2009年10月29日

防犯プログラムに関する研究論文の紹介

英語圏では、「いかのおすし」のような防犯プログラムを俗にstranger-dangerと称します。日本で「いかのおすし」に関する研究がほとんど見られないのに対し、外国ではこのような防犯プログラムに関して、いくらかの研究が進んでいます。今回は、そういった研究の中から、2003年に発表された「Stranger Danger: An assessment of the effectiveness of child abduction education」という論文を紹介します(原文はこちら)。著者であるSarah Kulkofsky博士(論文執筆時はコーネル大学、現職はテキサス工科大学)の了解を得ていますので、今日は翻訳全文を下記に掲載します。
Stranger Danger: 子どもに対する誘拐対策教育の効果アセスメント
コーネル大学
Sarah Kulkofsky
 子どもが被害者になる誘拐事件は非常に目立つことから、子どもをもつ人々や地域社会に恐怖を巻き起こす。エリザベス・スマートのおぞましい誘拐事件や、5歳のサマンサ・ラニオンの誘拐、殺人、性的暴行のような事件が世間の耳目を集めると、多くの場合、このような悲劇が二度と起きないよう何か対策が必要だという反応が引き起こされる。際立った事件は法制度(たとえばMegan法)や組織(たとえば全国子ども失踪・人身売買センター)、子どもに防衛技術を教えるための教育プログラム(たとえばSafe Street)の創設のきっかけとなる。
 1980年代以降、子どもに対する犯罪への意識が拡大してきたことを背景に、犠牲者とならないようにする方法を子どもたちに教えることを目的にした教育プログラムが増加してきた。アメリカ全土の子どもたちのうち3分の2近くがこのような犯罪防止プログラムに参加していると答えている(Finkelhor & Dziuba-Leatherman, 1995)。こういったプログラムは非常に一般的なものであるが故に、教室におけるその効果をアセスメントして、教育における貴重な時間と予算に価するものであることを確認することが重要となる。
 今日に至るまで、「伝統的な」誘拐防止プログラムの有効性を支持する証拠はほとんどない。これらのプログラムはさまざまな方法で子どもにメッセージを伝えるものであるが、おもに3つのテーマに集約される傾向がある。第一には、知らない人は外見がいい人に見えても危険であるということを子どもに教えるもので、一般に「stranger-danger」という用語で表現される概念である。第二には誘いの言葉を学ぶものであり、第三には誘拐犯から逃げる方法である。この点に着目した研究の数は実際のところごくわずかでしかないのだが、誘拐を避けるために必要となる適切な方法、知識、行動が子どもに見られたことを示す研究は報告されていない(Bromberg & Johnson, 1997)。
 伝統的なプログラムと対照的に、「行動技術訓練」(Behavioral Skills Training - BST)法に関しては比較的多くの研究が実施されてきている。BST法は指導、モデル化、リハーサル、顕彰、フィードバックによる修正に力点をおいた経験則に基づいたアプローチである。BSTプログラムは「stranger-danger」そのものを強調するわけではないが、知らない人からの誘いにどう対応すべきかは子どもに教えている。単独の子どもに対するBST訓練を検証した複数の研究によれば、これらのプログラムは子どもたちに誘拐防止の方法を教える上で効果があることが示唆されている。ただし、これらは多大な労力を要する訓練であり、子どもが身につけた技術が長期にわたって持続することを支持する明確な証拠は得られていない(Bevill & Gast, 1998; Bromberg & Johnson, 1997)。多人数の集団に対してBST法が用いられた場合、その利便性を示す実験結果はごく限られた支持しか与えていない。教室単位で行われたBSTプログラムの効果を検証した研究では、確かにこれらのプログラムの成績は伝統的なプログラム(及びまったくプログラムを施さない場合)よりも優れてはいるが、それでも必ず相当数の子どもが適切な誘拐防止技術を示せずに終わっている。加えて、長期的な技術の持続に関しては、その証拠は存在しない(Bevill & Gast, 1998; Bromberg & Johnson, 1997)。
 伝統的なプログラムが予防技術の指導に有効性をあらわさず、BSTが少なくともそこそこの成果を見せるらしいということから、研究者らは就学前の子どもや幼稚園児にBST訓練プログラムの実施を提唱してきた。たとえば、BrombergとJohnson(1997)は、「行動技術訓練プログラムの実施に必要な時間、費用、労力の投資は、わが国の子どもたちを守る上で重要な成果をもたらすだろう」(p.630)と論じている。しかしながら、下記に論じるように、広く信じられているリスクではなく子どもたちの実際のリスクという文脈においては、BSTプログラムはそのような「重要な成果」をもたらすものでもないのかもしれない。
 誘拐は一般に多くのメディアの注目を集めるものであるが、実際には非常に稀なものである。家族以外の犯人による誘拐というもっとも危険なものがステレオタイプ的な誘拐の形態であるが、これはメディアの誘拐報道でしばしば注目を集めるものである。近年の全国的な推計では、年間115件程度のステレオタイプ的な誘拐が発生しているに過ぎない(Finkelhor, Hamer, & Sedlak, 2002)。よって、ステレオタイプ的な誘拐のリスクは、ざっと60万分の1であり、落雷事故のリスクと同程度に過ぎない。さらにまた、ステレオタイプ的な誘拐のほとんどが青年期の子どもを被害者とするものであり、児童・幼児を被害者としたものではない。通常の学校ベースの防犯プログラムの対象となる5歳以下の子どもは、ステレオタイプ的な誘拐のターゲットとなる可能性がもっとも低いのである(Finkelhor, et al., 2002)。これら児童・幼児期の子どもにとって最大の危険は知らない人による誘拐ではなく、家族内での連れ去りなのである。このような家族による誘拐は、全年齢の子どもを通じて家族以外の犯人による誘拐よりはるかに頻繁に発生している。そして、知らない人を誘拐犯人と想定した防犯プログラムは、家族(たとえば親権のない親)による連れ去りに関してはまったく効果を発揮しない。
 知らない人を犯人とする誘拐の発生率が低いことを前提にすれば、BSTプログラムが「 わが国の子どもたちを守る上で重要な成果をもたらすだろう」という結論は再考すべきだと思われる。教育関係者は、高価で時間を浪費するBSTプログラムが、ステレオタイプ的な知らない人による誘拐の希少性に照らして(さらには長期的効果の証拠がほとんどない事実に即して)、本当に価値のある事業であるのかどうか判断すべきであろう。加えて、教育関係者は現行の伝統的なプログラムの実施に関しても再考すべきである。限られた時間とリソースを考慮すれば、安全教育は子どもが直面するより関連性の高いリスク、たとえば、いじめ、自転車事故、家庭内での虐待などに集中する方がより有益であるのかもしれない。誘拐防止教育のプログラム化は、より大きな誘拐リスクにさらされている思春期以後の子どもを対象に将来開発され得るかもしれないし、これら成長した子どもであれば、児童・幼児期の子どもに比べて認識能力が高いためにそういったプログラム実施からより大きな利益を受けられるのかもしれない。さらに、単に知らない人の誘いに反応するといった範疇を越えてより多様な状況に適用できる防犯技術に関する将来の研究が必要である。そういったプログラムが開発されるまでは、教育関係者や行政関係者は、誘拐事件を現象させるための戦略としての誘拐防止教育プログラムを考え直す必要があるだろう。

参考文献
Bevill, A.R. & Gast, D.L. (1998). Social safety for young children: A review of the literature on safety skills instruction. Topics in Early Childhood Special Education, 18, 222-234.
Bromberg, D.S. & Johnson, B.T. (1997). Behavioral versus traditional approaches to prevention of child abduction. School Psychology Review, 26, 622-633.
Finkelhor, D. & Dziuba-Leatherman, J. (1995). Victimization prevention programs: A national survey of children's exposure and reactions. Child Abuse and Neglect, 19, 129- 139.
Finkelhor, D., Hammer, H., & Sedlak, A.J. (2002). Nonfamily abducted children: National estimates and characteristics. Washington, D.C.: U.S. Department of Justice, Office of Justice Programs, Office of Juvenile Justice and Delinquency Prevention

いろいろと示唆に富む論文です。この論文に関するコメントは、明日にでも別エントリーで書きましょう。
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2009年10月31日

過度の防犯意識は敵意に満ちた大人の世界をつくる

私は、「いかのおすし」的教育は子どもにとって有害だと思います。そして、有害な教育は、生き辛い社会を形作っていくことになると思います。それは、巡り巡って子どもらの安全性をかえって損なうでしょう。

そういった私の考えを裏打ちするようなエッセイを、イギリスの大学で教鞭をとっておられるHelene Guldberg博士がブログに書いておられました。博士の許可を得て、以下に翻訳文を掲載します。原文は、こちらになります。

「Stranger-danger」のパニックが敵意に満ちた大人の世界をつくる


Helene Guldberg
(2009年7月17日)

 子ども相手の仕事と爆発物を扱うのと、どっちが厳格な安全性を求められるのでしょう。イギリスを代表する児童文学家が何人か、学校での朗読に参加するのを拒否するという声名を今週になって出しました。性的暴行者でないことを証明するために犯罪歴のチェックを求める新たな方針が採用されたからです。
 2007年の「明るい未来を築くために」という文書中で、イギリス政府は次のように論じています。「若年者及び弱者の安全を守る上での政府の主要目的のひとつは、不適切な人々がこれら弱者に業務を通じてアクセスするのを防止するのを支援することです」。さらに後の方では、「2006年弱者集団安全保護法を通じて、子どものそばで業務を行うことを志望する個人の身元調査のためにもっとも堅固な方式を創設する法制度を確立しました」と豪語しています。
 人気作家のフィリップ・プルマンは、大規模な身元調査は「子どもの世界観を歪め、『基本的には信頼ではなく疑いを』と子どもが考えるように仕向けるものだ」と正論を吐いています。彼の言葉によれば、私たちは子どもらに「この世界は誰もがお前を殺し、暴行しようとしている暗黒で汚らわしい場所なのだ……。人間の他者に対する初期設定は親切ではなく獲物を狙う心なのだと」と教えているのです。
 子どもの心に知らない人すべてに対する恐怖を植え込むのは非生産的です。これが両親と子どもに伝えるメッセージは、子どもの近くで働くことを志望するあらゆる大人を疑えということです。あらゆる成人に対する無差別な身元調査に反対するマニフェスト・クラブのキャンペーンを主催するジョシー・アプルトンは、次のように論を張ります。「子どもを守るためという名目で行われる成人の身元調査は、濫用されています。現在身元調査の対象になっているのは、たとえば子どもに読み書きを教える16歳の若者、学校でボランティアをする父母、里親の友人などです。学童クラブの運営は、爆発物取扱い以上の厳格な安全審査の対象になってしまっています」。
 いまでは、イギリスでは自分の子どもや孫、甥や姪の写真を撮ることさえ、公共の場所では不可能に近くなっています──近くに他の子どもがいるとしたら。私の甥っ子のいちばん年上であるマーカスが4歳の誕生パーティーをブリストルのプールで開いた1996年には、プールで遊び回る子どもたちの写真をいくらでも撮れたものです。十年後、その弟のステファンにスイミングのレッスンを見学にきて写真を撮ってよと頼まれたときには、とんでもない大変なことになりました。プールサイドに座って友人とのおしゃべりに気をとられながら、私は無意識にバッグからカメラを取り出しました。おしゃべりを続けながら、ふと私は背後で騒動がもちあがっているのに気がつきました。警笛が吹かれ、監視員が手を振って誰かに叫んでいます。私と友人は顔を見合わせ、騒ぎに注意を向けました。いったいぜんたい何が起こったのと。そしてようやく、監視員がカメラをしまうように叫んでいるのだと気がつきました。まるで私が凶器でもバッグから取り出したみたいに。ステファンはこの日、生まれて初めてプールの端から端まで泳ぎきったというのに、その記念すべき写真は1枚も撮ることができなかったのです。
 こういった規制の哀しむべき帰結は、「stranger-danger」や写真の問題、身元調査の意味などを子どもがどこかでどうにかして悟ってしまうということです。そして、そこから導かれるメッセージはただひとつです。無条件で大人を信頼できるとは思うなよというメッセージ。
 現代の恐怖文化──特に「子どもが犠牲者になる」というパニック──のもうひとつの副作用は、大人が自信をなくしてしまうことです。困っている子どもを助けようと一歩踏み出す勇気をなくしてしまうのです。IDタグを販売しているIdentikidsという会社による500人の男性を対象とした調査の結果、75%の男性が困っている子どもを見かけても人目を気にして助けようとはしないということがわかりました。児童虐待に対する意識があまりに強いため、迷子その他の危険な状況にあるように見える子どもに公共の場所で手を貸すことがためらわれるようになっているのです。23%は、子どもを完全に無視すると答えています。その他の男性は、女性もしくはその場の関係者を探すといいます。この疑念は、他の大人に対しても向けられます。67%の男性は、困っている子どもにあえて近づく男性の意図を疑いの目で見るといいます。
 これは、イギリスだけの現象ではありません。カナダ人セラピストのMichael Ungarが「Too Safe for Their own Good」で書いているのを引用しましょう。「私は公共の場所で自分の子どもではない子どもに手を貸すとき、いつも不安になります。この子の親がどう思うかと、いつも気になるのです。けっして危害を加えないとわかるように気をつかっても、見知らぬ男が子どもに近づくのを見てどう思うだろうかと。この地域の子どもらが子どもだけで歩いていても声をかけようと思わないと他の親御さんが言うのも聞いたことがあります」。
 実際、いまではこういった疑いの雰囲気が子どものそばで働く大人たちをつつみこんでいるのです。そして、教員、学童クラブの職員、その他の人々は、怪我をした子ども、困っている子どもに手を貸すことに慎重です。マサチューセッツ・メトロポリタン大学のチームとヘザー・パイパー博士によって実施された重要な研究では、教員、保育所職員までが、担任の子どもたちに触れるの気後れするようになってきていることが明らかにされています。パイパー博士は、数多くの憂慮すべき事件を報告していますが、たとえば、男性体育教師が怪我をした少女をホールに放置した件があります。彼は、女性の同僚教師が到着するのをただ待っていたのです。また、膝をすりむいた子どもに軟膏を塗るのを拒否した教師の件もあげられています。
 この研究によれば、子どもに触れるのを不安に思うことが主流になっているのです。であるなら、なぜ研究者が「まともで有能な子どもの世話をする専門家」と形容するこれらの人々が、子どもが必要とする受けて当然のケアを与えようとしないのでしょうか。パイパーの考えでは、これらスタッフは、不信感を自分の内部に抱え込んでしまっているのです。とどのつまりは、疑わしい行動の兆候がないかを相互に監視し合うようにさえなります。パイパーは、これを「完璧なパノプティコン」と形容しています。「パノプティコン」とは、「全展望監視型」の刑務所のことで、哲学者ジェレミ・ベンサムが考え出した概念です。これは監視官が全受刑者を受刑者が監視されているかどうかさえわからないままに監視することができるような仕組みのものです。ベンサムの言によれば、パノプティコンは「類例のない多数において心に打ち克つ心の力を得る新たな様式である」わけです。
 私が「 Reclaiming Childhood」で論じたように、大人は大人らしく振る舞うべきであり、子どもがより広い世界でやっていくための自信を築き上げていくべきです。つまり、子どもが大人へとたどっていく道程を導くことであり、子どもが知らない人と関わる機会を与え、子どもに目標となる何かを与え、大人の世界は怖れるものでも侮るものでもないのだと教えることなのです。
 人間というものにもっとポジティブなイメージを与え、画一化された疑念や国がお墨付きを与えた煽動に挑むことができれば、子どもの人生を解き放ち、人生を楽しませ、生きることを通じて学ばせることができるようになるのかもしれないのです。

先に紹介したSarah Kulkofsky博士の論文とは別な方面から、「stranger-danger」に警鐘を鳴らすものです。この記事に関する私のコメントは、また回を改めることにしましょう。
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2009年11月04日

安全神話の崩壊という神話

不幸な事件が起こるたびに、「安全神話は崩壊した」といった論評が行われます。安全神話というのは、たとえば「日本の技術は優れているので鉄道事故が起こるはずはない」という固定観念を指します。これが「神話」であることは何もその崩壊を待たなくても明らかなことでしょう。何の前提もなしに「安全」が存在するわけなどありはしません。「安全神話」は確かにかつて存在しましたし、多分、いまでも存在するのでしょう。

一方、「安全神話が崩壊した」という言葉の意味は、「この社会には安全なものなどひとつも存在しないのだ。だから、危険から身を守るためには万全の備えをしなければならない」という文脈で使われることが多いようです。そして、この「安全神話の崩壊」そのものが、既に「神話」と化しているように私には思えます。

たとえば「いかのおすし」です。子どもの日常に関して、「安全神話は崩壊した」、だから防犯教育が必要だというのが、「いかのおすし」の大前提になっています。しかし、子どもの身の安全に、もともと「安全神話」など存在したでしょうか。無条件に子どもが安全であるとするような考え方は、おそらく数百年以前から日本に存在したためしはないでしょう。そして、事実として、子どもが被害者になる犯罪は戦後数十年かけて激減し、ここ十数年ほどはほぼ横ばいになっています。「安全神話」もなければ、その「崩壊」を示す事実もありません。

「安全神話の崩壊」は、確かに科学技術の社会的な応用といった分野では事実なのかもしれません。技術者はだいたいにおいて、「絶対に安全だ」などとは考えないものですが、それが社会に実用技術として提供されるときに「安全神話」が生まれます。原子力発電所などは、まさに「安全神話」の上に成り立っているわけで、その「神話」を取っ払ったら、メリット、デメリットに関してまったく別な議論が生まれていたに違いありません。そして、そういった神話を信じる人はどんどん減少しているわけですから、これを「安全神話の崩壊」と表現するのもかまわないでしょう。

しかし、それを社会一般に当てはめるのはどうかと思うわけです。ことに、犯罪に関しては、もともと「安全神話」は存在しません。「日本が諸外国に比べて犯罪の発生率が低い」というのは神話でなく事実ですし、この事実は長期にわたって変化していません。さらに、その事実が社会的に認知されていた時代にあってさえ、防犯の重要性は常に説かれていたわけです。

では、何が変化したのかといえば、人々の意識です。「日本は犯罪社会になった」という思い込みが、何の根拠もなく拡大したのです。つまり、「安全社会の崩壊」という神話が生まれたわけです。

そして、日常生活に「予防原則」が採用されるようになりました。これに関して、こちらに重要な指摘があります。
予防原則は、日常生活で導入されるには適しておらず、大変お金のかかるものである
これは、Aaron Widavskyという社会学者の発言の引用らしいのですが、「わずかの危険も許さない」という態勢は、原子力発電所のような巨大技術には適用できても、日常生活では無理があると私も思います。特に、成長期にある子どもに適用すべきものではないと思います。

こういった過剰な防犯指導に関しては、こちらのブログに批判的な記述があります。そこから情報をたどると、こちらで川端裕人氏が毎日新聞に記事を書かれていたことがわかります。かなり興味深い記事なのですが、残念ながらリンク先は既に削除されていました。著作権その他に問題がなければどこかにアップしていただけると嬉しいのですが、昨今の情勢ではそうもいかないのでしょうか。

「安全神話」も「安全神話の崩壊」も、何らかの意図にもとづいて(誰か意図する黒幕がいるという意味ではなく、社会的意図という意味です)事実にもとづかずに流布したものです。それが過剰な防犯意識を生み出しているあたりに、何か「いかのおすし」問題を読み解く鍵があるのかもしれません。

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2009年11月17日

大人の世界と子どもの世界

「いかのおすし」キャンペーンと類似の活動として英語圏で行われている「Stranger danger」に関する研究論文をいくつか読んでいました。ちょっと読みこなしに時間がかかったので更新の間が開いてしまいましたが、日本で「いかのおすし」に関する学術的な発言がほとんどないのに比べ、英語圏ではそこそこの分量の研究がstranger-dangerに関して見られます。今回は、イギリスはグラスゴー・カレドニアン大学の研究者であるSue Scott教授の研究をとりあげましょう。まずは、十年以上前(1998年)の論文である「Swings and roundabouts: risk anxiety and the everyday worlds of children.」です。初出はイギリス社会学会の「社会学」のようですが、ネット上で公開されていて誰でも読めるようになっています。

論文のタイトルは「ブランコとメリーゴーラウンド」というもので、これは英語の諺に由来するものだそうです。つまり、遊園地では、ブランコに人気が集まるとメリーゴーラウンドは閑散とするし、メリーゴーラウンドが流行ればブランコはさびれるという具合に、全てがうまくいくことはない。けれど、ブランコがダメなときはメリーゴーラウンドでそこそこ稼げるし、メリーゴーラウンドがダメでもブランコから売上が確保できるというように、どっちもだめということはない。つながりあっている2つの事柄のどちらもうまくいくこともなければ、共倒れということもないというような意味だそうです。

わかりにくいタイトルですが、どうもスコット教授はこういう論文らしくないタイトルを好むようです。この論文では、ブランコが安全で、メリーゴーラウンドが子どもの自立ということになりそうです。安全を強調し過ぎると子どもの自立が損なわれ、子どもの自立を重視し過ぎると子どもの安全性に問題があるという議論がイギリスでは古くからあるようです。おそらくそれを「両立が難しい」という諺で表現したのでしょう。

しかし、奇妙なことに、この論文の要旨は安全と自立の両立ではありません。結論はおそらく、性教育が欠如している安全教育は片手落ちだということになるのでしょう。この議論そのものがわかりにくいのですが、これはこれで説得力があります。

簡単にまとめると、まず、欧米では「stranger-danger」の安全教育が大きく性犯罪被害防止にシフトしているという前提があります。つまり、「知らない人」による児童・幼児に対する犯罪が微小であり、その多くが思春期前後以上に対するものであることは、既に十年以上前から欧米では常識になっているわけです。したがって、安全教育を施す側の意識としては、「stranger-danger」は性犯罪被害防止でしかあり得ないわけです。ところが、stranger-danger教育は、日本の「いかのおすし」同様に、幼稚園児、小学校児童の年齢層を対象に行われています。この年代の子どもには十分な性知識がないため、性犯罪の具体的な被害をイメージできず、結果としてstranger-danger教育は空回りしている、というのがだいたいの流れとなっています。

ですから、結論そのものは、ある意味、地味で、興味に乏しいものです。この結論から導かれる議論は、「だったら安全教育と組み合わせてきちんと性教育をすべきだ」とか「安全教育の対象年齢を引き上げるべきだ」といった実務的なものにしかならないでしょう。

この論文が興味深いのは、実はそういった議論の方向性ではありません。子どもの安全と自立を天秤にかける観点でさえありません。そうではなく、研究の切り口なのです。

スコット教授の方法は、子どもの世界観と大人の世界観をはっきりと別物としてとらえるところから始まります。それぞれの「リスク風景」が異なっていることを明らかにし、そこが問題の出発点であることをはっきりさせていくわけです。

大人にとって、主な危険は性犯罪です。暴行や強姦、人身売買が恐怖の対象であり、それにつながるものとして連れ去りや声かけが問題になるわけです。ところが、低年齢の子どもの世界から見た危険は、まったく異なります。連れ去りは身代金目的の誘拐や殺人に直結しています。犯罪者のイメージも、まったく異なりますし、そこからもたらされる危険地域や時間帯のイメージもちがっています。

このような差異は、スコット教授が参加した別の研究である"Children 5-16: Growing into the Twenty-First Century"プロジェクト報告に具体的に現れています。

そして、このような「リスク風景」の違いよりもさらに興味深いのは、スコット教授が、子どもを「社会的存在」として認識していることです。子どもは、生得的に子どもなのではなく、社会構造の中で子どもとして位置づけられることで子どもとなるのだという考え方です。したがって、「一般的に子どもはこうである」という考えと、「自分の子どもはこうだ」という認識が違っているのは不思議ではないというようなことも書かれています。社会構造の中で、大人は子どもを管理すべきもの、保護すべきものとして扱いますが、これは生得的にそうだというわけではないという主張です。実際、これは「子ども時代」というものの歴史を振り返ればその通りだと言わざるを得ないでしょう。「子どもを子どもそのものとしてとらえるのではなく、未来の大人としてとらえる」仕組みです。

また、大人にとって、「子どもの危険」は2通りの意味をもつという指摘も、非常に説得力があります。つまり、子どもは外部からの危険に晒される存在であると同時に、危険な行動をとる存在でもあるわけです。特に、ティーンエイジャーは、危害を加える側としても大人にとって不安の対象になります。低年齢の子どもの「リスク風景」にも、街にたむろするティーンエイジャーは巨大な危険として存在します(stranger-danger犯罪の主な被害者がティーンエイジャーであるという事実、そしてstranger-danger教育の主な対象が低年齢児童であることを考え合わせると、これは非常に不思議な状況を作りだしています)。

そして、子どもを管理しようとする大人の方針は、子どもを大人に依存させることによって成立します。「子どもを育てる」ことが、「子どもの自立を制限する」ことと一体化しているわけです。そして、「子どもは無邪気なもの」という概念が子どもに押し付けられることになります。「無邪気な子ども時代を守る」ことが安全教育の目標となるため、もっとも無邪気とされる低年齢児童に対してstranger-dangerが行われるというちぐはぐなことが起こりうるわけです。つまり、安全教育は、実際のリスクに対してではなく、大人の「リスク風景」にもとづいて行われることになります。このリスク風景そのものが、大きく矛盾しているわけです。

興味深いところをとびとびに引っ張り出すととりとめないことになりますが、スコット教授の視点は、「いかのおすし」を考えるときに非常に重要なものだと思います。特に教授は、「リスク」と「リスク不安」を厳密に区別すべき概念と考えています。「いかのおすし」のような安全教育は実際のリスクに基づいて行われるのではなく、リスク不安を出発点としています。そのリスク不安は、誰のもの、何のためのものかを考えていけば、この論文の結論以上に興味深い考察が生まれるのではないかと感じました。

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2009年11月19日

「恐怖の文化」

先日、Sue Scott教授の研究「Swings and roundabouts」をとりあげましたが、この論文の中で、ケント大学のFrank Füredi教授の「Culture of fear: risk-taking and the morality of low expectation」という1997年の本が引用されていました(2002年の改訂版もあるようですが、引用されたのは旧版でしょう)。Füredi教授には、2002年の「 Paranoid Parenting」という本もあり、こちらは一部抜粋がFüredi教授自身のサイトで公表されています。「Culture of fear」の方はGoogleの書籍検索で一部分を立ち読みできますので、チェックしてみました。

教授の指摘は、「恐怖」を煽りたてることで、常識的には受け入れられないような規範を常識に変化させることができるという点にあるようです。そして、このような操作が日常的に行われる現代文化は、まさに「恐怖の文化」だということでしょう。
1988年にリーズで内務省が開始した「Stranger-Danger」対策のような脅迫的なキャンペーンが悲惨な結果を招いていることは、多くが指摘するところである。知らない人は信じてはならないと子どもたちに警告することで街中を席巻したこのキャンペーンは、この問題に関してほとんどパニックに近い雰囲気を生み出した。ヨーロッパの他のほとんどの地域のどこと比べてもイギリスでは、子どもが自分たちだけで街を歩く自由が失われている。地域によっては、学校への送り迎えをしない親は、子どもを危険にさらしていると白眼視されるようになっている。この「Stranger Danger」文化の帰結は、近年の子どもの自立した行動に関する研究によくまとめられている。「安全が恐怖によって宣伝されるような世界を、私たちは子どもたちのためにつくりだしている。『一歩間違えば命を失うぞ』というようなキャンペーンの伝えるメッセージは、危険の発生源と大きく異なっている。子どもの安全に責任を負う人びとによって何のためらいもなくこのような世界が宣伝され得るということ、それが世論の怒りを引き起こすこともないということは、非常識がここまで常識になってしまったことをよくあらわしているのである」。様々な正義を推進するための装置として恐怖を利用することが、悲しむべきことに広く受け入れられているのである。

このような条を読むと、私自身が反「いかのおすし」キャンペーンに「恐怖の装置」を利用していることが反省されます。つまり、「いかのおすし」を推進することがいかに子どもの正常な発達を妨げるのか、いかに危険であるのかを私はこのブログで説いてきたわけです。つまり、恐怖でもって「いかのおすし」を広めようとする動きに対して、恐怖でもってそれを押しとどめようとしているのです。まさに私自身が、「恐怖の文化」に染まっているのではないでしょうか。
「子どもを守ろう」業界の人びとは、stranger-dangerと子どもが屋外で直面する事故についての警告を発することで、子どもをもつ人びとの間にある種のパラノイアを生み出すのに寄与してきた。2001年6月、子ども事故防止基金が発行した報告書では、子どもの誘拐が親にとって重大なリスクであるという俗説に正当な反論がなされている。これは一歩前進であろう。ところが大きな後退は、誘拐以上に怖ろしい物語が展開されることである。報告書では、子どもの事故が自宅でもっとも危険性が高いことが警告されている。あらゆる低年齢の子どもにとって最大の危険は「自分の家の中にある」のだから、親たるもの、パラノイドになるのならこの正しい危険に関してパラノイドになりましょうというわけである。こういった「こっちの方が危険」という競合する警告が、人びとの恐怖と不安をさらに高めていっているのである。

このような一方的な不安感の増加を、Füredi教授はどうやら子どもをもつ親同士の信頼感の欠如と関連づけているようです。立ち読みなので詳しいことはわかりませんが、「Paranoid Parenting 」の抜粋の方には、
子どもに近づくことで怪しまれるのではないかと過剰に意識する大人の増加は、子どもの親にとって重大な問題になっている。母親、父親は、他人には頼れないと感じるようになっている。それ以上に、多くの子どもの親は、他人が自分の子どものことに手出しをしないで欲しいと考えるようになってきている。親たちは、他の人びとを味方と考えるのではなく、自分の子どもを狙っている変質者かもしれないと思うようになっている。子どもと関わる能力の欠如した大人と「stranger-danger」の不安にかられた親たちは、コインの表裏をなしているわけだ。
という記述があります。

Füredi教授の考え方は、「いかのおすし」と社会を考える上で、注目すべきものであるかもしれません。

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2010年04月12日

教科書にまで! 「いかのおすし」

読売新聞の報道によると、「いかのおすし」は、ついに教科書で教えられることになったようです。

[生活・音楽]防犯意識を強調
 生活では、犯罪から身を守る意識を強調する教科書が目立った。
 「(付いて)いかない」「(車に)のらない」「大声を出す」「すぐ逃げる」「知らせる」という不審者への対応を5項目の頭文字でつなげた標語「いかのおすし」は三つの教科書に登場した。入学後に学校生活に適応できない「小1プロブレム」解消のため、遊びを中心とした活動を授業につないでいく試みもあった。
 音楽では、扱う楽器で和楽器が新指導要領で明記され、琴の弾き方も取り上げられた。また、沖縄の音楽を特集し、独特のリズムと音階を使って節を作る内容を扱った教科書もあった。
2010年3月31日 読売新聞

教科書は、多くの人が制作に携わるものです。本来中立とは言いながら出版社の立場によって実際には様々な思想・信条を反映した教科書が存在するのは現実ですが、それでも、多くの人の手を経ることによって、あまりに極端な考え方が表面に出ないようになるものです。

しかし、「いかのおすし」は、常識では理解できない極端な排除思想です。教科書編集に携わった多くの人の誰一人としてそれを気にしなかったというのは、背筋が凍るほどの怖ろしい状況だといえます。

「学校とはそういうものさ」「教科書とはそういうものでしょう」と、肩をすくめることもできるかもしれません。けれど、単純に一人の大人として、私はこういった思想を子どもに伝えることを恥ずかしいとおもいます。自分自身が人間として、恥ずかしいのです。

私は、自分自身の恥辱を雪ぎたいというその個人的な思いをもとに、引き続き「いかのおすし」批判を強めていきたいとおもいます。
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2010年09月09日

最も危険な5つのこと

興味深い記事を見つけました。子どもの安全について、親のもつ考え方と実態がいかにかけ離れているかを説明した記事です。こちらに原文があります。

5 Worries Parents Should Drop, And 5 They Shouldn't

最もわかりやすいのが、次の部分。引用します。ちなみにこれは、The Paranoid Parents Guideの著者であるChristie Barnesさんの研究によるものだそうです。

親が心配する危険性の上位5位
  1. 誘拐
  2. 学校での銃撃事件
  3. テロリスト
  4. 不審者
  5. 麻薬・覚せい剤など

一方、子どもが実際に遭遇する危険の上位5位
  1. 交通事故
  2. 顔見知りや近親者による殺人
  3. 虐待
  4. 自殺
  5. 水難事故



このブログで何度も繰り返し力説してきたとおり、実際には不審者による危険性はトップ5に顔を出しさえしていないのです。不審者以外の殺人が2位に入っているのはさすがにアメリカならですが、これは「不審者対策」では防げません。むしろ怖いのは、不審者ではない人による虐待でしょうね。「自殺」がそこに関係してくるケースも十分に考えられます。

ということで、最も理性的な親のとるべき対応として、「シートベルト着用」と「ヘルメット着用」をChristie Barnesさんは推奨しています。「あまりにありきたりかもしれないけれど」それが最も合理的な子どもの安全対策のようですね。



posted by 松本 at 13:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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