約束」が分析されなければならない。それは、「騙される」者、「無知」な者をも、「被害者」としてではなく「嘘」に参加する共犯者として捉えるということだ。
という部分が、頭の中にこだまするのです。

親たちの心配は、統計的事実の前には、まったく根拠のない杞憂でしかありません。そのことは、このブログで繰り返し述べてきました。当初私は、その事実を指摘すれば、誰も「いかのおすし」など唱えなくなるだろうと思いました。

けれど、実際にはそうではないようです。Scottish Daily Mail紙が指摘するとおり、親たちは決して無知でも愚かでもないのです。子どもが被害者になる事件の恐ろしい報道がまず現実に自分の身にはふりかからない極端な事例でしかないことを、親たちはよく知っています。そんな天文学的な確率の不幸に対して防備を整えるのが馬鹿げていることもよく知っています。知らないわけでも、愚鈍なわけでもありません。

そうではなく、そうやってありもしない脅威を信じることが、親にとって、何か都合のいい事情があるに違いないのです。そういう脅威があることを前提に、何かが成り立っていて、親自身がそこに寄りかかっているのではないかという疑念が浮かぶのです。

私自身が一人の親です。ですから、「親たちが...」と言うのであれば、まずは自分自身の心の中を探るべきです。

しかし、これほど難しい問題はありません。ここで躊躇してしまいます。世の中に、自分の心の闇ほど怖ろしいものはないからです。

「いかのおすし」の「永遠の嘘」、それはいったい何なのでしょう。これが喉に引っかかった魚の小骨のように、ここ数週間の私の気持ちを落ち着かないものにしています。
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2009年11月19日

「恐怖の文化」

先日、Sue Scott教授の研究「Swings and roundabouts」をとりあげましたが、この論文の中で、ケント大学のFrank Füredi教授の「Culture of fear: risk-taking and the morality of low expectation」という1997年の本が引用されていました(2002年の改訂版もあるようですが、引用されたのは旧版でしょう)。Füredi教授には、2002年の「 Paranoid Parenting」という本もあり、こちらは一部抜粋がFüredi教授自身のサイトで公表されています。「Culture of fear」の方はGoogleの書籍検索で一部分を立ち読みできますので、チェックしてみました。

教授の指摘は、「恐怖」を煽りたてることで、常識的には受け入れられないような規範を常識に変化させることができるという点にあるようです。そして、このような操作が日常的に行われる現代文化は、まさに「恐怖の文化」だということでしょう。
1988年にリーズで内務省が開始した「Stranger-Danger」対策のような脅迫的なキャンペーンが悲惨な結果を招いていることは、多くが指摘するところである。知らない人は信じてはならないと子どもたちに警告することで街中を席巻したこのキャンペーンは、この問題に関してほとんどパニックに近い雰囲気を生み出した。ヨーロッパの他のほとんどの地域のどこと比べてもイギリスでは、子どもが自分たちだけで街を歩く自由が失われている。地域によっては、学校への送り迎えをしない親は、子どもを危険にさらしていると白眼視されるようになっている。この「Stranger Danger」文化の帰結は、近年の子どもの自立した行動に関する研究によくまとめられている。「安全が恐怖によって宣伝されるような世界を、私たちは子どもたちのためにつくりだしている。『一歩間違えば命を失うぞ』というようなキャンペーンの伝えるメッセージは、危険の発生源と大きく異なっている。子どもの安全に責任を負う人びとによって何のためらいもなくこのような世界が宣伝され得るということ、それが世論の怒りを引き起こすこともないということは、非常識がここまで常識になってしまったことをよくあらわしているのである」。様々な正義を推進するための装置として恐怖を利用することが、悲しむべきことに広く受け入れられているのである。

このような条を読むと、私自身が反「いかのおすし」キャンペーンに「恐怖の装置」を利用していることが反省されます。つまり、「いかのおすし」を推進することがいかに子どもの正常な発達を妨げるのか、いかに危険であるのかを私はこのブログで説いてきたわけです。つまり、恐怖でもって「いかのおすし」を広めようとする動きに対して、恐怖でもってそれを押しとどめようとしているのです。まさに私自身が、「恐怖の文化」に染まっているのではないでしょうか。
「子どもを守ろう」業界の人びとは、stranger-dangerと子どもが屋外で直面する事故についての警告を発することで、子どもをもつ人びとの間にある種のパラノイアを生み出すのに寄与してきた。2001年6月、子ども事故防止基金が発行した報告書では、子どもの誘拐が親にとって重大なリスクであるという俗説に正当な反論がなされている。これは一歩前進であろう。ところが大きな後退は、誘拐以上に怖ろしい物語が展開されることである。報告書では、子どもの事故が自宅でもっとも危険性が高いことが警告されている。あらゆる低年齢の子どもにとって最大の危険は「自分の家の中にある」のだから、親たるもの、パラノイドになるのならこの正しい危険に関してパラノイドになりましょうというわけである。こういった「こっちの方が危険」という競合する警告が、人びとの恐怖と不安をさらに高めていっているのである。

このような一方的な不安感の増加を、Füredi教授はどうやら子どもをもつ親同士の信頼感の欠如と関連づけているようです。立ち読みなので詳しいことはわかりませんが、「Paranoid Parenting 」の抜粋の方には、
子どもに近づくことで怪しまれるのではないかと過剰に意識する大人の増加は、子どもの親にとって重大な問題になっている。母親、父親は、他人には頼れないと感じるようになっている。それ以上に、多くの子どもの親は、他人が自分の子どものことに手出しをしないで欲しいと考えるようになってきている。親たちは、他の人びとを味方と考えるのではなく、自分の子どもを狙っている変質者かもしれないと思うようになっている。子どもと関わる能力の欠如した大人と「stranger-danger」の不安にかられた親たちは、コインの表裏をなしているわけだ。
という記述があります。

Füredi教授の考え方は、「いかのおすし」と社会を考える上で、注目すべきものであるかもしれません。

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2009年11月17日

大人の世界と子どもの世界

「いかのおすし」キャンペーンと類似の活動として英語圏で行われている「Stranger danger」に関する研究論文をいくつか読んでいました。ちょっと読みこなしに時間がかかったので更新の間が開いてしまいましたが、日本で「いかのおすし」に関する学術的な発言がほとんどないのに比べ、英語圏ではそこそこの分量の研究がstranger-dangerに関して見られます。今回は、イギリスはグラスゴー・カレドニアン大学の研究者であるSue Scott教授の研究をとりあげましょう。まずは、十年以上前(1998年)の論文である「Swings and roundabouts: risk anxiety and the everyday worlds of children.」です。初出はイギリス社会学会の「社会学」のようですが、ネット上で公開されていて誰でも読めるようになっています。

論文のタイトルは「ブランコとメリーゴーラウンド」というもので、これは英語の諺に由来するものだそうです。つまり、遊園地では、ブランコに人気が集まるとメリーゴーラウンドは閑散とするし、メリーゴーラウンドが流行ればブランコはさびれるという具合に、全てがうまくいくことはない。けれど、ブランコがダメなときはメリーゴーラウンドでそこそこ稼げるし、メリーゴーラウンドがダメでもブランコから売上が確保できるというように、どっちもだめということはない。つながりあっている2つの事柄のどちらもうまくいくこともなければ、共倒れということもないというような意味だそうです。

わかりにくいタイトルですが、どうもスコット教授はこういう論文らしくないタイトルを好むようです。この論文では、ブランコが安全で、メリーゴーラウンドが子どもの自立ということになりそうです。安全を強調し過ぎると子どもの自立が損なわれ、子どもの自立を重視し過ぎると子どもの安全性に問題があるという議論がイギリスでは古くからあるようです。おそらくそれを「両立が難しい」という諺で表現したのでしょう。

しかし、奇妙なことに、この論文の要旨は安全と自立の両立ではありません。結論はおそらく、性教育が欠如している安全教育は片手落ちだということになるのでしょう。この議論そのものがわかりにくいのですが、これはこれで説得力があります。

簡単にまとめると、まず、欧米では「stranger-danger」の安全教育が大きく性犯罪被害防止にシフトしているという前提があります。つまり、「知らない人」による児童・幼児に対する犯罪が微小であり、その多くが思春期前後以上に対するものであることは、既に十年以上前から欧米では常識になっているわけです。したがって、安全教育を施す側の意識としては、「stranger-danger」は性犯罪被害防止でしかあり得ないわけです。ところが、stranger-danger教育は、日本の「いかのおすし」同様に、幼稚園児、小学校児童の年齢層を対象に行われています。この年代の子どもには十分な性知識がないため、性犯罪の具体的な被害をイメージできず、結果としてstranger-danger教育は空回りしている、というのがだいたいの流れとなっています。

ですから、結論そのものは、ある意味、地味で、興味に乏しいものです。この結論から導かれる議論は、「だったら安全教育と組み合わせてきちんと性教育をすべきだ」とか「安全教育の対象年齢を引き上げるべきだ」といった実務的なものにしかならないでしょう。

この論文が興味深いのは、実はそういった議論の方向性ではありません。子どもの安全と自立を天秤にかける観点でさえありません。そうではなく、研究の切り口なのです。

スコット教授の方法は、子どもの世界観と大人の世界観をはっきりと別物としてとらえるところから始まります。それぞれの「リスク風景」が異なっていることを明らかにし、そこが問題の出発点であることをはっきりさせていくわけです。

大人にとって、主な危険は性犯罪です。暴行や強姦、人身売買が恐怖の対象であり、それにつながるものとして連れ去りや声かけが問題になるわけです。ところが、低年齢の子どもの世界から見た危険は、まったく異なります。連れ去りは身代金目的の誘拐や殺人に直結しています。犯罪者のイメージも、まったく異なりますし、そこからもたらされる危険地域や時間帯のイメージもちがっています。

このような差異は、スコット教授が参加した別の研究である"Children 5-16: Growing into the Twenty-First Century"プロジェクト報告に具体的に現れています。

そして、このような「リスク風景」の違いよりもさらに興味深いのは、スコット教授が、子どもを「社会的存在」として認識していることです。子どもは、生得的に子どもなのではなく、社会構造の中で子どもとして位置づけられることで子どもとなるのだという考え方です。したがって、「一般的に子どもはこうである」という考えと、「自分の子どもはこうだ」という認識が違っているのは不思議ではないというようなことも書かれています。社会構造の中で、大人は子どもを管理すべきもの、保護すべきものとして扱いますが、これは生得的にそうだというわけではないという主張です。実際、これは「子ども時代」というものの歴史を振り返ればその通りだと言わざるを得ないでしょう。「子どもを子どもそのものとしてとらえるのではなく、未来の大人としてとらえる」仕組みです。

また、大人にとって、「子どもの危険」は2通りの意味をもつという指摘も、非常に説得力があります。つまり、子どもは外部からの危険に晒される存在であると同時に、危険な行動をとる存在でもあるわけです。特に、ティーンエイジャーは、危害を加える側としても大人にとって不安の対象になります。低年齢の子どもの「リスク風景」にも、街にたむろするティーンエイジャーは巨大な危険として存在します(stranger-danger犯罪の主な被害者がティーンエイジャーであるという事実、そしてstranger-danger教育の主な対象が低年齢児童であることを考え合わせると、これは非常に不思議な状況を作りだしています)。

そして、子どもを管理しようとする大人の方針は、子どもを大人に依存させることによって成立します。「子どもを育てる」ことが、「子どもの自立を制限する」ことと一体化しているわけです。そして、「子どもは無邪気なもの」という概念が子どもに押し付けられることになります。「無邪気な子ども時代を守る」ことが安全教育の目標となるため、もっとも無邪気とされる低年齢児童に対してstranger-dangerが行われるというちぐはぐなことが起こりうるわけです。つまり、安全教育は、実際のリスクに対してではなく、大人の「リスク風景」にもとづいて行われることになります。このリスク風景そのものが、大きく矛盾しているわけです。

興味深いところをとびとびに引っ張り出すととりとめないことになりますが、スコット教授の視点は、「いかのおすし」を考えるときに非常に重要なものだと思います。特に教授は、「リスク」と「リスク不安」を厳密に区別すべき概念と考えています。「いかのおすし」のような安全教育は実際のリスクに基づいて行われるのではなく、リスク不安を出発点としています。そのリスク不安は、誰のもの、何のためのものかを考えていけば、この論文の結論以上に興味深い考察が生まれるのではないかと感じました。

posted by 松本 at 11:57| Comment(0) | TrackBack(1) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月09日

PTA愛育部にて - その2

私はPTAの「愛育部」に所属しています。先週の金曜日は、その月例の活動日でした。「愛育部」というところは、「安全マップ」や「子ども110番の家」の依頼や管理など、「いかのおすし」に非常に近いところで活動しています。おそらく学校によっては直接「いかのおすし」を実行する部門にもなるのでしょう。幸いなことに、息子の学校ではそうではありません。

さて、金曜日はいくつかの手違いから活動らしい活動は何もなかったのですが、印象に残ったことがひとつありました。

「安全マップ」に追加すべき情報がないかどうかアンケートをとるのですが、今年はほとんど反応がありませんでした。おそらく積年の情報で危険と思われるものは出尽くしているのでしょう。ただ、ひとつだけ、「ちょっと違うかもしれないけれど」と提出された情報がありました。それは、「ここの住民が子どもを怒鳴りつけたり追いかけたりします」というもの。確かに「安全マップ」に載せるような情報ではありません。それは衆議一致し、まあ困っておられるのなら学校か自治会にでも調査してもらおうというようなことでその場はおさまりました。

すると、あるお母さんが、「うちの近くでも子どもを追いかける人がいる。うちの子どもがこの間、『全力で逃げた』と言っていた」と言ったのです。何人かのお母さんが頷きました。「警察に連絡したらパトロールを強化してくれるよ」と言ったお母さんもいました。

私は、こういった不安が、「治安が悪化している」という風説、そして「いかのおすし」的教育の背景にあるのかもしれないと思いました。不安の実体は、幻などではなく、子どもの報告のなかに現に存在するわけです。

私は、このような不安を根拠のないものだと退けるつもりはありません。しかし、たとえば「大人に追いかけられる」という危機が、いったいどういうものなのか想像ができないのです。というのは、ごくまれにニュースで聞くような通り魔事件を除けば、子どもが大人に追いかけられた末に危害を加えられるというような事例を私は知らないからです。そして、こういった通り魔事件は、ニュースになるほど珍しく、日常的に発生するものではありません。ところが「追いかけられた」というような報告は、このお母さんの経験のように、日常的に発生しているのです。その全てといわず数パーセントでも、「通り魔事件」的な要素をもっていたとは考えにくいことです。もしそうなら、通り魔事件はもっと頻繁に発生しているはずだからです。

どこかに、何かの誤認があるのかもしれません。あるいは、私の想像のつかないような危険が、日常的に存在するのでしょうか。私はこれまで、子ども同士の喧嘩の現場は何度か見たことがありますが、子どもが大人に一方的に危害を加えられている現場は見たことがありません。限られた自分の見聞だけをもとに判断すべきではないのかもしれませんが、少なくともそういった異常な事件が、子どもの報告ほどには、日常的に多発しているのではないことは間違いないと思います。

振り返ってみれば、私の子どものころの日常は、けっこう恐怖にあふれていました。「あそこにはキチガイがいて追っかけてくる」みたいな噂は子どもの間でも流布していましたし、何となく大人に睨まれているような気がして駆けて帰ったこともあります。そのうちのどれだけが本当に危険につながっていたのかは、いまとなっては検証のしようもありません。

大人であれば、その検証ができると思うのです。今度そういう話を聞いたら、できるならばその危険が本当に危険であるのかどうかを調べてみたいと思います。安直にパトロールを強化するようなことだけが本当の安全をつくるのではないと思うからです。まして、無意味な「いかのおすし」を強化するべきではないとも思います。

PTA活動とは無関係に、そんなことを感じた金曜日でした。

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2009年11月05日

ちょっと呆れました

先日来、時間を盗んでは「いかのおすし」の英語圏での表現である「stranger-danger」に関連する論文を読んでいます。まだ数多くは読めていないのですが、近年の論文で「stranger-danger」指導を全面的に肯定するものはほとんどありません。実際、正面からstranger-dangerに触れたものはわずかしかありませんが、そのほとんどは、こういった安全教育が実際には役に立たないこと、誤った事実にもとづいていることを述べています(典型的には先日ご紹介したSarah Kulkofsky博士の論文です)。もちろん、その上で「もっと効果的な防犯教育が必要」とするのか、「こういった教育は不要」とするのか、立場は分かれます。けれど、事実の認識としては、それほど大きな違いはないようです。「科学」というものが事実を尊ぶのだということから考えれば、これは当然といえるでしょう。

ところが、今日、たまたま「stranger-danger」を全面肯定するような英語論文を見かけました。ずいぶんと珍しいなと思ってよくよく読んでみたら、なんと、著者は日本人で、日本の地域防犯体制に関して書いたものでした。

凄まじいことに、この論文では近年の子どもの犯罪に対する危険性の増大の根拠として、統計をあげるのではなく、新聞記事をあげています。社会学の資料として、ときに新聞記事は重要なものになるでしょう。しかし、新聞記事はしょせん新聞記事です。まさか、そのままで根拠になると思う学者がいるとは驚きでした。

全く無批判に、アンケート調査の回答を分析しただけのこの論文は、まるで前世紀の遺物を見るようです。こういった事実にもとづかず、先行文献の十分な調査もない論文が、日本国内で流通するだけならともかく、全世界の人が目にする英語で書かれてインターネットの検索で簡単に出てくるというのは、ほとんど日本の恥だと思います。

この論文を詳細に取り上げて批判すべきか、それともこんなものは無視してしまうのがいいのか、私には未だに判断がつきません。

「日本にはまともな"いかのおすし"研究がないのか」と思っていた矢先の発見だけに、なんとも複雑な思いです。学問は、いったい何のためにあるんでしょうね。

ちょっとした愚痴モードでした。
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2009年11月04日

安全神話の崩壊という神話

不幸な事件が起こるたびに、「安全神話は崩壊した」といった論評が行われます。安全神話というのは、たとえば「日本の技術は優れているので鉄道事故が起こるはずはない」という固定観念を指します。これが「神話」であることは何もその崩壊を待たなくても明らかなことでしょう。何の前提もなしに「安全」が存在するわけなどありはしません。「安全神話」は確かにかつて存在しましたし、多分、いまでも存在するのでしょう。

一方、「安全神話が崩壊した」という言葉の意味は、「この社会には安全なものなどひとつも存在しないのだ。だから、危険から身を守るためには万全の備えをしなければならない」という文脈で使われることが多いようです。そして、この「安全神話の崩壊」そのものが、既に「神話」と化しているように私には思えます。

たとえば「いかのおすし」です。子どもの日常に関して、「安全神話は崩壊した」、だから防犯教育が必要だというのが、「いかのおすし」の大前提になっています。しかし、子どもの身の安全に、もともと「安全神話」など存在したでしょうか。無条件に子どもが安全であるとするような考え方は、おそらく数百年以前から日本に存在したためしはないでしょう。そして、事実として、子どもが被害者になる犯罪は戦後数十年かけて激減し、ここ十数年ほどはほぼ横ばいになっています。「安全神話」もなければ、その「崩壊」を示す事実もありません。

「安全神話の崩壊」は、確かに科学技術の社会的な応用といった分野では事実なのかもしれません。技術者はだいたいにおいて、「絶対に安全だ」などとは考えないものですが、それが社会に実用技術として提供されるときに「安全神話」が生まれます。原子力発電所などは、まさに「安全神話」の上に成り立っているわけで、その「神話」を取っ払ったら、メリット、デメリットに関してまったく別な議論が生まれていたに違いありません。そして、そういった神話を信じる人はどんどん減少しているわけですから、これを「安全神話の崩壊」と表現するのもかまわないでしょう。

しかし、それを社会一般に当てはめるのはどうかと思うわけです。ことに、犯罪に関しては、もともと「安全神話」は存在しません。「日本が諸外国に比べて犯罪の発生率が低い」というのは神話でなく事実ですし、この事実は長期にわたって変化していません。さらに、その事実が社会的に認知されていた時代にあってさえ、防犯の重要性は常に説かれていたわけです。

では、何が変化したのかといえば、人々の意識です。「日本は犯罪社会になった」という思い込みが、何の根拠もなく拡大したのです。つまり、「安全社会の崩壊」という神話が生まれたわけです。

そして、日常生活に「予防原則」が採用されるようになりました。これに関して、こちらに重要な指摘があります。
予防原則は、日常生活で導入されるには適しておらず、大変お金のかかるものである
これは、Aaron Widavskyという社会学者の発言の引用らしいのですが、「わずかの危険も許さない」という態勢は、原子力発電所のような巨大技術には適用できても、日常生活では無理があると私も思います。特に、成長期にある子どもに適用すべきものではないと思います。

こういった過剰な防犯指導に関しては、こちらのブログに批判的な記述があります。そこから情報をたどると、こちらで川端裕人氏が毎日新聞に記事を書かれていたことがわかります。かなり興味深い記事なのですが、残念ながらリンク先は既に削除されていました。著作権その他に問題がなければどこかにアップしていただけると嬉しいのですが、昨今の情勢ではそうもいかないのでしょうか。

「安全神話」も「安全神話の崩壊」も、何らかの意図にもとづいて(誰か意図する黒幕がいるという意味ではなく、社会的意図という意味です)事実にもとづかずに流布したものです。それが過剰な防犯意識を生み出しているあたりに、何か「いかのおすし」問題を読み解く鍵があるのかもしれません。

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2009年11月02日

Guldberg博士のエッセイについて

一昨日、Helene Guldberg博士のエッセイ「「Stranger-danger」のパニックが敵意に満ちた大人の世界をつくる」を博士の許可を得て翻訳、掲載しました。このエッセイでは、イギリスではすでに、子どもに関わることが爆発物を扱う以上に危険な職業になっていることが述べられています。子どもが危険なのではありません。そういった職業に就くことが、過度の警戒感から疑いの目で見られているということです。そして、疑われる立場にある教員や保育士が、嫌疑を逃れるために子どもに対する十分なケアができなくなっているということでした。

そういった専門職だけではなく、公共の場所で他人の子どもに接することが、即、不審な行動であると見られることから、多くの人が安心して子どもに接することができない様子が書かれています。不審者と間違われたくないばかりに、迷子や困っている子どもに手を差し伸べることができないのです。

これは、子どもにとって大きな不幸です。目の前の問題(迷ってしまったとか、怪我をしたとか)に大人の助力が得られないだけでなく、「困ったときには他人に助けを求める」という人間の生きる上での基本的な知恵を失ってしまいます。大人の模範的行動を見ることもできず、自分自身が人を助ける側に立つ能力も失います。大人に対する信頼感が育たず、ひいては社会に対する信頼を失います。

実際、日本でも、2chあたりで、「子どもに道を尋ねられたら全力で逃げろ」といったような書き込みが頻繁に見られるようです。大げさに表現しているのだと思いますが、「犯罪者をつくらない」ようにすべきところ、「犯罪者にされない」ことばかりが先行し、そのあおりを食って子どもが放置される時代になっているわけです。

アメリカでは、2005年にユタ州の山の中で迷子になった少年が「stranger-danger」を忠実に実行したため「知らない人」から成る救援隊から隠れ、4日間も行方不明になっていた事件が起きました。この事件の後、stranger-dangerは強く批判されるようになって、「知らない人を避けるように教えるのはかえって危険だ」というのが常識になりました。しかし、だからといってstranger-danger教育が衰えたかというと、そうでもないようです。基本のモードは「疑え」で、状況を見て信用するようにということのようです。

これは、危険性を目先のことだけでとらえているからだと思います。目先の問題、「道に迷った」とか「どうすればいいのかわからない」といった問題を解決することだけが重要なのではないのです。そうではなく、社会に信頼が失われることが問題なわけです。子どもの心に社会に対する信頼を取り戻すことが重要なのです。

Helene Guldberg博士のエッセイは、そのことを強く示唆しているように思えます。

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2009年11月01日

ハンドルネームから実名へ

このブログの管理人の名前、当初はハンドルネームとしてsquid(つまりイカです)を採用していたのですが、これを本名である「松本」に改めました。

ネットの世界は匿名性が高いとはいえ、調べればわかるので、実名、匿名にあまり意味はないと思っています。それでも最初に実名を使わなかったのは、ほとんど100%の人が賛同しているらしい「いかのおすし」に一人で異議を唱えるのがあまりにも狂気じみていると思ったからです。自分自身の論拠にも、自信がありませんでした。直観的、感覚的に「いかのおすしなんて嫌だ」と強く思っても、合理的な根拠には証拠もなければ賛同者もいなかったのです。

しかし、2ヶ月近くを書きつないできて、これは思ったよりも根の深い問題だし、合理的な根拠も必ずあると確信するようになりました。証拠らしい証拠は先に紹介したKulkofsky博士の論文や犯罪に関するいくつかの統計ぐらいです。けれど、証拠まではいかないものの合理性を示唆する資料は、ずいぶんと増えてきました。また、多くの人がどこかでうすうすそのおかしさに気づきながらはっきりと意識できていない状況も見えてきました。ここでより大きな声をあげる意味は大きいと思いました。

私個人には、「いかのおすし反対者」以外に多くの属性があります。そういった属性が、純粋に「いかのおすしはやめようよ」という声にバイアスをかけないかという心配もありました。しかし、そんな呑気なことを言っていていい状態ではなさそうです。むしろ、あらゆる属性を動員してでも、ここに取り組まねばならないような気がしてきました。

たかが「いかのおすし」、されど「いかのおすし」です。ここが、この国の未来を左右する一つの正念場ぐらいの気持ちにさえなってきます。

これが、今回の実名への変更の理由です。改めて、よろしくお願いします。
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2009年10月31日

過度の防犯意識は敵意に満ちた大人の世界をつくる

私は、「いかのおすし」的教育は子どもにとって有害だと思います。そして、有害な教育は、生き辛い社会を形作っていくことになると思います。それは、巡り巡って子どもらの安全性をかえって損なうでしょう。

そういった私の考えを裏打ちするようなエッセイを、イギリスの大学で教鞭をとっておられるHelene Guldberg博士がブログに書いておられました。博士の許可を得て、以下に翻訳文を掲載します。原文は、こちらになります。

「Stranger-danger」のパニックが敵意に満ちた大人の世界をつくる


Helene Guldberg
(2009年7月17日)

 子ども相手の仕事と爆発物を扱うのと、どっちが厳格な安全性を求められるのでしょう。イギリスを代表する児童文学家が何人か、学校での朗読に参加するのを拒否するという声名を今週になって出しました。性的暴行者でないことを証明するために犯罪歴のチェックを求める新たな方針が採用されたからです。
 2007年の「明るい未来を築くために」という文書中で、イギリス政府は次のように論じています。「若年者及び弱者の安全を守る上での政府の主要目的のひとつは、不適切な人々がこれら弱者に業務を通じてアクセスするのを防止するのを支援することです」。さらに後の方では、「2006年弱者集団安全保護法を通じて、子どものそばで業務を行うことを志望する個人の身元調査のためにもっとも堅固な方式を創設する法制度を確立しました」と豪語しています。
 人気作家のフィリップ・プルマンは、大規模な身元調査は「子どもの世界観を歪め、『基本的には信頼ではなく疑いを』と子どもが考えるように仕向けるものだ」と正論を吐いています。彼の言葉によれば、私たちは子どもらに「この世界は誰もがお前を殺し、暴行しようとしている暗黒で汚らわしい場所なのだ……。人間の他者に対する初期設定は親切ではなく獲物を狙う心なのだと」と教えているのです。
 子どもの心に知らない人すべてに対する恐怖を植え込むのは非生産的です。これが両親と子どもに伝えるメッセージは、子どもの近くで働くことを志望するあらゆる大人を疑えということです。あらゆる成人に対する無差別な身元調査に反対するマニフェスト・クラブのキャンペーンを主催するジョシー・アプルトンは、次のように論を張ります。「子どもを守るためという名目で行われる成人の身元調査は、濫用されています。現在身元調査の対象になっているのは、たとえば子どもに読み書きを教える16歳の若者、学校でボランティアをする父母、里親の友人などです。学童クラブの運営は、爆発物取扱い以上の厳格な安全審査の対象になってしまっています」。
 いまでは、イギリスでは自分の子どもや孫、甥や姪の写真を撮ることさえ、公共の場所では不可能に近くなっています──近くに他の子どもがいるとしたら。私の甥っ子のいちばん年上であるマーカスが4歳の誕生パーティーをブリストルのプールで開いた1996年には、プールで遊び回る子どもたちの写真をいくらでも撮れたものです。十年後、その弟のステファンにスイミングのレッスンを見学にきて写真を撮ってよと頼まれたときには、とんでもない大変なことになりました。プールサイドに座って友人とのおしゃべりに気をとられながら、私は無意識にバッグからカメラを取り出しました。おしゃべりを続けながら、ふと私は背後で騒動がもちあがっているのに気がつきました。警笛が吹かれ、監視員が手を振って誰かに叫んでいます。私と友人は顔を見合わせ、騒ぎに注意を向けました。いったいぜんたい何が起こったのと。そしてようやく、監視員がカメラをしまうように叫んでいるのだと気がつきました。まるで私が凶器でもバッグから取り出したみたいに。ステファンはこの日、生まれて初めてプールの端から端まで泳ぎきったというのに、その記念すべき写真は1枚も撮ることができなかったのです。
 こういった規制の哀しむべき帰結は、「stranger-danger」や写真の問題、身元調査の意味などを子どもがどこかでどうにかして悟ってしまうということです。そして、そこから導かれるメッセージはただひとつです。無条件で大人を信頼できるとは思うなよというメッセージ。
 現代の恐怖文化──特に「子どもが犠牲者になる」というパニック──のもうひとつの副作用は、大人が自信をなくしてしまうことです。困っている子どもを助けようと一歩踏み出す勇気をなくしてしまうのです。IDタグを販売しているIdentikidsという会社による500人の男性を対象とした調査の結果、75%の男性が困っている子どもを見かけても人目を気にして助けようとはしないということがわかりました。児童虐待に対する意識があまりに強いため、迷子その他の危険な状況にあるように見える子どもに公共の場所で手を貸すことがためらわれるようになっているのです。23%は、子どもを完全に無視すると答えています。その他の男性は、女性もしくはその場の関係者を探すといいます。この疑念は、他の大人に対しても向けられます。67%の男性は、困っている子どもにあえて近づく男性の意図を疑いの目で見るといいます。
 これは、イギリスだけの現象ではありません。カナダ人セラピストのMichael Ungarが「Too Safe for Their own Good」で書いているのを引用しましょう。「私は公共の場所で自分の子どもではない子どもに手を貸すとき、いつも不安になります。この子の親がどう思うかと、いつも気になるのです。けっして危害を加えないとわかるように気をつかっても、見知らぬ男が子どもに近づくのを見てどう思うだろうかと。この地域の子どもらが子どもだけで歩いていても声をかけようと思わないと他の親御さんが言うのも聞いたことがあります」。
 実際、いまではこういった疑いの雰囲気が子どものそばで働く大人たちをつつみこんでいるのです。そして、教員、学童クラブの職員、その他の人々は、怪我をした子ども、困っている子どもに手を貸すことに慎重です。マサチューセッツ・メトロポリタン大学のチームとヘザー・パイパー博士によって実施された重要な研究では、教員、保育所職員までが、担任の子どもたちに触れるの気後れするようになってきていることが明らかにされています。パイパー博士は、数多くの憂慮すべき事件を報告していますが、たとえば、男性体育教師が怪我をした少女をホールに放置した件があります。彼は、女性の同僚教師が到着するのをただ待っていたのです。また、膝をすりむいた子どもに軟膏を塗るのを拒否した教師の件もあげられています。
 この研究によれば、子どもに触れるのを不安に思うことが主流になっているのです。であるなら、なぜ研究者が「まともで有能な子どもの世話をする専門家」と形容するこれらの人々が、子どもが必要とする受けて当然のケアを与えようとしないのでしょうか。パイパーの考えでは、これらスタッフは、不信感を自分の内部に抱え込んでしまっているのです。とどのつまりは、疑わしい行動の兆候がないかを相互に監視し合うようにさえなります。パイパーは、これを「完璧なパノプティコン」と形容しています。「パノプティコン」とは、「全展望監視型」の刑務所のことで、哲学者ジェレミ・ベンサムが考え出した概念です。これは監視官が全受刑者を受刑者が監視されているかどうかさえわからないままに監視することができるような仕組みのものです。ベンサムの言によれば、パノプティコンは「類例のない多数において心に打ち克つ心の力を得る新たな様式である」わけです。
 私が「 Reclaiming Childhood」で論じたように、大人は大人らしく振る舞うべきであり、子どもがより広い世界でやっていくための自信を築き上げていくべきです。つまり、子どもが大人へとたどっていく道程を導くことであり、子どもが知らない人と関わる機会を与え、子どもに目標となる何かを与え、大人の世界は怖れるものでも侮るものでもないのだと教えることなのです。
 人間というものにもっとポジティブなイメージを与え、画一化された疑念や国がお墨付きを与えた煽動に挑むことができれば、子どもの人生を解き放ち、人生を楽しませ、生きることを通じて学ばせることができるようになるのかもしれないのです。

先に紹介したSarah Kulkofsky博士の論文とは別な方面から、「stranger-danger」に警鐘を鳴らすものです。この記事に関する私のコメントは、また回を改めることにしましょう。
posted by 松本 at 07:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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