2009年09月09日

「いかのおすし」の水掛け論

「いかのおすし」的教育が子どもの健全な発達にとって有害だという私の主張には、「私がそう思う」という以上の根拠はありません。もちろん、演繹的な理由づけはあります。詳細は別記事に譲るとして、簡単にまとめると、次のようなものです。
社会生活において最も必要とされる能力の一つは、コミュニケーション技術である。コミュニケーションの技術の中心にあるのは、「異質な他者とどのようにかかわるか」という方法論である。これを発達させるには、同質の仲間同士ではなく、異質な人々と実際にかかわっていく経験が必要である。未知のものに対してそれを拒否し、逃げることのみを推奨するような「いかのおすし」的発想では、この能力の発達は著しく阻害される。

ただし、この議論に証拠はありません。

証拠を出せといわれたら、検証するための調査をしなければいけないでしょう。「いかのおすし」的教育を施した集団と施さなかった集団について、5年後のコミュニケーション能力を実測して、統計的に処理する必要があります。そんな「証拠」は、不可能です。

しかし、一方で、「いかのおすし」が効果をあげているかどうかの検証も不可能でしょう。たとえば、小学生にアンケートをとって「いかのおすし」の意味を尋ねるような調査ならできるかもしれません。それでしかるべき割合の子どもが「ついていかない、車に乗らない、大声を出す、すぐ逃げる、知らせる」と答えたら、「効果があった」と主張することもできるかもしれません。けれど、「いかのおすし」の最終目標が「連れ去り犯罪の防止」であるのなら、いくら子どもに「いかのおすし」を暗記させても、それだけでは意味はありません。

そして、これが本当に効果を上げたかどうかを判定するには、犯罪の発生率が似たような2つの地域を選んで一方に「いかのおすし」を施し、施さなかった方とその後の連れ去り犯の発生率を比較しなければなりません。そんな検証をするのは、「いかのおすし」の有害性を立証する以上に困難です。

ですから、「いかのおすし」的教育の是非は、水掛け論になります。2つの思想の主観的な主張になります。

しかし、だからこそ、私は声を上げたいのです。「それはおかしいと思う人々がいるのだよ、少なくとも私はおかしいと思っているのだよ」と伝えない限り、根拠のない一つの思想だけが世の中を支配してしまうと思うからです。

思想には、根拠はないものだと思います。それだけに、さまざまな思想が譲り合って世の中を回していくことが重要ではないのでしょうか。私は、根拠もなく、そう信じています。
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2009年09月12日

キャンペーンに意味はあるの?

「いかのおすし」が嫌だなあと思ってこのブログを書き始めた私ですが、「いかのおすし」について考えていて、さらに疑問が広がりました。そもそも、「いかのおすし」に代表されるようなキャッチフレーズやそれを展開したキャンペーンって、意味があるのでしょうか。

発想は理解できます。警察や学校、政府には、広く伝えたいメッセージがあります。たとえば「いかのおすし」の場合、「子どもの連れ去り犯罪防止」です。そのメッセージは、そのままでは伝わりません。たとえばお役所式の堅苦しい文書で配布したところで、誰も読んでくれません。そこで、メッセージをわかりやすい形で伝えるため、キャッチフレーズが考案されます。キャッチフレーズはつくっただけでは広まりませんから、さまざまなキャンペーンを通じて浸透をはかります。

こういった考え方の流れは理解できます。けれど、ひとつの発想があることと、それが有効であることとは大きくちがいます。「メッセージをそのまま伝えるよりはわかりやすいキャッチフレーズにしてポスターやキャラクターを使ったキャンペーンを展開すれば効果があるだろう」と考えるのは合理的です。けれど、この合理性は検証されていません。ひょっとしたら、合理的に考えたことが、実は的外れだということもあり得るのです。

キャッチフレーズは、本当にメッセージを正しく伝えるものなのでしょうか。キャンペーンは、メッセージの浸透に役立っていますか? 検証されないアイデアは、机上の空論です。

たとえば、観光客誘致のために地方自治体がキャッチフレーズを考え、キャンペーンを展開することはよくある話です。観光客増加による経済効果が○十億円とか試算され、キャンペーンのために投下される数千万円は安いものだと皮算用が生まれます。ところが往々にして、こういったキャンペーンは検証されません。確かにその夏、観光客は増えたかもしれません。けれどそれがキャンペーン効果なのか、たまたまその夏の猛暑のせいだったのか、判定ができないかもしれません。そして何より、そのキャンペーンのために費やされた予算(+予算に含まれない通常人件費)がもっとも有効な使い方であったかどうかはさらに検証が困難です。たとえば同じ額の予算を施設の整備にあてたり利便性の向上にあてた方が観光客の満足度が高まり、長期的には効果が高かったかもしれません。

同じだけの資源を投下するなら、効果は高い方がいいに決まっています。そして、キャンペーンやキャッチフレーズは、本当に投資効果の高い方法なのでしょうか。

学校の現場は、非常に忙しいものになっています。教職員のもっとも重要な役割は子ども一人一人に目線を向けてその発達により添うことだと思います。それだけでも相当なエネルギーをとられるのに、数多くの事務仕事に忙殺され、本来の仕事が十分にできないことも多いようです。

そして、そういった事務仕事にさらに負担を増加させているのが、「いかのおすし」のようなキャンペーンではないのでしょうか。学校という組織の本来の機能を考えたら、これは投資効果が高いどころか、投資効果を下げる役割しか果たしていないのではないでしょうか。

もっと賢いやり方がないのかと、疑問に思うのです。


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2009年09月15日

「知らない人」は「悪い人」?

「いかのおすし」の最大の問題点は、それが子どもに「知らない人は悪い人」という誤った先入観を与えかねないことです。

確かに、「知らない人」のなかに「悪い人」はいくらかの割合で存在するでしょう。しかし、では、「知っている人」のなかに「悪い人」は存在しないのでしょうか。いいえ、やっぱり同じくらいの確率で存在します。そして、通常は、「知っている人」からの犯罪被害の方が、子どもに与える影響は大きいのです。(たとえば平成19年の犯罪白書の図表では、平成18年には児童虐待で49件の殺人が検挙されており、これらは父親・母親らによるものです)。

「知らない人に気をつけましょう」という発想の中には、いくつかの誤った思い込みがあります。

ひとつは、「仲間内なら安全だ」という根拠のない身内意識です。こういった排他意識が何の効果もあげないことは、明治維新以来百数十年にもわたって指摘されてきたことです。私たちの頭の中は、未だに文明開化していないのでしょう。


こちらのブログで見つけた写真)

もうひとつの思い込みは、「他人が身内のことに口を出すものではない」という誤った社会常識です。かつて、家父長主義の下では、人は国家の支配と家の支配の二重支配を受けていました。人は法の下で平等であるかもしれませんが、一歩家のなかに入ればその法は効力を失います。このような家父長主義の下では暴力が当然であり、子どもに対する暴力は「しつけ」という名で正当化されていました。そして社会はそれに対して口を出すべきではないと考えられたのです。
つまり、警察は家の中のことには干渉しません。となると警察の役割は家の外を守ることになります。つまり、「知らない人」に対する警護をすればいいという発想につながります。家の中がブラックボックスである以上、悪意は外部からやってくるものになるはずなのです。

こういう考え方が効力を失っていることは、古くから指摘されていることです。

子どもたちに、正しいことを伝えましょう。それはきっと、こんなことではないでしょうか。

世の中には、信頼すべき人がたくさんいます。それは、知っている人の中にも知らない人の中にも、無数にいます。そういう人を見分け、そういう人にかかわっていくことが重要です。

一方、世の中にはわずかではあるけれど必ず、危害を加える人がいます。そういう人たちも、ほとんどは「悪い人」ではありません。けれど、さまざまな経緯から「悪いこと」をするようになっています。こういう人から危害を加えられないように用心することは大切です。

身を守ることは、自分一人ではできません。信頼できる人に相談することです。そのためにも、信頼できる人をみつけておかなければなりません。それだけは、自分でやらなければならない仕事です。

けれど、世の中には信頼できる人の方が危害を加えようとする人よりもはるかに多いのです。むずかしいことではありません。心を開いて、できるだけたくさんの人と話をしましょう。まっすぐに目を見て、自分をわかってもらいましょう。

それがあなたの身を守る第一歩です。


地域や家庭が本当に自分を守ってくれるものだという信頼をまず築かないことには、いくら「知らない人に気をつけましょう」と言っても説得力がないのではないでしょうか。
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2009年09月16日

「いかのおすし」は安易過ぎませんか?

昨日の記事を書いていて気がついたのですが、「いかのおすし」がターゲットにしている連れ去り犯被害は、その他の子どもが巻き込まれる可能性のある犯罪に比べれば比較的発生率が低いもののようです。もちろん被害が大きいものは、発生する確率にかかわらず問題としては大きいものです。けれど、たとえば両親どちらかによる子どもの虐待では、毎年数十人が殺害されています(出産直後の嬰児殺しを含めればさらに数は増えるとのこと)。発生件数も被害の大きさも、こっちの方がはるかに大きいのに、「知らない人に気をつけましょう」と教えられることがあっても、「知っている人に気をつけましょう」とは教えられません。

もちろん、児童虐待に対する取り組みも、学校では行われています。被害児童が気軽に相談に行けるカウンセラーが学校には(曜日を決めてですが)常駐するようになっています。そのことを知らせるお知らせも子どもたちに配られ、その配布物は子どもが読めるようにわかりやすいひらがなで書いてあります。

けれど、実際にそういった情報が子どもにきちんと伝わっているかといえば、首を傾げたくなります。学校からの配布物は基本的に「親に宛てたもの」として(少なくとも小学校1年生の私の子どものクラスでは)配布されます。息子は「今日は手紙が3枚」というような報告はしますが、中身は見ようとしません。改めて親の方から、「これは君が読むためのものだよ」と渡さなければなりません。おまけに、その文書は、ひらがな書きとは裏腹に、奥歯にものの挟まったような書き方で、よっぽど気をつけなければ「家庭で虐待されている子どもはここに逃げ場がありますよ」というメッセージだとわかりません。

もしも連れ去り犯の予防に「いかのおすし」のようなキャンペーンが必要なのだったら、それ以上に家庭内での児童虐待予防のために強力なキャンペーンが必要になるはずです。けれど、実際には「知らない人に気をつけましょう」ばかりが強調され、もっと被害の大きな児童虐待について子どもが知るべきことを知らせようという努力が見られません。

なぜそうなのかは簡単に想像がつきます。「家族の暴力に気をつけましょう」なんて学校で子どもに教えられたら、私だって穏やかな気分ではいられません。「あなたの親は犯罪者かもしれません」というのは可能性としては嘘ではなくとも、そんなことを言ったらふつう、「何と非常識なことを子どもに教えるのだ」と保護者からクレームが殺到して当然でしょう。

一方、「知らない人には気をつけましょう」といくら大声で言っても、「知らない人」からクレームがつく心配はありません。「知らない人」は学校に文句を言いにきた時点で「知らない人」ではなくなるのですから、「いえ、あなたのことではないんですよ」と答えればおしまいです。「知らない人」はこの地球上に50億人以上います。その無限に多数のよそ者に転嫁してしまえます。ところが「おうちの人」だと、たとえ特定の人に「あなたのことじゃないんですよ」と言い訳したとしても、「じゃあこの学校の保護者にそんな人がいるんですか?」と問い詰められたら返答ができなくなってしまいます。

だから、「いかのおすし」を子どもたちに唱えさせるのは、単純にそれが簡単だからに過ぎません。それを子どもに教えても誰からも文句はこないし、防犯に努力している格好はつきます。実際の効果よりも、そっちの方が重要なのではないでしょうか。

人は問題の重要性によって動くのではなく、問題の取り組みやすさによって動くものです。これは、古くは「パーキンソンの法則」でも指摘されていることです。残念なことに、「いかのおすし」はこの好例となっているようです。

確かにときには、「手をつけやすいところから手をつける」のは重要なことです。けれど、それで事足れるという顔をするのは別問題。そういう態度が子どもたちのどんな模範になるかは言うまでもありません。

困難なことでも、人を導く学校には、困難な課題から優先して取り組んでもらいたいものだと思います。
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2009年09月18日

「いかのおすし」と交通安全運動と

少し前の記事で、「いかのおすし」のキャンペーンが広く行われるのは、単純にそれが取り組みやすいからではないかという仮説を出しました。より被害が大きく深刻である児童虐待と比較して、児童誘拐は発生率も低く、被害の大きさも(全体としてみれば)小さいものです。しかし、対策としてのキャンペーンの大きさは逆転しています。それは、「知らない人」を悪者と決めつける方が「おうちの人」に対する注意を喚起するよりも簡単だからではないかと、推測できるのです。

しかし、児童誘拐を児童虐待と比較するのが間違っているのかもしれません。子どもが巻き込まれる事件として、もっと頻度が高く、もっと(外面的な)被害が大きいのは、交通事故でしょう。比べるべき対象は、こっちのほうかもしれません。

そして、交通事故に対するキャンペーンは、「いかのおすし」以上に活発です。息子が「いかのおすし」を教えられたのは二学期冒頭でしたが、交通安全に関しては入学直後から繰り返し指導があります(もっとも「いかのおすし」とは異なった「知らない人に気をつけましょう」指導は一学期にもありました。けれど、頻度は交通安全よりずっと低いものだったようです)。公平にいって、ここではより被害の大きなものほどより大きなキャンペーンが行われるという正しい順位づけになっています。

しかし、ここで、「車に気をつけましょう」と「知らない人に気をつけましょう」のちがいを吟味してみる必要があります。

事件・事故は加害者と被害者があって成り立ちます。交通事故の大部分は、加害者・被害者のどちらかが十分気をつけていれば防げるものです。そのため、潜在的な被害者である子どもに交通ルールの徹底と十分な注意を指導することが大きな効果を生むのです。一方の潜在的加害者である運転者にも、免許更新等の機会を利用して度々指導や呼びかけが行われます。キャンペーンは包括的なものとなっているのです。

そして、いくら注意しても防げない交通事故もあります。それは、意図的、半意図的に加害が行われるものです。飲酒運転や薬物の使用、異常な速度違反は、半ば意図的な加害行為です。ごく稀に、「人を跳ねてやろう」と最初から思ってくるような異常行動もあるでしょう。このような意図的な加害に対しては、子どもがいくら交通ルールに気をつけても被害を防ぐことはできません。登校中の子どもの列に猛スピードで自動車が突っ込むときに、被害は子どもの力では防げません。このような被害に対してはいかなるキャンペーンも無力であり、実際、交通安全運動はこういった被害を防ぐことを想定していないはずです。

交通安全運動が想定しているのは、当事者が注意することで防げる事故です。猛スピードで突っ込んでくる車を避けるような訓練は子どもに対してでも可能かもしれませんが、そこまでやることはあえてしないのです。「通常予防できる範囲で予防する」のが常識的なキャンペーンのあり方です。

では、子どもの連れ去り犯罪に関してはどうでしょう。交通安全と同様に、「ルールを守ること」で防げるものでしょうか。

残念ながら、多くの場合、そうではないでしょう。特に営利誘拐などの計画的な犯罪の場合、連れ去りは用意周到に行われます。子どもの自衛行動ぐらいはちゃんと織り込み済みでしょう。「お母さんが呼んでいる」「病院に行こう。急いで車に乗って!」などの口実は、意図的に子どもを騙すために用意されるわけです。不注意や怠慢でルールを破る運転手とは意味が違います。そういった運転手でさえ、意識の上では交通事故を引き起こしたいと思っているわけではありません。ところが、連れ去り犯は意識して事件を引き起こそうとしているのです。

このような意図的な加害行為に対して、子どもに「注意しましょう」と呼びかけることは正しいことなのでしょうか。それは、不意の突進車に対応できるよう、日常的に子どもにスタントマンの訓練を施すのと同じレベルの発想ではないでしょうか。

交通事故被害にあった子どもに、「もっと信号に気をつけていればこうならなかったのよ」と諭すことは意味があるかもしれません。しかし、連れ去られた子どもに「あなたがもっと気をつけていれば...」と言うのはナンセンスです。子どもにそこまでの責任を求めてはならないでしょう。

「車に気をつけて」と「知らない人に気をつけて」は、ほとんど同列に唱えられます。けれど、こうやって考えてみると、対策として前者には意味があるのに、後者にはほとんどないことがわかります。車にはねられることと見知らぬ人に連れ去られることは、親にとってはどちらも耐えがたい恐怖です。どちらも絶対に起こってほしくはありません。そういう立場からいえばふたつの注意喚起は同じレベルのものです。しかし、前者は合理的な対策なのに、後者は「おまじない」でしかありません。

子どもの親に、この点で理性的になれというのは間違っているでしょう。私も一人の男の子の親です。自分の子どもが危ない目にあうと思うだけでお腹のあたりがきゅっとなります。

けれど、学校は理性的、合理的になれるはずです。交通安全と同じレベルで連れ去り犯罪予防の心得を子どもに教えるのは奇妙です。ところが、確かに力の入れかたとしては交通安全が優先されているものの、「いかのおすし」には異常なほどエネルギーが投入されているのです。

なぜ「いかのおすし」がそこまで好まれるのか、案外と深い理由があるのかもしれません。私には現在のところ想像がつかないのですが、機会があれば調べてみたいと思っています。
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2009年09月25日

「不審者」をつくり出す「いかのおすし」

「いかのおすし」は防犯のために考えられた標語です。防犯は警察の仕事であり、犯罪の多寡にかかわらず、犯罪がこの世からなくならない限りは続けられるべき活動でしょう。ただし、「近年多発する犯罪に」とか、「少年犯罪の増加傾向」のような宣伝文句には、実証性がないかもしれません。

私自身がデータをもっているわけではないので真偽の議論に立ち入るつもりはないのですが、たとえば、こんな本があります。

犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (浜井 浩一/芹沢 一也  光文社新書)

私はまだ読んでいないのですが、この本には、「治安悪化言説こそが「神話」なのである。……事実と相反する「神話」がなぜ「常識」と化したのか? 統計と思想の両面から迫る」というようなことが書かれているそうです。公式統計のグラフにかかわらず、その内容を精査すると、実際には犯罪は増えていないのではないかということのようです。

「いかのおすし」を肯定する人々の大半は、そもそも異議があることなど考えられないようです。子どもの安全は無条件で重要であり、そのために「いかのおすし」があるのなら、やはり無条件でそれを普及すべきだろうと、強いて尋ねればそんなふうに考えておられるでしょう。しかし、なかには、「確かに嫌な言葉だよね。でも、むかしと違って怖い事件がいっぱい起こっているから、しかたないよ。時代が悪いんだから」と、「いかのおすし」のマイナス面を認めながらも、「危険な時代だからしかたない」と肯定される方もいらっしゃるようです。

しかし、「治安悪化言説」が「神話」に過ぎず、実際には凶悪犯罪は増えておらず、子どもの身の危険も「むかし」と大差ないのだとしたらどうでしょう。「しかたない」の根拠は崩れるのではないでしょうか。

けれど、「しかたない」とおっしゃるお母さんは、きっと、「むかしに比べてそれほど危険じゃないのかもしれない。でもやっぱり……」と反論するでしょう。やっぱり少しでも危険があるのならそれは防ぎたい。やっぱり、「知らない人」に用心するに越したことはないと。

ここに、「いかのおすし」の根深さがあります。それは、存在しない危険に対する過剰な防御姿勢です。いえ、「存在しない」と言ってしまってはウソになります。実際に犯罪は発生するのです。それに対する防御の姿勢も絶対に必要です。存在しないのは、「想定されているほど過大な危険の可能性」です。あたかも日常的に近所の公園に犯罪者が現れるかのような想定であり、そんな想定にもとづいた「人を見たら泥棒と思え」式の防御姿勢です。これはどう見ても過剰です。

こんなことを言うと、「いえ、そんなことはない。だって、先週もこの町内で不審者が現れたっていう警報メールがあったのよ。声をかけられた女の子が逃げたからよかったらしいけど」というような反論があるでしょう。実際、「不審者」を見たという通報はあとをたちません。「不審者」が発見されると、たちまち防犯メールが送信され、保育園や学校、町内掲示板に「不審者情報」が掲示されます。回覧板にも「見かけない人に気をつけましょう」という呼びかけとともに、これらの情報がまとめて告知されるでしょう。こういった情報に気をつけていれば、「過大な危険の可能性」などという指摘は世迷い言に聞こえるはずです。

私は、これこそが「いかのおすし」問題だと思うのです。なぜなら、「不審者」は、「犯罪者」ではありません。「声をかけられた」「連れ去られそうになった」「下半身を露出された」などという被害報告は、「被害者」の一方的な主張です。確かにその中には犯罪につながりかねないものもあったかもしれませんが、多くは意志の疎通を欠いた誤解であったり、犯罪性の希薄な異常行動だったりするのではないでしょうか。

そういった「確かに怪しいけれど危険ではない」人々を「犯罪者」と同一視される「不審者」にしてしまうことで、「神話」は現実となります。そして、それに対処するために「いかのおすし」的教育が強化されます。

上記の「犯罪不安社会」の著者は、「神話」生成の原因をマスコミの過剰報道に求めているそうです。しかし、何でもかんでも「マスコミが悪い」というのは、何でもかんでも「不審者」のせいにする心性と大差ないように思います。そういったマスコミの言説を生み出しているのは、私たちひとりひとりの心の過剰防衛反応かもしれません。

そして、そういった過剰防衛反応を生み出すのが、「いかのおすし」的教育だと私は思うのです。

私たちは、小さいころから「知らない人に気をつけましょう」と繰り返し教え込まれてきました。私は個人的な性癖からこれに対して「それっておかしいよね」と思ってきたのですが、ほとんどの人はそれを疑問に思うことなく育ってきたのではないでしょうか。そういう「常識」を教え込まれた人は、「知らない人」が、ほんの少し常軌を逸した行動をしているのを見ただけで「不審者」と感じるでしょう。そんな「常識」にもとづいて生きていれば、確かに世の中は「不審者」だらけです。そんな「不審者」から子どもを守るには、どうあっても「いかのおすし」がなければなりません。

「いかのおすし」的教育は、このようにして再生産されます。そして、それはどんどんと「不審者」を増やしていき、この世の中をどんどんと生きにくいものにしていきます。

「安全崩壊」が本当に「神話」であるのかどうか、私には検証する能力はありません。しかし、少なくとも、それが「神話」ではないかと疑うことは許されていいのではないかと思います。「神話」だと疑えば、「いかのおすし」が奇妙に見えてきます。

だから私は、「いかのおすし」に疑問を投げかけていきたいと思うのです。

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2009年09月26日

強者と弱者をつくらないために

前回の記事を書きながら、「ああ、これにはツッコミどころがいっぱいだな」と思っていました。いろいろな立場から、いろいろと批判できる記事だったと思います。そして、私自身の立場からも、ひとつ、大きく欠落している部分がありました。今回はそこを書こうと思います。

前回の論旨は、荒っぽくまとめると、「実際には犯罪者は "いかのおすし" が必要になるほどには多くはいない。犯罪者ではない "不審者" は、"いかのおすし" 的感性からつくられるものである」というようなものでした。事実関係について批判を受ける可能性も、もちろんあります。しかし、仮にこれが事実だとしても、その上でやっぱり、大きな問題はあるのです。

それは、「不審者なんていない」という考え方が、強者の論理だということです。仮に、世に言う「不審者」の大部分が実際には悪意がなかったり犯罪性が希薄な「非常識」程度の行為だと仮定しても、それを「あの程度じゃ不審者とは言わない」と笑えるのは強者だけです。被害を受けやすい弱者にとっては、どのような犯罪の兆候でも笑って見過ごせるものではありません。だからこその「不審者」であるわけです。

強者には、弱者の視点はわかりません。ですから、弱者が「怖い」と素直に訴えても、「そんなことはあるものか」と門前払いを食わせます。かつての警察はそうでした。不安感に少しでも漠然としたことがあると、とりあってくれなかったものです。

しかし、犯罪の兆候を敏感に感じた人の訴えを退けた後に実際に犯罪が起こる事例がくり返された反省なのでしょうか、最近は警察も、ややあやふやな訴えをとりあげてくれるようになりました。以前の強者の論理を改めて、弱者に歩み寄るようになってきたわけです。このことは高く評価すべきでしょう。

しかし、その結果、「不審者」の情報は増加していきます。気がつけば、まわりには不審者だらけで、世の中が非常に危険になってしまっているような錯覚に陥ってしまいます。

そして、その「不審者」の中には、不審者情報を届ける人々とは別な意味での弱者が含まれています。家を失って公園ぐらいしか行き場のない人や、昼間からぶらぶらせざるを得ない失業者、十分なケアを受けられない障害者などが、ひとくくりに「不審者」として報告されている可能性があります。こういった社会の周縁部にはじきとばされた人々をさらに疎外していこうとするのは、やはり強者の論理ということになります。

つまり、「不審者なんかいない」というのも強者の論理ですが、「不審者がいるから用心しよう」というのも強者の論理です。弱者の視点が欠けています。どちらをとっても、どこかで弱い人が苦しむ可能性が高いのです。

ここを改めなければ、「いかのおすし」問題は解決しません。

なぜ、弱者の視点を取り入れた「不審者情報」が、強者の論理になってしまうのでしょう。検討すべき課題とは思いますが、私の思いつきでは、これは共感が足りないからではないかという気がします。

警察は、絶対的に強者です。これは社会制度上、強者であるようにつくられているわけです。警察が弱ければ、犯罪は取り締まれません。弱い警察など不要です(理想としては警察が不要な世の中になればいいわけですが、そこまで話を拡張するのは控えましょう)。ですから、常に弱者に対する共感を意識しないと、その行動はどうしても強者の論理にもとづいたものになってしまいます。

弱者の「怖いから助けてください」という訴えに対して、強者の論理では「それではその不審者に対する警戒を強化しよう」となるでしょう。しかし、それが本当に弱者に対する共感にもとづいた行動なのでしょうか。弱者の不安を取り除くには、「怖い」対象を「不審者」として一括りに警戒対象にするのではなく、実際に恐怖を与えた人物が誰であったのか、その行動がどういうものであったのかをしっかりと実地に検証し、恐怖をひとつひとつ解消していく対応が必要なのではないでしょうか。

まさかとは思いますが、警察は「不審者の届け出」を「成績」のように扱っていないでしょうか。不審者情報を、自分たちの業務の根拠づけとして利用していないでしょうか。

「不審者」の実体が判明すれば、それは「不審者」ではなくなります。「不審者」が「不審者」として放置され、ただ単に「情報」や「統計」として流布してしまうのは、ある意味、警察がその正体を確認する能力を欠いていることをあらわしているに過ぎないのではないでしょうか。

とはいえ、警察ばかりを責めるべきではありません。「不審者」を届ける人にも、「不審者」扱いをされた人にも、相手の気持ちを思いやる共感する力があれば、「不審者」は大きく減るのではないかと思います。その上で、共感する力は、弱者よりも強者により大きく求められます。そういう意味で、警察には、ことに弱者に対する配慮をさらに求めたいと思うわけです。

そして、何よりも、数多くの弱者である子どもらをあずかる学校には、弱者に対する共感を強く求めたいわけです。いったい、「いかのおすし」を子どもに唱えさせることが、本当に弱者のためになるのでしょうか。それは、強者と弱者をどんどん再生産していく思想を植え付けることにはならないでしょうか。

強者と弱者は、常にこの世に存在します。しかし、人間には共感する力があります。この共感する力によって、強者と弱者をできるだけつくりださないよう努力することはできるはずです。そして、そのために教育の果たす力は小さくありません。

その教育は、「いかのおすし」的教育ではあり得ないと、私は思います。
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2009年10月16日

リスクは確率論

リスクを論ずるとき、それは確率論だということを忘れてはなりません。この考え方は感情的には納得しにくいものです。けれど、やっぱりリスクは発生確率を抜きにして論じることができません。

リスク論でもうひとつ重要なのは、リスクの想定被害です。こちらの方が忘れられることはありません。しかし、発生確率に関しては、ときにはうっかりと、ときには恣意的に無視されることが多いのです。

たとえば、人工衛星が頭の上に落ちてくるというリスクを回避するために外出を控える人はいません。このようなリスクが存在しないわけではないのです。実際、過去に人的被害は出ていないものの、オーストラリアの牧場で牛が人工衛星の破片の直撃を受けて死亡しています。この瞬間にも、戸外にいるあなたの頭上に人工衛星の破片や隕石のかけらが直撃しないとは限らないし、その場合、大怪我や即死につながることも十分考えられます。しかし、その発生確率は天文学的に低いものです。だから、だれもがこのリスクを無視して生活するわけです。

一方、最近流行のインフルエンザに対するリスクには、人は敏感です。マスクは飛ぶように売れますし、うがい、手洗いの励行が叫ばれます。死亡例がないことはないとはいえ多くの症状は発熱や吐き気で命に関わるものではないにもかかわらず、このようにリスクに対する対策がとられるのは、発生確率が非常に高いからです。

ですから、あらゆるリスクの対策は、想定被害と発生確率を乗じた期待値にもとづいて必要性が判断されます。その上で、対策の実行においてもうひとつ重要な要素は、対策手段の実施可能性や実施に要するコストです。

たとえば、地球と小惑星の衝突は、まさに天文学的に低い確率でしか起こりません。数億年に1回の確率は、無視できるほど小さいものです。しかし、その被害は人類滅亡を含む巨大な破滅です。想定被害と発生確率を乗じた場合、対策をとるには十分な期待値になるかもしれません。しかし、一部の研究や研究的な試験を除けば、具体的な対策は実施されていません。それは、対策の実施可能性が現段階では極めて低いからです。どれだけリスクが大きくても、それを避ける有効な手段がなければ対策を行うのは無意味です。逆に、リスクが小さくてもわずかの投資でそれを避けることができるなら、リスク対策は広く実施されることになります。たとえば、予備の電球を常備しておくことは多くの家庭で広く行われていますが、電球が切れることによるリスク被害はたいしたものではありません。それでも、予備の電球の購入が特別な追加投資や余分の手間を必要としないものであるため、「同じことなら安全側」という配慮から予備の電球が購入されるわけです。

リスクを論じる場合、これら3つの要素の分析が欠かせません。ところが、実際には、想定被害だけが一人歩きし、あとの2つを恐怖感で抑えつけてしまうことが少なくないのです。これは、単に理性を欠いた言動である場合もありますし、通常では説得力をもたないリスク対策を購入させようという商売上の動機から欺瞞的に行われる場合もあります。自分自身の仕事の枠を広げようという誤った仕事熱心が原因の場合もあるでしょうし、特定の社会構造を実現したいという政治的な動機によるものもあるでしょう。

実際、「核戦争になればすべておしまいですよ。核シェルターへの投資なんて安いものです」といわれれば、「そうかな?」と思うのが人情です。けれど、このような欺瞞に乗ってしまうことは、より多くの人々の安全を確保する「核のない世界」の実現を遅らせるだけでしょう。リスクを論じるときには、常に理性が必要とされるのです。


「いかのおすし」も、その例外ではありません。子どもを狙う「連れ去り犯罪」の想定被害は実に大きいものです。ときには子どもの命にかかわり、そこまでいかない場合でもPTSDによる長期的影響など、無視できない被害が発生します。この事実は、決して無視してはならないものです。

しかし、この想定被害だけを前提に「だから"いかのおすし"だ!」というのは、あまりにも短絡的です。このような被害がどの程度の確率で発生するのか、そして、その有効な対策のコストはどうなっているのかを検証しなければなりません。

まず、発生確率は子ども一人当たり年間に百万分の1以下です。犯罪統計から余裕もって見積もってもこの程度なのです。日常的に発生する交通事故被害とはスケールが完全に違っています。

そして、対策の実施可能性は非常に低いものです。一言でいってしまえば、百万分の1以下の確率で発生する犯罪に統一的な対策などあり得ないからです。数多く起こる犯罪であれば、「傾向と対策」のようなものを導き出すことは出きるでしょう。しかし、年間数件しか発生しない犯罪に対して、その傾向を分析したところで、それは多様な想定し得る手口のごく一部があらわれたに過ぎません。いくらでも「新手の手口」は発生するでしょう。そして、それを予防的に想定して次から次へと防衛策を講じることは、ほとんど滑稽でしかありません。

このように、仮に「いかのおすし」が想定被害から見れば正当な対策であるとしても、発生確率と実施可能性の2つの要素を組み合わせれば決してそうではないことがわかります。

そして、「いかのおすし」はそもそも対策として誤っている可能性が高く、また、その弊害も無視できないほど大きいものです。

リスク論の立場からいっても、「いかのおすし」は廃絶すべきといえるのではないでしょうか。

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2009年10月17日

便利な言葉、「不審者」

「いかのおすし」を考えていると、必ず出会う言葉が「不審者」です。そして、この言葉は、非常に便利に使われていると思います。「便利に」という言い方が不正確なら、「恣意的に」と言い換えてもいいでしょう。

マスコミでは、犯罪報道の際に、呼称がころころ変わります。最初は「○○さん」だったのが「○○容疑者」に変わり、「○○被告」から、最後には呼び捨てになります。これはときに滑稽に映るのですが、根拠のないことではありません。裁判で有罪と確定しない人を犯罪者扱いすることができないからです。警察が嫌疑をかけ、検察官が捜査を許可した段階で、「容疑者」にはなりますが、「容疑者」は「犯罪者」ではありません。裁判所に訴えられた時点で「容疑者」は「被告」となりますが、これも法廷における地位を表現したに過ぎず、やはり「犯罪者」ではないわけです。

法治国家では、「あいつは怪しい」というだけで相手を犯罪者とすることはできないのです。いくら怪しくても、現に違法行為をはたらいていない人、違法行為をはたらいているという証拠がある人以外は、「犯罪者」はおろか、「容疑者」にもなれないのです。法にもとづかずに人を「犯罪者」や「容疑者」と呼ぶことは、それ自身が違法行為です。

この「容疑者」にもできない「怪しい者」を一括りにしたのが「不審者」です。ですから、「不審者」は「犯罪者」ではありません。何の法的根拠も必要なく、ただ、任意の誰かが「怪しい」と思っただけで「不審者」は発生します。

ところがこれが、「不審者情報」となり、その統計となって数値化されると、あたかも「不審者」の増加が「犯罪」の増加を示しているような錯覚を起こさせます。

私が、現在の「不審者」の使われ方が一種の私刑であると感じるのは、こういった法にもとづかない情報が一人歩きするからです。人は、危険を感じたときに他者の行動を「怪しい」と思います。「不審者が増加している」という情報は、それだけでわずかでも変わった行動を「怪しい」と思わせる動機になります。この「怪しい」感覚が更なる「不審者」を生み、「不審者情報」は自己増殖していきます。

もちろん、「怪しいな」と思ったときにそれなりの注意を払うのは大切なことでしょう。車のナンバープレートをちょっと控えておくとか車種を覚えておくというのは、万一の事態が発生したときに重要な手がかりになります。「不審者」を警察に届けるのも正当な自衛でしょう。実際、私もかつてコソ泥に侵入されたことがありますが、後に判明した犯人は典型的な「不審者」風の男でした。見かけない人が何をしているのだろうと関心をもち、ときにそれを他の人々と共有することは、犯罪の防止になることが少なくないでしょう。

しかし、「不審者」は、正体がわからないからこそ「不審者」であるわけです。見かけない人でも実は何らかの業務で周辺をうろついていることもあるでしょう。周縁化されて行き場のない人々であるのかもしれません。そういった正体がわかれば、「不審者」は「不審者」ではなくなります。「何をしでかすかわからない」から「怪しい」のであって、素性が知れればそれでいいのです。

ですから、「不審者」をなくして安全な社会をつくっていくには、「不審者情報」に敏感になって「不審者」の発見に努めることではなく、「不審者」の素性を明らかにしていく作業が必要なのです。「不審者」を見つけ出して統計化することは、どんどん不安感を増加させるだけです。そうではなく、地域で「不審者」の存在を感じたら、警察を利用するか、あるいは自分自身で、その「不審者」がいったいなにをしているのかを明らかにすればいいでしょう。そうすれば、「不審者」は消えてなくなります。

私自身、警察に職務質問されるのは嫌なものです。けれど、いわれもなく「不審者」として統計化され、「犯罪の増加」の根拠にされるのはもっと嫌なことです。だれでもそうではないでしょうか。

「不審者」は、無根拠にレッテルを貼って統計化するのではなく、その場その場で解消していくことが重要なのではないでしょうか。現状は疑いが疑いを呼ぶ無法地帯です。これではいけないと、「いかのおすし」ついでに感じた次第です。
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2009年10月20日

「いかのおすし」資金はどこから?

「いかのおすし」は、何か特定の団体が強力に推進しているものではないようです。ですからどこかに「いかのおすし」資金や予算が一括して組まれているのではありません。そうではなく、行政や警察をはじめ、学校や地域の団体がそれぞれ、「これはいいことだ」という思い込みのもとに、個別に推進しているもののようです。それでも、それぞれにインセンティブのようなものがあります。

たとえば、PTAは、独自の予算で「いかのおすし」を推進します。最近になって気がついたのですが、息子が入学したときにPTAからもらったプラスチックのファイリングケースには、でかでかと「いかのおすし」が印刷されていました。こういったファイリングケースはPTAの予算で調達されます。そして、こういったグッズの調達には、行政や外郭団体からの補助金が出るようなのです。「補助をもらえるなら」ということで、それにいくらかの費用を追加しやすくなります。このようにして、「いかのおすし」予算は膨らんでいきます。

ちなみに、同様の「いかのおすしグッズ」はポケットティッシュからペタメモまで各種あるようで、こちらの業者の資料によれば、たとえばポケットティッシュなら1個11円〜24円で調達できるようです。

そして、行政が直接、「いかのおすし」に支出することもあります。たとえば、こういうクリアファイルは、神奈川県では教育委員会から配布されているそうです(こちらの議事録参照)。教育委員会の配布ということですから、当然、県の方で予算が組まれているのでしょう。岡山県では、「「安全・安心の岡山」の創造」事業として、複数年度で2081万9千円の予算が組まれていますが、この中には「「ももっち&イカのおすし劇団」による「おはよう」運動」が含まれます。

市町村レベルでも、「いかのおすし」に予算が組まれているところがあります。北國新聞によれば、能美市の教育委員会は「いかのおすし」の下敷きとDVDを配布したとのこと。市政レベルでも「いかのおすし」費は計上されています。伊勢市では、平成19年度決算で防犯啓発事業 354万円の内訳のなかに、「「いかのおすし」チラシと子ども用グッズのセットの配布」が記載されています。八街市豊明市常総市大和郡山市などでは「いかのおすし」を求める質疑が議会で行われています。

行政から一応は独立していながらほぼ行政の一部である各地の社会福祉協議会でも、「いかのおすし」が事業対象になっています。たとえば、銚子市の社会福祉協議会松山市の社会福祉協議会では、いかのおすし関連事業を行っています。

警察の方でもいかのおすし関連の予算を計上しているようですが(たとえば石川県警の「警察行政主要施策の推進状況」という報告書)、むしろ、この手の啓発事業は、警察と一体化している防犯協会の方で行うことが多いようです。最初に書いたPTA等へのインセンティブは、こういった方面から出ているのかもしれません。

また、結果的に行政の下請けをやらされることが多いNPOでもいかのおすし関連事業は行われています。たとえば、NPO法人みらい子育てネット山形では、平成19年度の事業内容で「いかのおすし」の紙芝居の製作・配布を実施しています。愛知県の特定非営利活動法人「夢の箱」でも、いかのおすし普及を行っています。

そして、無数のPTAや自治会などの民間団体が、第一に善意から、そしてこれら行政や半公的機関からの要請や支援、補助があることから、「いかのおすし」の推進のために予算や人的資源を用意します。

このようにして、全国を合わせれば厖大なお金が、「いかのおすし」に注ぎ込まれています。ひとつひとつはわずかのお金であり、あるいは善意に基づいた協力である場合も多いでしょう。

私のように「"いかのおすし"は百害あって一利なしだ」という立場をとるものからすれば、これは非常に厄介な現状です。というのは、もしもこれが国家事業であれば、大元の「いかのおすし予算」を停止すれば事業は止まります。ところが、各都道府県、各市町村、各行政機関、各外郭団体、各民間団体ごとにそれぞれに予算が組まれているとなると、その全てを止めなければ「いかのおすし」は止まりません。「いかのおすし」の有害性を訴えるにしても、あらゆるレベルに訴えていかなければならないのです。現にここまで「いかのおすし」が普及してしまっている以上、これは不可能に近い難行でしょう。

ですから、私はこのような巨大な構造に真正面から取り組むべきではないと思います。子どもに直接「いかのおすし」が伝えられる現場は学校です。そして、子どもがもっとも「いかのおすし」の悪影響を受けやすいのも学校だと思います。ですから、「いかのおすし」問題は、まずは学校の問題、教育問題として取り組むべきではないかと思うのです。

実際、「いかのおすし」そのものは、100%害悪であるとも思いません。その中には警察の犯罪捜査の経験を踏まえた正しい情報も含まれています。問題なのは、人間に対する信頼感を培うべき小学校、幼稚園、保育園の教育において、無批判にそれが取り入れられていることなのです。無批判である教育関係者の姿勢が怖ろしいのです。

現場から、「いかのおすし」はもうたくさんという声が出れば、行政からの働きかけも自然におさまっていくでしょう。そう願いたいものです。
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2009年10月22日

事案とは?

「不審者」は「犯罪者」ではありません。ですから、「不審者情報」は「犯罪者情報」ではありません。実際、警察から発表される不審者情報は、「防犯情報」などのように呼ばれます。「不審者がひょっとしたら犯罪と何か関係があるかもしれないから注意しましょう」という趣旨で犯罪の予防を呼びかけるのが不審者情報であるわけです。

ですから、「不審者情報」の数が多いことと、地域の安全が脅かされていることは、全く関係がありません。地域の安全が脅かされていることは、実際の犯罪発生数の多寡からしか判断できません。いくら「不審者」の数が増えても、実際に犯罪が増えていないのなら、地域の安全は確保されているのです。そして、もしも「不審者」の増加と犯罪の発生数の間に相関がないのであれば、「不審者情報」など信用するに値しないものだということになりかねません。

事実、「不審者」の増加に関わらず、犯罪は増えていないことが統計から明らかなようです。つまり、「不審者情報」の増加は、単純に人々の不安感の増大を反映したものに過ぎないようです。

もちろん、そうやって人々が用心するようになったおかげで、不安な世相にもかかわらず犯罪の増加が抑止されているのだと論じることも可能でしょう。いずれの立場が正しいのかは、例によって検証のしようがありません。ただし、繰り返しますが、「不審者」の増加は「犯罪」の増加とは全く別物です。これは、警察自身が認めていることです。

「いかのおすし」を調べていて、「事案」という言葉を知りました。奇妙な日本語だと思いますが、「声かけ事案」という成語として、大辞林にも掲載されているそうです。
声かけ事案 【こえかけじあん】
「家まで送るから車に乗らないか」と誘うなど,面識のない大人が子どもに対して呼びかけや誘いかけを行う出来事。犯罪に発展する可能性があるため,子どもが恐怖心を抱いた事案について,全国各地の警察が情報(発生日時・場所・状況など)を収集・公開している。
提供元:「大辞林 第二版」(goo辞書による)

一方、「事案」に関しては、同じ辞書に、
じあん 0 【事案】
問題になっている事柄。

と掲載されています。これではよくわからないので英語の辞書を引いてみると、caseもしくはconcernの訳語が出てきます。caseは事件、concernは懸案事項です。一般には「懸案事項」の意味で使われる場合が多いようですが、「声かけ事案」のような防犯情報で頻出する「事案」は、意味としては「事件」と全く同じもののようです。

しかし、同じ意味をもつのに別の言葉が使われているということは、どういうことなのでしょうか。これは「事件」の意味を調べれば推測できます。同じくgoo辞書によれば、
じけん 【事件】
(1)争い・犯罪・騒ぎ・事故など、人々の関心をひく出来事。 「―が起こる」 (2)「訴訟事件」の略。

となっています。すなわち、司法の用語では、「事件」は「訴訟事件」に発展するような犯罪性のあるものに使うもののようです。

「不審者」は、犯罪者ではありません。ですから、「不審者が出没していた」というのは、「事件」ではありえないのです。けれど、「警察などの公的機関が捜査すべき事態」(別の辞書による「事件」の説明)ではあります。そこで、意味としてはほぼ同じであるけれど「犯罪」という含意のない「事案」が使われるのではないでしょうか。

発信元の警察では、このように「事件」と「事案」をきちんと区別しているのです。こういった区別の意味を十分に理解すれば、「不審者情報」に眉をひそめる必要がないことがわかります。そういった正確な理解を「いかのおすし」のような声高なスローガンは妨げていないでしょうか。

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2009年10月26日

「不審者情報」と社会的排除

以前、このブログで、「不審者は犯罪者ではない。いわゆる不審者もその正体がわかれば人々の不必要な不安は消えるのではないか」というような趣旨のことを書きました。私は間違っていました。人間というものの浅ましさをよくわかっていなかったのです。

今日、「緊急回覧」ということで、町内に「防犯・緊急情報」の紙切れが回ってきました。その原文を下記に写します。
○丁目○○公園に不審者
○月○日午後3時30分ごろ、○丁目○○公園内で40〜50代の男が飲食(酒)をする不審者を住民が目撃し直ぐに110番通報をしました。
直ぐに警察官が駆けつけ職務質問をした結果、浮浪者(ホームレス?)と判明。
翌20日早朝にも同一人物が○○公園にいた為、再度110番通報をしました。警察官が駆けつけ○○警察署に保護されました。
(浮浪者は○○公園に3〜4日間居た模様)
不審者、不審車両を
 見かければすぐに
  110番通報を!

「不審者」は「浮浪者」として排除されたわけです。

「不審者」の正体がわかっても、この街の人々の「不安」はそれでは消えないのです。むしろ、「不審者」が「浮浪者」となったことで、よりいっそう「不安」に駆られて警察に排除を要請したというのが実際の行動でした。おそらく、郊外の住宅地の住民の治安意識というのはこういうものなのでしょう。

確かに、家を失い、行き場を失い、収入を失った人は、そうでない人々よりも犯罪を引き起こす可能性が高いでしょう。だからといって、公共の場所にいる、まだ罪を犯していない人を、自分の身がかわいいからと排除する姿勢は、本当に人間性を失った行動だと私は思います。

かつて、私の若い友人は、自分の家の近所の畑の小屋に身を寄せたホームレスのために、わずかの食料と毛布を差し入れました。数日間の付き合いの中でこの人の困窮の状況や原因がわかり、話し合ううちに最終的にこの人は福祉施設に身を寄せることができました。全ての人に私の友人のような対処までは求めませんが、一人の人間として正面向き合って話し合えば、こういった前向きな解決もできるのです。排除は何ももたらしません。

異質なものを見ればすぐに排除したがる姿勢を、誰も恥ずかしいと思わないのでしょうか。いえ、恥ずかしいと思う心が残っていれば、誰も「いかのおすし」なんて教えないでしょう。「いかのおすし」的教育が堂々とまかり通っている現状と、「浮浪者は警察に突き出せ」という姿勢は、実によく符合します。人間は、ここまで浅ましいものなのでしょうか。

その「浮浪者」がいたという公園には、日中でも人の姿はありません。子どもたちが遊び回る姿を見かけることは、本当に希です。なぜなのでしょう。「いかのおすし」です。危険を日頃から口やかましく注意される子どもたちは、公園のようなオープンなスペースで遊びたくないのです。

そんなさびれた公園ですから、ますます「不審者」が現れます。大半は幻でしょう。けれど、さびれた公園には、そんな幻がよく似合うのです。時折、誰かが言います。「子どもたちが元気に遊び回る公園ならいいのにね」と。いったい、誰が公園をさびれさせたのでしょう。排除する心が、子どもたちの笑い声まで排除してしまったのではないでしょうか。

百歩譲っても、既に解決した「浮浪者」の一件を、「防犯・緊急情報」として流さねばならないと感じる心性とはどういったものでしょう。私は、こんな住民が住む地域にいることが怖くてなりません。

ほんの少し、想像力をはたらかせてみてはどうかと思うのです。

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2009年10月30日

Kulkofsky博士の論文について

昨日、Sarah Kulkofsky博士の「Stranger Danger: 子どもに対する誘拐対策教育の効果アセスメント」という論文を紹介しました。アメリカで2003年に発表されたこの論文に書かれたような事情は、現在もそれほど変化していないようです。

この論文の骨子は、
  • 典型的な「知らない人」による連れ去りの発生リスクは落雷事故程度の低さである。
  • 伝統的な防犯教育は効果が立証されていない。
  • BST法による防犯教育は、単独で行われた場合には効果が立証されているが、教室で行われた場合にはその効果は低く、一定割合の落ちこぼれを生じる。
  • BST法の効果が立証されているのは、ごく短期的なものに限られている。
  • BST法は時間、費用、労力の投資が大きい。
  • 現実の低リスクに対して効果のない伝統的な防犯教育を施す意味が全くないだけでなく、効果があるかもしれないBST法でも対費用効果から考えれば無意味である。同じ資源を他の安全教育に回すべきだ。

  • ということになります。

    この論文にも書かれていることですが、博士が私へのメールで特に注意を喚起したのは、防犯教育と現実の被害のミスマッチです。すなわち、
    合衆国では、「知らない人」による連れ去りの被害者のほとんどはティーンエージャーか思春期直前の子どもであり、児童・幼児ではありません(同様の統計は日本でもあるのではないでしょうか)。
    と、メールで述べられていることです。アメリカではstranger-danger教育は5歳前後に行われることが多いらしいので、ここに完全なミスマッチがあるのです。

    私は博士に、私の考えとして、「いかのおすし」の弊害として
    1. 子どもの正常な心理的発達を阻害すること
    2. 社会的弱者に対する偏見を子どもに植え付けること
    3. 犯罪が増加しているという誤った認識に基づいていること
    4. 誘拐に対して役に立たないばかりか時に危険であること
    5. 時間と費用の無駄であること
    6. 検討もせずに受け入れる教師は子どもにとって模範にならないこと
    を挙げたのですが、博士はこれらに対して、3、4、5は、この論文が根拠となるだろうとおっしゃいました。ただし、その他に関しては意見を留保され、1については専門家としてそういう事実はないのではないかと疑問を呈されました。

    1に関する博士と私の見解の相違は、おそらく「子どもの発達」でどの時期を重視するかの相違でしょう。子どもの発達に特に重要なのは乳幼児期であり、博士はその時期にはまだ防犯教育は施されていないことを指摘しています。それは確かにその通りです。しかし、私は子どもは常に成長を続けるものであって、「いかのおすし」教育を受ける時期にも悪影響は好ましくないと思います。ただ、私の見解を支持する証拠は、まだ見つかっていません。

    2、6に関しては、日本の固有の事情があるかもしれません。これは私の主要な論点でもありますので、この先も検討していきたいと思います。

    4の「時に危険」ということに関しては、「人を疑う人ほど騙されやすい」という研究結果が「いかのおすし」批判においてはあてはまらないだろうということを以前に確認しました。しかし、別の意味での危険性が欧米では指摘されています。そのあたりを、次回にでも紹介したいと思います。
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    2009年11月02日

    Guldberg博士のエッセイについて

    一昨日、Helene Guldberg博士のエッセイ「「Stranger-danger」のパニックが敵意に満ちた大人の世界をつくる」を博士の許可を得て翻訳、掲載しました。このエッセイでは、イギリスではすでに、子どもに関わることが爆発物を扱う以上に危険な職業になっていることが述べられています。子どもが危険なのではありません。そういった職業に就くことが、過度の警戒感から疑いの目で見られているということです。そして、疑われる立場にある教員や保育士が、嫌疑を逃れるために子どもに対する十分なケアができなくなっているということでした。

    そういった専門職だけではなく、公共の場所で他人の子どもに接することが、即、不審な行動であると見られることから、多くの人が安心して子どもに接することができない様子が書かれています。不審者と間違われたくないばかりに、迷子や困っている子どもに手を差し伸べることができないのです。

    これは、子どもにとって大きな不幸です。目の前の問題(迷ってしまったとか、怪我をしたとか)に大人の助力が得られないだけでなく、「困ったときには他人に助けを求める」という人間の生きる上での基本的な知恵を失ってしまいます。大人の模範的行動を見ることもできず、自分自身が人を助ける側に立つ能力も失います。大人に対する信頼感が育たず、ひいては社会に対する信頼を失います。

    実際、日本でも、2chあたりで、「子どもに道を尋ねられたら全力で逃げろ」といったような書き込みが頻繁に見られるようです。大げさに表現しているのだと思いますが、「犯罪者をつくらない」ようにすべきところ、「犯罪者にされない」ことばかりが先行し、そのあおりを食って子どもが放置される時代になっているわけです。

    アメリカでは、2005年にユタ州の山の中で迷子になった少年が「stranger-danger」を忠実に実行したため「知らない人」から成る救援隊から隠れ、4日間も行方不明になっていた事件が起きました。この事件の後、stranger-dangerは強く批判されるようになって、「知らない人を避けるように教えるのはかえって危険だ」というのが常識になりました。しかし、だからといってstranger-danger教育が衰えたかというと、そうでもないようです。基本のモードは「疑え」で、状況を見て信用するようにということのようです。

    これは、危険性を目先のことだけでとらえているからだと思います。目先の問題、「道に迷った」とか「どうすればいいのかわからない」といった問題を解決することだけが重要なのではないのです。そうではなく、社会に信頼が失われることが問題なわけです。子どもの心に社会に対する信頼を取り戻すことが重要なのです。

    Helene Guldberg博士のエッセイは、そのことを強く示唆しているように思えます。

    posted by 松本 at 16:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2009年12月03日

    「いかのおすし」の「永遠の嘘」

    以前のエントリでSue Scott教授の「Swings and roundabouts」をとりあげたときから、どうにも気になって仕方ないことがあります。それは、この記事中にScottish Daily Mail紙からの引用として、
    子どもをもつ親の心配と統計的確率の間のこの明白なギャップを、無知や愚かさを示すものだと考えるのはいかがなものか。
    と書かれていたことです。

    Scott教授は、この指摘に関して、
    信頼できる研究がない以上、親たちがリスクを「現実的に」推し量れていないと考えることはできない。仮に親たちが危険を真剣にとらえていない場合には、他人から愛情が足りないとか無責任だとか見られる危険を冒すことになる。親たちは、「知らない人」に自分の子どもが性的暴行を受けたり殺されるような事態が統計的にごくわずかの確率でしかないことを知っているかもしれない。これは、宝くじを買う人々の動機を裏返したものだと思えばいい。宝くじに当たる確率は、非常に小さいかもしれない。けれど、「ひょっとしたら」と思うから、宝くじは売れる。被害にあう確率は非常に小さいかもしれない。でも、「ひょっとしたら」。
    と、説明しています。

    つまり、親たちは、被害にあう確率が低いことを知らないほど無知ではないかもしれないけれど、周囲の目を気にして心配をするようになるし、さらに、どんなに確率が低くても絶対に被害にあいたくないから心配をするのだというわけです。

    それはそうなのかもしれません。けれど、私はこのあたりを読んでいるとき、あるブログ記事を思い出さずにおれませんでした。それは、常野雄次郎さんという方の「「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 前編」という記事です。記事そのもののテーマとはほとんど無関係なのですが、その一節、
    だから嘘を批判するには、ただ嘘が嘘であることを暴露するだけでは不十分である。嘘が嘘であることは、騙す者も騙される者も先刻承知なのかもしれないからだ。そのような場合は、真実を暴露する者はただ「空気の読めない痛い奴」として処理されるだろう。(中略)「永遠の嘘」の批判は、真実を暴露することではない。嘘に気づかないふりをする「お約束」が分析されなければならない。それは、「騙される」者、「無知」な者をも、「被害者」としてではなく「嘘」に参加する共犯者として捉えるということだ。
    という部分が、頭の中にこだまするのです。

    親たちの心配は、統計的事実の前には、まったく根拠のない杞憂でしかありません。そのことは、このブログで繰り返し述べてきました。当初私は、その事実を指摘すれば、誰も「いかのおすし」など唱えなくなるだろうと思いました。

    けれど、実際にはそうではないようです。Scottish Daily Mail紙が指摘するとおり、親たちは決して無知でも愚かでもないのです。子どもが被害者になる事件の恐ろしい報道がまず現実に自分の身にはふりかからない極端な事例でしかないことを、親たちはよく知っています。そんな天文学的な確率の不幸に対して防備を整えるのが馬鹿げていることもよく知っています。知らないわけでも、愚鈍なわけでもありません。

    そうではなく、そうやってありもしない脅威を信じることが、親にとって、何か都合のいい事情があるに違いないのです。そういう脅威があることを前提に、何かが成り立っていて、親自身がそこに寄りかかっているのではないかという疑念が浮かぶのです。

    私自身が一人の親です。ですから、「親たちが...」と言うのであれば、まずは自分自身の心の中を探るべきです。

    しかし、これほど難しい問題はありません。ここで躊躇してしまいます。世の中に、自分の心の闇ほど怖ろしいものはないからです。

    「いかのおすし」の「永遠の嘘」、それはいったい何なのでしょう。これが喉に引っかかった魚の小骨のように、ここ数週間の私の気持ちを落ち着かないものにしています。
    posted by 松本 at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2009年12月16日

    「強制」でなければいいのだろうか?

    「いかのおすし」が主張する事実そのものには、確かに正しい知見もあります。たとえば、子どもが加害者に対して「たたかう」姿勢をとるのは危険です。「逃げる」「助けを求める」のがもっとも有効な防衛方法になるでしょう。「いかのおすし」には、そういう知恵を伝える部分もあります。

    しかし、「いかのおすし」は、問題です。その問題点はこのブログで再三にわたり述べてきました。これが子どもの成長に与える悪影響は、何度強調しても足りないと私は思います。

    これに対して、「別に強制されているわけじゃないからかまわないではないか」という議論もあり得ると思います。どんな教育内容にも、正しい部分と誤った部分があります。重要なのはその文脈です。文脈を無視して強制されることで誤った部分の弊害が大きくなるわけですから、そういった強制がないのであればとりたてて目くじら立てることでもないだろうという話はよくわかります。けれど、「いかのおすし」に関しては、これはあてはまらないと私は思うのです。


    まず、「いかのおすし」教育は、現に強制されています。すべての教育現場でそうだとは思わないし、また思いたくはないのですが、実に多くの幼稚園や学校で、「いかのおすし」は唯一無二の「正しいこと」として教えられています。たとえば、警察や警察の外郭団体が出張してきて「いかのおすし」を題材にした寸劇を見せるとき、これを拒否することは児童にも保護者にもできません。たとえば、私の息子の通う学校では、新学期の冒頭に、全校生徒に「いかのおすし」を斉唱させました。やはりこれは、私の観点から言えば「強制」です。強制される「いかのおすし」はまっぴらです。

    しかし、強制されなければそれでいいのでしょうか。強制されるから「いかのおすし」は問題なのでしょうか。そうではないと私は思います。「いかのおすし」教育は、それ自体が問題です。

    第一に、これは、「子どもを狙った犯罪が増加している」という過った事実認識にもとづいて展開されています。第二に、そういった過った事実認識を、根拠もなく多くの人の心に植え付けます。第三に、そういった過った事実認識、そして「不審者」という非常に恣意的な概念により、子どもの社会に関わる姿勢を歪めます。そして、子どもの正常な社会能力の発展を阻害します。第四に「いかのおすし」が無批判に行われているという事実そのものが、教育業界の異常な実態のあらわれです。さらに語り出せばきりがないほど、「いかのおすし」には多くの問題があります。

    こういった問題を抱えたものを、「強制されていないならOK」と言えるわけはないと私は思うのです。

    私は何も、「いかのおすし」を主張することそのものが犯罪だと言っているわけではありません。たとえば警察がこういった標語を考え出し、それを広めようと思うことは、別段何の問題もないでしょう。警察という仕事を遂行する上で、ひょっとしたらそれが役に立つのかもしれません。もちろんその場合でも、「過った認識に基づいている」という批判の対象にはなり得るとは思います。けれど、人間の多くの行動はそういうものです。あまり堅いことを言うべきではありません。

    もちろん仮に、警察が「いかのおすし」を徹底させるために強権を発動するというようなことがあれば、これはアウトです。けれど、いかな警察でもそういうことはしません。そういう文脈では、「強制されていないからかまわないじゃないか」と言うこともできます。

    しかし、ほとんど犯罪的だと私が思うのは、教育の専門家としての自らの職務を放棄したような学校の「いかのおすし」に対する姿勢です。正常な感覚なら、これが低年齢の児童に対しては何の役にも立たないこと、むしろ有害なことぐらいの判断はできるでしょう有害だという判断まではしなくても、何らかの批判的な検討を行うことぐらいは、現場への導入前に当然すべきことでしょう。ところが学校は、行政の下請けとして、要請された「いかのおすし」を無批判に、ほとんど右から左へと、児童に伝達しています。これは完全にアウトです。こういう姿勢で教育現場で教えられる「いかのおすし」は百害あって一利なしであり、「強制でないからかまわない」などという議論が入る余地のないものだと私には思えるのです。

    しかし、実のところ、もっと怖ろしいことがあります。

    それは、ほとんど私以外の誰一人、「いかのおすし」が問題だと思わないことです。疑いさえしないことです。「強制されている」と感じるどころか、むしろ空気のように当たり前の存在だと思っていることです。

    これはまるで、「信号を守りましょう」とか「歯を磨きましょう」とかというのと同じ次元で教えられています。根本的に違います。だれも違いを意識しないのはどうしてなのでしょう。

    「信号を守りましょう」というのは、それが明文化されたルールだからです。ルールを守ることで、子どもは身を守ることができます。これは、ルールに対する潜在的な批判までを含めて、ほぼ間違いのない知識として子どもに伝えることができます。

    「歯を磨きましょう」は、人が定めたルールではありません。しかし、多くの科学的な議論と実地の数多くの検証のもとで、有効性が確認されてきた知恵です。歯を磨く習慣をつけることは、子どもの身を守ります。もちろん、他の方法や、併用してさらに効果のある方法(甘いものを食べないなど)があることは確かです。しかし、そこまで含めて、やはり間違いのない知識として子どもに伝えるべきものです。

    これに対して、「いかのおすし」は、定められたルールではありません。さらに、何らかの検証を経て有効性が確認されたものでもありません。警察の犯罪捜査の実地の経験から、その一部の有効性は確かにある程度認められるでしょう。しかし、それは百万分の一以下の確率で発生する非常に特殊なケースにおける有効性であり、日常生活に一般化できるかどうかの検証は、議論にさえのぼりません。さらに、そういった犯罪の現場での知恵を低年齢児童の教育に導入することの影響に関しては、誰一人考えた形跡がありません。

    つまり、「いかのおすし」は、交通ルールや基本的生活習慣とはまったく異なったレベルの、かなり「迷信」に近いものです。であるのに、それがまったく同一レベルのものとして扱われていることが、私には怖ろしいのです。

    ここまでの無知は、無知として処理すべきものではないでしょう。むしろ、これは主体的に疑うことを放棄していると考える方が合理的です。

    では、主体的に疑うことを放棄して、大人社会は何を目指しているのでしょう。ここのところがどうやら「いかのおすし」問題の中核のように思えてくるこの頃です。

    posted by 松本 at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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