2009年09月08日

「いかのおすし」よりも「いかめし」

ここまで「いかのおすし」的教育は問題だと批判してきたわけですけど、批判をするとすぐに「対案を出せ!」と言い張る人が出てきます。「対案なしで文句だけ言うのは非生産的だ」「対案がなければただの愚痴じゃないか」と。

本来、批判には「対案」など必要ないのだと思います。けれど、そういう哲学的な議論をやっても始まりません。「対案」がなければ納得しない人には、それをつけておいたほうが説得力があるでしょう。そこで、「いかのおすし」への対案を考えてみます。

といって、ここで「『いかのおすし』の最高の対案はそれを教えないことだ」と言ってしまっては身も蓋もありません。もうちょっと、「いかのおすし」を主張する人々の考え方に近いところまで想像力を膨らませる必要があります。

「いかのおすし」ができた詳細な経緯はわかりませんが、その内容を見る限り、これは子どもの連れ去りを防ごうとして考案されたもののように思えます。



子どもを対象にした犯罪では、最も頻度が高く、また最も子どもに与える被害が大きいものは、近親者によるものだといわれています。しかし、「いかのおすし」はこれを対象にしたものではありません。「いかのおすし」がターゲットにするのは、不特定の「犯罪者」による子どもの連れ去りです。もちろんこのような犯罪も未然に防がねばならないのは言うまでもありませんから、その防止策が警察によって考案されることには同意するとしましょう。

そして、その防止策のなかに「子どもが覚えやすい標語」を取り入れることも、一つの手段として認めるとします。そこまで同意した上でなお認められないのは、子どもの成長に悪影響を与えると思われる「いかのおすし」そのものです。もちろん、この「いかのおすし」を何の問題意識ももたずに子どもに強制する学校のあり方こそが問題の根源であるわけですが、そこはとりあえず別問題として切り分けてみましょう。

すると、要は「子どもを連れ去りから防止するために、もっとマシな標語はないのか」ということになります。そりゃあ、あるでしょう。あるはずです。なければつくればいいのです。

ここで、「いかのおすし」を分析してみましょう。

「いか」(知らない人についていかない)

子どもに対する犯罪の多くは、子どもの近親者や顔見知りによって行われます。そういう点でこの「いか」はかなり現実ばなれしているのですが、捜査する警察の立場からいえば、近親者でも顔見知りでもない犯罪者は確かに厄介なものなのでしょう。
「知らない人」が厄介なのは、手がかりがつかめないからです。逆に、犯意をもった「知らない人」は、自分の正体を知られることを嫌います。正体が暴露されるような手がかりは、なるべく残したくありません。
手がかりは、多くの人の目に触れることで残りやすくなります。たとえば多くの人の目のあるところで子どもを連れ去ったら、それだけ多くの手がかりを残すことになります。ただし、無関心な人がいくら多くても、手がかりにはなりません。大都会の中の雑踏で子どもの手を引いている人が犯罪者なのかそうでないか、気に留める人はいないでしょう。
ですから、ここで重要なのは、「子どもを一人にしない」ことです。それも、友人や近所の人など、その子どもに関心をもっている人の目の届く範囲内に置くことです。こうすることで、「知らない人」が子どもを連れ去る危険性はぐっと下がります。

新標語:「い」(いつも友達といっしょに)


「の」(知らない人の車に乗らない)

「お母さんが呼んでいるから」「大変なことがあった。急いで!」こんなふうにもっともらしい口実をつけて犯意をもった「知らない人」が子どもを連れ去る事件は、実際に起こり得るでしょう。この「の」は、それを直接に防ごうとするものです。確かに、車は捜索範囲を一気に拡大させるので、警察にとっては非常に厄介でしょう。
上記のように、子どもを一人にしないことで、「知らない人」の連れ去りは相当に困難になります。それでも、たとえば下校時の子どもたちの群れに近づいて上記のような口実で誘拐を行った事例がないわけではありません。
子どもの信じやすさにつけこむ犯罪は、許しがたいものです。しかし、だからといって子どもを猜疑心の固まりにするのはいかがなものでしょうか。そうではなく、子どもが騙されないようにするための方法はないのでしょうか。
犯罪者は、嘘をつきます。そして、嘘というものは、一般に相手が少ないほど騙しやすいものです。一人の目はごまかせても、大勢の目はごまかせません。
だから、犯罪者の嘘を見破るには、大勢の力を借りればいいのです。「車に乗って!」と言われたら、自分一人で判断するのではなく、友達の意見を聞くべきです。大人がいればなおいいでしょう。携帯電話で確認をとってくれるかもしれません。大人がいなくても、数人の子どもに質問攻めにあって嘘をつき通せるほど余裕のある犯罪者は多くないでしょう。

新標語:「か」(かならず相談、動く前に)


「お」(おおきな声で呼ぶ)

上記のように、犯意をもった人は自分の正体がバレること、手がかりが残ることを嫌います。「大きな声で呼ぶ」ことは、この点で犯罪者の嫌うところでしょう。
しかし、子どもは何と呼べばいいのでしょうか。「助けを呼ぶ」といっても、犯罪者は「助けてほしい状況」をつくらないように悪意をこらします。上記のように「お母さんが呼んでいる」といったような口実は、まさに助けを封じるためのものです。
大きな声で呼ばれることと同様に、犯罪者が嫌うことあります。それは、まっすぐに目を見られることです。たとえ相手が子どもでも、まっすぐに目を見られて嘘をつき通すのは難しいものです。疚しいところがあれば、必ず目を逸らします。子どもは敏感にその変化を感じとるでしょう。

新標語:「め」(目を見て話そう)


「す」(すぐ逃げる)

犯罪者の中にはプロもいます。何とか工夫して嘘をつき通そうとする人もいるでしょう。いろいろと疑いをはさんでも、あれやこれやと言い逃れをするかもしれません。「すぐ逃げる」のは、相手にこんな言い逃れを工夫させないための手段として有効です。また、凶器などをもっている場合、危害を加えられる前に「逃げるが勝ち」でしょう。
けれど、いずれの場合も、大勢の前では犯罪者は無力です。言い逃れもできませんし、暴力も(本能的に自分の方が弱いことがわかるので)大勢に対しては行使しにくいものです。
ですから、これは上記の「いつも友達といっしょに」で十分ではないでしょうか。


「し」(何かあったらすぐ知らせる)

犯罪に限らず事故、事件の防止には、大人が子どもの現状を的確に把握していることが重要です。子どもがどんなふうに過ごしているのかを大人がきっちりとつかんでいれば、どこにどんな危険があるのかが未然に予測できます。
ですから、「何かあったらすぐ知らせる」では全く不足なのです。何もない状態から、大人は常に子どもの身辺に目配りをしておかなければなりません。そして、これは、両親をはじめとする「保護者」だけに求められることではありません。子どもの安全は地域で守るべきです。そしてそのためには、子どもが常に周囲と緊密なコミュニケーションを確保しておくことが重要なのです。「ああ、あの子ならきっとあそこで遊んでいるよ」と、地域の人が認識していれば、子どもの安全はぐっと高まるでしょう。

新標語:「し」(知っている人と話をしよう)


いかがでしょう。「いかのおすし」に対する「対案」として「いかめし」を用意しました。こちらのほうが子どもの安全を確保する上でははるかに有効で、そして子どもの成長に与える害も小さいと思うのですが、どうでしょうか。

もちろん、「いかめし」よりもさらにさらに、百倍も千倍もいい「対案」はいくらでも出てくるだろうと思います。皆さんもひとつ、考えてみられてはいかがでしょう。
posted by 松本 at 14:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 対案 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月15日

子どもへの安全指導はどうあるべきか

「いかのおすし」を廃止してほしいというのが一児の親である私の願いなのですが、おそらくこれは、「児童への安全指導は必要です」という立場で一蹴されることでしょう。しかし、私は、「いかのおすし」を子どもに唱えさせることが何ら子どもの安全を高めることにもならないと思うのです。本当の意味での安全指導は、全く異なった形でなければならないと思います。そこで、今回は「対案」として、私の考える有効な「安全指導」を説明したいと思います。
なお、私は教育関係者でもなく、また学校で教育関連の学問を学んだこともありません。大学卒業すらしていません。ですから、専門家からみれば滑稽なほど誤ったところもあるかもしれません。それでも、「いかのおすし」よりもはるかに効果の高い安全指導があるはずだという点においては、誤っていないはずです。もしも私にその他の点で誤りがありましたら、ぜひ専門家の方の訂正をいただきたいと考えております。

まず最初に重要なのは、小学校レベルの教育においては、すべての教科を含めたすべての指導が密接に絡み合っているという事実です。国語で文字の読み書きを指導することは算数の文章題読解につながります。音楽や図工は運動神経の発達促進という面で体育と深く関係しています。生活科と括られた理科と社会は、初等教育レベルで深く絡みあっているからこそ、統一的に教えられるようになっているわけです。

安全指導も例外ではありません。これは、生活科や道徳教育と結びついて行われるべきものです。これらの教科と矛盾や齟齬があってはならないでしょう。

そういった出発点からはじめれば、安全教育は何よりも「大人の常識」の押しつけであってはならないことがわかります。そうではなく、子どもら自身に考えさせ、できるならば議論させて、「何が問題なのか」「その解決のために何をすればいいのか」を見出させていくのが正しい指導方法ということになります。

指導者は、問題点となっている事実を、わかりやすく、しかし正確に説明します。「子どもの安全」を課題とするのであれば、子どもがどのような事故や犯罪に巻き込まれるのか、統計にもとづいて重要な順に説明すべきでしょう。この場合、当然ながら第一にくるのは交通安全であり、次にくるのが家庭内の虐待でしょう。以下、子ども同士のトラブルや遊び場での事故などが続き、おそらく誘拐や通り魔ははるかに優先順位の低いこととして取り上げられることもないでしょう。

しかし、社会的な恐怖を全く反映しないわけにもいかないかもしれません。指導の中で、誘拐や通り魔といった犯罪の可能性を取り上げることが有益である場合もあるかもしれません。そういう場合でも、指導者は最初から大人の常識を教えてはいけません。まず、子どもたちに考えさせることです。

たとえば誘拐犯の事例を(警察の流すイメージではなく事実にもとづいたケーススタディとして)子どもたちに考えさせたとしたら、子どもたちはどんな反応を返すでしょう。昨今の闘争的なテレビ番組やゲームの影響を考えるなら、多くの子どもが「たたかう」という答えを出すのではないでしょうか。指導者が介入するタイミングはここです。そして、「いかのおすし」に何らかの真実が含まれるとしたら、この部分でしかありません。

「たたかう」という結論を自ら考え出した子どもに対してそれが実際には被害を拡大すること、そうではなく拒否する、逃げる、叫ぶ、助けを求めることが実際にはより有効なことを事実にもとづいて説明すれば、子どもは自らの誤りを再検討し、新たな考えを納得して受け入れることができます。重要なのは、子どもに考えさせることです。そうすることで新たな考え方は子どもの武器になり得ます。

この違いをはっきりと意識してください。子どもに考える余裕を与えずに「これが正しいから」とばかり「いかのおすし」を斉唱させることは、百害あって一利なしです。そのようにして刷り込まれた「いかのおすし」は、子どもの発達を阻害し、偏見を生み出し、柔軟に危機に対応する能力を削ぎ落とします。一方、子どもが自分で考えて身につけた知恵としての「拒否する、逃げる、叫ぶ、助けを求める」手段は、必要に応じて子ども自身が柔軟に使えます。一般化されて教えられた場合と異なって事例に即して考えていますから、不必要に消極的な態度や一般化された偏見を生じさせる危険性はほとんどありません。実際の危機に際して、よりその場に即した応用が期待できるでしょう。

「そこまで安全指導に時間をかけていられない」のが現場の実状なのかもしれません。時間がないときに、とりあえず「いかのおすし」を一斉に唱えさせるのは簡単で、アリバイにはなるでしょう。しかし、無意味なこと、有害なことをやって意義のあることの代用だと主張するのはおかしなことです。

もしも時間がないのなら、「有効な安全指導を行う時間がとれない」事実を報告しましょう。時間がないのは教員の責任ではありません。もしも文部科学省が安全教育を必要なものだと考えるなら、指導要領を改訂してくれるでしょう。そうでなければ、やっぱり行き過ぎた安全教育は不要なのかもしれません。

以上、私の考える「いかのおすし」に代わる「安全指導」を説明しました。本音でいえば、そういった安全指導さえ必要がないほど、日本の犯罪発生率は低いと思っています。けれど、何事であれ、子どもら自身に自分の頭で考えさせることはいいことです。題材は何であっても構いません。やってはならないのは、無批判に「これが正しい」と大人の考えを刷り込むことです。その弊害は、「いかのおすし」に止まらない一般的なものだと多くの人が認めるでしょう。だからこそ、現代の教育が昔と違った形に進化しているのだと思います。

posted by 松本 at 10:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 対案 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。