2009年09月05日

「いかのおすし」って?!

小学校1年の息子が、夏休みが終わった始業式の日、帰ってきての会話。
「今日は勉強はなかったでしょ」
「勉強あった」
「何を勉強したの?」
「いかのおすし」
「?」

すぐに息子は解説してくれました。だいたい、こんな感じのことです。



私は一瞬怯みました。危機感を覚えました。
私と同じように、「こんなことを子どもに教えるなんて!」と感じる方には説明は不要でしょう。けれど、哀しいことに「そうだ、こういう危機管理が子どもにも必要だ」と感じる人の方が多くなっているようです。私が身震いするのは、むしろそっちの方かもしれません。

確かに、子どもの身の安全を守ることは重要です。私もひとりの子の親です。自分の子どもが危険な目に合う可能性を考えただけで背筋が凍ります。

けれどまた、子どもが正常な感覚をもった人間に育ってくれることも、ひとりの人間として望まずにいられません。そして、「いかのおすし」は、子どもの安全を守るメリットよりも、子どもの正常な発達を阻害するデメリットの方がはるかに大きいように感じるのです。

ひとことでいえば、それは「危ないものには近寄らない」態度をよしとするものです。確かに危険に近づかないのは安全の基本です。しかし、そればかり強調しすぎると、いざ本当に危険が襲ってきたときに全く対処のできない後ろ向きな姿勢が身についてしまいます。

いいえ、危機の場合だけではありません。社会に出てもっとも大切な能力は、コミュニケーション能力です。あらゆる場所で、正常なコミュニケーションをとる力が求められています。そして、コミュニケーションの基本は、自分とは異なる他者の存在を認めることです。異質な他者の存在を認め、それとつきあうための適切な距離と接し方を判断する能力です。

一方的に「怪しい人には近寄らない」姿勢は、こういった異質なものとの距離を判断する能力の成長を阻害します。なぜなら、多くの子どもにとって、異質なものはすなわち怪しいものだからです。異質なものを身近から排除してしまうことは、異質なものに対する経験値を上げる機会を失わせます。

企業が求める人材像が必ずしも人間のあるべき姿とは思えませんが、それはさておき、近年、企業人が新人のコミュニケーション能力の不足を嘆いている話をよく聞きます。多くはそれを携帯電話やインターネットの普及によるリアルな関係性の不足のせいだと結論づけていますが、ひょっとしたらそうではないのかもしれません。「いかのおすし」は2004年ごろに考案された標語だそうですが、「いかのおすし」的教育は、そのずいぶん前から行われてきています。若者のコミュニケーション能力の低下の遠因がここにあるのかもしれません。

何度繰り返しても足りないほど、子どもの身の安全を守ることは重要です。問題なのは、「いかのおすし」がそれに本当に役立つ知恵であるのかということです。子どもの個性や状況に応じて、こういった標語を利用して防御的姿勢を身につけさせるのが必用な場面もあるかもしれません。けれど、ほとんどの子ども、ほとんどの状況では、これはむしろ、子どもの正常な発達を阻害し、そして最終的にはむしろ、子どもを人生においてより困難な危機に追い込むのではないかと思えます。

このような問題意識の下、このブログでは「いかのおすし」的教育にどのように立ち向かい、どのようにそれを変えていけるのかを考えていきたいと思います。
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2009年09月06日

警察と学校と

「いかのおすし」は、いまから5年前、東京都教育庁と警視庁少年育成課が協力して考案した標語だそうです(詳細はこちら)。「深刻化する少年犯罪から子どもを守ろう」という目的だそうですが、実際のところ、少年犯罪が深刻化しているのかどうか、統計的な根拠を私は知りません。ただ、根拠があろうがなかろうが、子どもの安全が守らなければならないということには強く同意します。この点を問題視するつもりは全くありません。

また、警察がこういった標語を考案し、それを普及しようと努力することも、よっぽど甚だしく度を越えない限りは問題ないと思います。なぜなら、警察というところはもともと犯罪を防ぐためのものだからです。子どもがこういう標語を覚え、それが犯罪防止に役立つと考えるのであれば、警察がその手段を活用するのは理に適っています。

私が問題だと思うのは、教育機関が無条件にこういった標語の流布に協力することです。なぜなら、教育機関の第一の目的は、子どもの健全な育成だからです。

もちろん、子どもを預かる教育機関が子どもの身の安全を確保するため努力するのは当然のことでしょう。しかし、教育機関の第一の目的は、子どもの安全ではありません。子どもの健全な成長を支援することが第一であり、安全はそれに付随して発生する必要要件に過ぎません。

現行の「小学校学習指導要領」には、第1章1-1で「各学校においては...児童の人間として調和のとれた育成を目指し、地域や学校の実態及び児童の心身の発達段階や特性を十分考慮して...」と明記されています。1-2では、「学校における道徳教育は,学校の教育活動全体を通じて...適切な指導を行わなければならない。道徳教育は...人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし、豊かな心をもち、個性豊かな文化の創造と民主的な社会及び国家の発展に努め、進んで平和的な国際社会に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため、その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。」と詳細が説明されています。

「人間尊重の精神」は、自分とは異質な他者の存在を認めるところから始まります。なぜなら、人間とは実に多様で複雑なものであり、単純に「これが正義だ」と割り切れない存在だからです。この地球に存在する様々な人間のあり方を学び、それぞれの個性を認め、その中で自分自身を確立していくことが、「人間を尊重する」ということでしょう。人間だけではありません。万物、ありとあらゆる存在に対し、それを受け入れ、そこから学ぶ精神が重要です。これがすなわち、「生命に対する畏敬の念」でしょう。

学習指導要領は、高らかにこれを謳っています。その一方で現実はどうかといえば、「いかのおすし」です。

「いかのおすし」は、
いか…知らない人についていかない
の…他人の車にのらない
お…おおごえを出す
す…すぐ逃げる
し…何かあったらすぐしらせる

とされています。

子どもにとって、多くの「他者」は、「知らない人」です。ですから、「人間尊重の精神」を養おうというのであれば、まずは「知らない人」とどのように関わっていくべきかを指導すべきでしょう。

「他者」は限りなく多様です。ですから、最初の接触で、「ついてい」ったり、「車にの」ったりしないのは常識的な行動かもしれません。しかし、他者との接し方として無条件にそれだけを教育することは、果たして正しいのでしょうか。まして、無条件に「大声を出」し、「逃げ」、自分で判断することなく「知らせる」態度が、果たして子どもの成長を助けるでしょうか。

「人間尊重」の教育を目指すのであれば、なによりも、「知らない人」にはさまざまな人がいて決して一括りにはできないのだということを教えるべきではないでしょうか。多様な人々がいて、そこから様々なことを学ぶことができるのだと、教えるべきではないでしょうか。その上で、多様な人のなかにほんの一握り、危害を加える可能性のある人がいるかもしれないこと、そういった偶然は自分の身にも起こり得ること、そして被害が起こったら偶然では済まされないのだということを順に指導していくのが筋道ではないでしょうか。

「知らない人」を拒否し、そこから「逃げる」態度は、小さな小集団の利益だけを考える社会的態度を植え付けるでしょう。誤解のないように繰り返せば、身を守る技術を身につけることも、ときには立ち向かわずに「逃げる」知恵をもつことも、とても大切なことです。けれど、他者とどうかかわってもいいかわからず、まっすぐに相手を見ることもできずに逃げることだけに終始するのは全く別です。

息子の学校では、「いかのおすし」は大声で復唱させられたけれど、それを補足するような指導は何も行われなかったようです。私が危機感を覚えるのはここのところです。

学校は、警察ではありません。子どもを健全に育ててくれることを期待して、私たちは子どもを託しています。そのことを忘れないでほしいと思うのです。
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2009年09月07日

子どもはたぶん、大丈夫

前回、「いかのおすし」的教育は子どもの健全な成長にとって有害であるという内容の主張をしましたが、正直なところ、実際には直ちに子どもが悪影響を受ける危険性は大きくないのだろうと思います。

というのは、子どもは案外とバランス感覚をもっています。学校で「いかのおすし」と教えられても、それが唯一正しい行動原理だと信じ込む子どもは多くないでしょう。たいていの子どもは、「先生もあんなこと言うけど、まあそこまで極端なことはないよね」と、内部でバランスをとるでしょう。学校というところが決して正しいことばかり教えてくれる場所ではないことを、子どもたちは経験上知っています。そこはさまざまな不条理や問題を抱えた小さな社会です。そういった場所で教えられた知識であるという前提で、子どもたちは「いかのおすし」に対するのだと思います。

だから、あまりにも偏っていると思われる「いかのおすし」的教育を受けても、子どもはたぶん大丈夫です。それが原因で排他的な性格ができたり、コミュニケーション能力が著しく落ちることは、本当のところはないのかもしれません。

けれど、だからといって学校がそれに甘えていいわけはないと思うのです。この社会には、いろいろな立場があります。何はさておき防犯を第一としなければならない警察のような立場もあるでしょう。子どもを学校に託さねばならない親の立場もあります。どうしても弱者であることを逃れられない子どもの立場もあります。そんな中で、学校の立場とは何でしょう。

長期的に見て、子どもたちにより大きな悪影響を与えるのではないかと私が危惧するのはこの点です。学校は、本来、子どもの健全な成長を支える場所です。そういった役割を自覚していれば、無条件に警察の主張する「いかのおすし」を子どもに押し付けるようなことはしないはずです。しかし、学校はそれを放棄しています。そして、子どもたちはそれを敏感に感じ取ります。

結果として、子どもたちが受け取るメッセージは、「大人は信用できない」「社会の仕組みなんて建前と本音は違うんだ」という不信感です。社会に信頼がもてないまま成長した子どもが、将来どんな社会を築いていくのかと考えれば、ここで発生している損失が計り知れないことがわかるでしょう。

ですから、やっぱり「いかのおすし」は問題です。学校の場において「いかのおすし」キャンペーンが無批判に実行されることは、直接にも有害ですし、間接的にも有害です。

このことを深く考えてほしいのです。
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2009年09月17日

「いかのおすし」のここが変

思いつくままに。

  • そもそも言葉として変。(こちら参照)

  • 「いかのおすし」で効果があるとみんなが思っているのが変。そんな標語をバラまいたって、防犯効果はあるの? みんなが一様に「子どもに覚えさせましょう」って書いてるのには背筋が寒くなる。

  • 「いかのおすし」にここまで力を入れるのが変。だって学校現場は忙しいし、防犯関係の予算だって限られてるでしょう。もっと効果がはっきりしている優先順位の高いことにエネルギーを投入すべきじゃない?

  • 「いかのおすし」の発想が変。なんでそんなに「知らない人」を排斥したがるの? 「知っている人」なら何でもOKなの?

  • 「いかのおすし」の悪影響を考えないのが変。こんなもの教えたら、子どもの性格が歪むでしょう。常識的に考えて。

  • 「いかのおすし」と道徳教育の矛盾が変。「道徳教育」がどういうものかはさておいて、一方で人を信じることを教えて他方で人を疑うことを教えるのはおかしいじゃない? いや、両方大切だけど、バランスは考えてるの?


「いかのおすし」的な世界に、私は住みたくありません。今日読んだ漫画にも、「人を騙す人になるよりも騙される人になる方がずっといい」という言葉がありました。犯罪者から身を守ることよりも犯罪者をつくらないことの方がはるかに重要だと思うこの頃です。
posted by 松本 at 16:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 問題提起 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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