2009年09月10日

「いかのおすし」と遠い記憶

「いかのおすし」的教育は、いまに始まったものではありません。私が子どものころにも「知らない人についていってはいけません」と学校で教えられたものです。当時は「子取りにさらわれるぞ」というような言い方をしました。「子とり」は怖ろしいものとして語られましたが、どこかお伽話めいたロマンチックな存在であったりしたものです。

ともかくも、「連れ去り犯罪」はいまに始まったものでもなく、むしろ昔の方が多かったのかもしれません。そして、それが子どもを持つ親にとって忌まわしいものであることは昔も今も変わりません。だからこそ、「知らない人についていったら子取りにさらわれるぞ」と。

ただ、私は子ども心にも、この「知らない人〜」が納得できませんでした。というのは、私にとって自分以外のほとんどの人が「知らない人」だったからです。

これは、ずっと後になって知ったことなのですが、おそらく私は「自閉症スペクトラム」と呼ばれる傾向をもった子どものひとりでした。現在もその傾向は引きずっています。たとえば、他の人を認識する能力が著しく一般よりも劣っています。つまり、顔を覚えられないし、名前を覚えられません。ようやく覚えても、顔と名前が一致しません。このことを自覚するようになった30代以降には、初めて会った人には必ず「私は三度はお名前を忘れますがどうかお許しください」と自己紹介に添えて言うようにしてきました。多くの人はこれを冗談と思ったかもしれませんが、本当のことなのです。

そして、子どものころ、私は自分自身の親の顔さえ忘れました。サラリーマンの子どもが滅多に顔を合わせない父親の顔を忘れるという笑えない話はよく耳にしますが、私の父親は勤め人とはいえ朝晩必ず食事をともにし、休日には一緒に遊んでくれる人でした。であるのに、外出した際など、私はよく父親の顔を見分けられなかったものです。母親の顔も同様でしたが、さすがに母親ともなると顔以外の部分で動物的に覚えているのでしょう、まちがえることはありませんでした。それでも、たとえば写真を見てどれが母親の顔かわからないというようなことはよくあったのです。

感覚というものは、自分だけのものです。他人の感覚と自分の感覚が違っているかどうかは、直接比較することができません。だから私は、それが普通だと思っていました。両親の顔さえ覚えていられない私にとって、世界は「知らない人」に満ちていました。だから、「知らない人についていってはいけません」という教えは、私にとっては「大人にはついていってはいけない」というのと等しく感じられました。「信用できない人にはついてくな」と言われても、誰を信用していいのかわからないのです。

「知らない人についていってはいけない」が納得できなかったというのは、そういうことです。

「自閉症スペクトラム」は、傾向であっても固定された形質ではありません。ですからそういう傾向があっても、成長の段階で徐々に社会との関わり方を身につけ、一般人として生きていくことができるようになる場合が少なくありません。私もそういう幸運なひとりでした。そして私に必要な社会性を身につけさせてくれたのは、多くの素晴らしい友人をはじめとする「知らない人」たちでした。

ですから、「知らない人」の排除がはじめにあってはならないと思うのです。「自閉症スペクトラム」の子どもによくあるように、私は猜疑心が強い方でした。「人見知り」で、親兄弟以外とはほとんど口をききませんでした。そんな猜疑心の強い子どもに対しては、「知らない人についていくな」は無用の警告でしょう。むしろ、他の人々に対してどのように心を開いていくかを教える方がはるかに重要だと思います。

子どもはひとりひとりちがっています。ですから、「知らない人についていかないように」と注意を喚起した方がいいような性格の子どももいるでしょう。しかし、全く別な指導をしたほうがいい子どもも少なくありません。「知らない人にはついていかない」あるいは「いかのおすし」と子どもに一斉に唱えさせることがどれほど奇妙であるかは、こんな観点から言えば論ずるまでもありません。

子どものころを思い出して、やっぱり「いかのおすし」は「いかさない」と思うこのごろです。
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2009年09月11日

学級懇談会にて

本日、小学校1年生の息子の授業参観がありました。小学校1年生の勉強というのは...。ま、私が子どものころよりは、はるかにマシでしょう。

さて、授業参観が終わり、学級懇談会が開かれました。私はこの席で、「自分は『いかのおすし』がおかしいと感じる」と、どうにか発言することができました。「言っちゃったよう...」という感じです。

「いかのおすし」が問題だと感じる人は、非常に少数派でしょう。ですから、そういうことを言うととても場違いに受け止められるに違いありません。場違いなことを言う人は嫌われます。私だって嫌いです。できればそういう立場にはなりたくありません。

だから、いくらそう思っても、黙っていたいとも思いました。ブログで自分の考えを書くことと、実生活の場でそれを口にすることは大きくちがいます。できれば波風立てずに生きたいと、私はそんなふうに思います。

しかし、同じくらい強く、私は「いかのおすし」的教育をやめてほしいと思っています。自分が恥ずかしい思いをし、何人かの人に場違いで不愉快な思いをさせるリスクをおかしても、声をあげないことには何一つ変わる可能性はありません。声をあげたらすぐに変わるわけではありません。声をあげても何も変わらない確率の方が高いでしょう。けれど、声をあげなければさらに確率は下がります。ここは厚顔無恥を装ってでも、「クレーマー」と後ろ指をさされても、言うべきではないでしょうか。

ずいぶん悩みました。最終的に「言おう」と思ったのは、担任の先生がひとりひとりに発言の時間をとってくれて言いやすい雰囲気をつくってくれたこと、そして、出席者(30人の学級で8人しか出ませんでした。皆、忙しいのですね)の半数が、保育園から同じだった子どものご両親で、私のことをある程度わかっていてくれる人たちだったからです。私が少々変わり者だということは、この人たちならわかってくれます。変わり者だけれど、子どものことを真剣に愛しているのだということをよく知っていてくれます。単に「文句」をつけているだけではないということも、きっと理解してくれるでしょう。もちろん、「いかのおすし反対!」まで理解してくれるとは望みません。それはあまりに欲張りです。

そういう話しやすい雰囲気があったので、私はどうにか、つっかえながら、「自分は『いかのおすし』がおかしいと感じる」と、言うことができました。担任の先生も、特に不愉快な表情を見せることもなく、メモをとってくれていました。他の親御さんたちも、特別に変な目では私を見ませんでした。

昨夜から、話すべきか、黙っているべきか、ずいぶん悩みました。ようやく終わって、ほっとしています。




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2009年09月19日

「情報提供」と「宣伝」の間

警察に限らず、公的な意味での広報は、本来のあり方としては「情報提供」なのでしょう。公的な情報を知らないことで不利益を被る人がないよう、政策は広く周知されなければなりません。これが広報の目的だと思います。

ところが、近年の広報は、より「宣伝」としての色を強めているように思います。これは、広報のチャネルの特徴として、情報提供と宣伝が混同されやすいからかもしれません。堅い情報を噛み砕いてわかりやすく周知することは、重要なことです。そのために有効な様々な技法は、宣伝に用いられる技法と同じです。そのため、情報提供と宣伝は、現場ではほとんど区別されなくなるのでしょう。

けれど、宣伝は、何らかの誘導意図をもって行われるものです。中立的な立場での情報提供とは明らかに姿勢が違います。このことをもうちょっと意識する必要があるのではないでしょうか。

そんなことを考えながら、こんな記事を読んでいました。
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2009年09月21日

リアル「いかのおすし」

今日、近くの回転寿司に行ってきました。私、けっこう「いかのおすし」が好きなんですね。いえ、本当のイカをネタにしたおすしです。甘いコウイカも、歯ごたえのあるスルメイカも、ゲソをつけたヤリイカ姿なんかも、いつも必ず食べます。焼いたイカや煮たイカはそれほど好きでもないのに、どういうわけかお寿司は好きです。

ところが今日は、回っているイカがどれも干からびて見えて、結局手を出しませんでした。いえ、テカテカ光っているのもそれなりの処理をしてあるからだってわかっているので手を出し辛いのですが、その上に乾いてしまっているのはなおのこと...

こんなブログを書き始めてしまったから、リアルな「いかのおすし」にまで見限られてしまったのかもしれません。けれど、おかしいと思うことはおかしいって言わないと。もうちょっと、「いかのおすし」批判を続けることにしましょう。
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2009年09月22日

ちょっと失望

「いかのおすし」がおかしいって思う人は、少数でも絶対いると思うのです。私の身近では、だれも同意してくれません。「だって子どもの安全は大事じゃない」「世知辛い世の中かもしれないけど、それが現実なんだから」という反応はまだマシなほう、私が何を問題にしているのか全くかみ合わない方が多いでしょう。

それでも広い世の中、「こんなものを普及させようという大人の態度は許せない」と思う人が他に一人や二人いるはずだ、と思いたいのです。

今日、少し時間があったので、ブログ検索をかけてみました。ほとんどの記事が、「いかのおすしを子どもに教えましょう」というものばかり。たまにちょっと批判的なものがあっても、それは「言葉として無理があるんじゃない」という程度で、発想そのものが問題だと書いている人は一人も見かけませんでした。

これが世の中なんでしょうか。自分だけは正義の側にいると思って、実際には(確かに存在はしても)不確かでつかみどころのない「知らない人」や「不審者」に全責任をおっかぶせようとする態度が、いまの人間社会なんでしょうか。

軽い絶望感におそわれます。
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2009年09月23日

結局、私は何を求めているのか?

「いかのおすし」的教育がおかしいと思ってこのブログを書き始めた私ですが、では、私はいったい何を求めているのでしょう。「ぐちゃぐちゃ文句をつけているけど、何が欲しいんだ?」と聞かれたら、何と答えればいいのでしょう。

私は、自分の子どもに「いかのおすし」を教えてほしくないと思います。それが子どもの成長に悪影響を与えると思うからです。余分なことは子どもに吹き込まないでほしいと思うのです。

「いかのおすし」は指導要領に記載されているわけでもない、学校の自由裁量で指導している事柄です。私は個人的に文部省指導要領の記載事項のなかにさえ、「教えてもらわなくていいよ」と思うことがあるのですが、そこにはとりあえず文句を言わないでおこうと思います。息子を公立の学校に行かせる選択をした時点で、ある程度のことは容認しなければいけないと覚悟を決めました。ですから、「学校で教えると定められたこと」について問題にするつもりはないのです。

「いかのおすし」が教えられるのは、おそらく警察の都合、そして学校の事なかれ主義です。そういった教育とは全く関係のない事柄に子どもを巻き込まないで欲しいのです。

もちろん、親御さん方の中には、やはり報道される「連れ去り犯罪」に対する嫌悪感から(この嫌悪感は私も共有しています)、「学校は予防対策を万全にとって欲しい」と希望される方も多いでしょう。そのために「いかのおすし」推進を願う方も多いかと思います。つまり、私が「いかのおすし」を止めてほしいと願う一方で、それをやってほしいと思う親御さんもいるわけです。学校としては両者の意見を公正に聞いて、おそらくは多数派である「いかのおすし」推進派の意見を尊重せざるを得ないということもあるのでしょう。

けれど、冷静になってほしいのです。「いかのおすし」で子どもの不幸は防げません。たとえばこんな記事にあるように、「いかのおすし」という言葉を覚えても、そこに込められた願いが届いているとは限りません。それよりは、こんな語呂合わせではなく、本当に何を心配しているのか、本当はどうしてほしいのかを具体的に説明する方がいいのではないでしょうか。

そして、さらにじっくり考えていただければ、仮想敵である「知らない人」を持ち出すことが本当に子どもの安全につながるのかどうか、疑わしいことが理解いただけるのではないでしょうか。子どもを傷つけるのは他者かもしれませんが、子どもを救うのも他者です。他者を締め出して可能性を奪うのではなく、もっと踏み込んで、あらゆる状況に「生きる力」を発揮できる知恵を子どもに与えるべきではないのでしょうか。

私は、「いかのおすし」に賛辞を送る人々、「いかのおすし」を子どもに教えるべきだと唱える人々と、対立したくはないのです。そういった人々と手を携えて、本当に豊かな子どもたちの未来を考えていきたいのです。

これは大それた願いなのでしょうか。

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2009年09月24日

休み明け

休み明けの朝は、どの子もみな、不機嫌そうですねえ。眠いんだろうな。うちの子も、くたくたになって帰ってきました。
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2009年09月30日

PTAの愛育委員

昨日の「参考資料」でPTA関連のブログ記事をとりあげましたが、実は私、PTAのクラス役員で、愛育部というのに所属していたりします。愛育部というのは「安全マップ」をつくったりするところで、つまりは非常に「いかのおすし」的な場所であったりします。

私はそんなことを知っていてこの愛育部になったわけではありません。単純に、6年間に1回は役員が回ってくるということと、同じやるなら何もわからない1年生のうちにやったほうが楽だろうという打算から、クラス役員に立候補し、空きがあった愛育部に割り振られたということです。そして、「いかのおすし」を知ったのは二学期になってから。つまり、PTAとは直接関係ありません。

ですから、ちょっとした偶然なのですが、「いかのおすし」を考える上でこの立場は有利かなと思います。明後日が定例の部会会合日なので、そのあたりに目配りしながら参加してこようと思っています。まだまだ正面切って取り上げられるほどには、私も考えが練り上げられていないので、とりあえず様子見です。
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2009年10月02日

PTA愛育部にて

今日、月に一度の定例のPTA愛育部のミーティングがありました。「安全マップ」というのに記載する「子ども110番の家」募集に関する依頼文発送というのが、今日の活動内容でした。「子どもの安全」ということではかなり「いかのおすし」に近い活動です。けれど、実質的な子どもに対する影響という面では、かなり違ったものだと私には思われました。

確かにどちらも「不審者が子どもの安全を脅かしている」という思い込みを前提にした「不審者対策」ではあるのですが、「いかのおすし」が100%それに向けられているのに対し、「安全マップ」や「子ども110番の家」は、子どもが危険に陥る事故・事件全般を対象にしたものです。「危険を感じたらここに助けを求めましょう」というのは、「人をみたら泥棒と思え」式の教えとはだいぶ違います。「見知らぬ人であっても必要があれば助けを求めましょう」というのは、人間同士の本来あるべき信頼を根底とした考え方です。こちらの方が、同じ前提から出発してもはるかにマシではないかと、私には思えます。

実際、「困った事例」として、「子ども110番の家のステッカーをはっていると勘違いした子どもがトイレを借りにきたり、喉が乾いたから水をくれといってきたりする」という苦情があったそうです。しかし、これは苦情を言うようなものではなく、これこそが本来のあるべき姿ではないかと私には思えるのです。ステッカーを貼っていようがいまいが、気軽に他人にものを頼める地域社会こそが、本当の意味で子どもの安全と健全な発達を確保する上で重要なのだと思うのです。道を尋ねただけで不審者扱いされるような「セキュリティ意識」の高い社会には住みたくありません。

ともかくも、私の学校のPTAでは「いかのおすし」活動に積極的ではないということがわかって一安心したのですが、やはり「愛育部」というのはそれにいちばん近い活動をするところです。前回私はうっかり欠席をしてしまっていたのですが、前回の活動は「安全マップに関するアンケート」の配布でした。その集計は今後になると思いますが、過去のアンケート結果がファイルされていたので、待ち時間にそれを眺めていました。保護者の「安全」に関する意識が伺えて、興味深いものでした。

まずひとつは、アンケート回収率が非常に低いということです。過去2年分合わせて10件弱の回答があったに過ぎません。配布数の1%程度でしょうか。つまり、ほとんどの保護者は子どもの安全を、警察や学校が喧伝するほどには不安視していないということが伺えます。

そして、回答の大部分が、交通安全に関する不安でした。「この交差点は見通しが悪いので危ない」とか、「ここにガードレールを新設して欲しい」といったものです。「不審者」に関連した不安と思われるものは、「この道は下校時に人通りが少ない」とか「冬の夕方には暗い」といった指摘が合計2件か3件あっただけです(回答1件あたり複数の指摘があったので、全指摘数は20件弱になります)。その他、「遊び場として危険」に類するものが1件あったので、結局、8割ほどが交通安全で、1割強が不審者関連ということでしょう。「安全崩壊神話」といわれますが、不安感の実態としてはこの程度のようです。この実態から考えれば、「いかのおすし」が突出しているような気がするのは私だけでしょうか。

ちょっと欠席が続いた不真面目な役員の私としては、今回は直接「いかのおすし」に関する話題を持ち出すのははばかられました。もうちょっと他の役員の人と面識が十分にできたら一度意見を聞いてみようと思います。

けれど、けっこう待ち時間があったので、他のお母さんと雑談をすることができました。その中で印象に残ったのは、「うちの子が公園で木登りをしていたら、わざわざ電話をかけて注意してきた人がいた。子どもの木登りぐらいさせてやったらいいのに」というお母さんがいたことです。「うちの子は慎重過ぎて公園でしか遊ばない。子どもって、もっと冒険するものだと思うのに」と、別なお母さんは言っていました。つまり、子どもの安全は大切だけれど、あまりにそれを重視しすぎて子どもの自由を奪ってはいけないと、当たり前のバランス感覚をきちんともっておられるお母さんが多いようです。これはちょっと、ほっとする事実でした。

結局は、バランスが重要なのだと思います。一方的に「知らない人」を悪者と決めつける「いかのおすし」は、それ自体があまりにもバランスを欠いています。考案者の方々は、それに気がつかなかったのかと、不思議に思います。それよりも不思議なのは、それを推進して何とも思わない学校関係者です。このあたり、今後もうちょっと究明できたらなと思っています。
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2009年10月13日

夢の中の「いかのおすし」

小学校1年生の息子は、空想力の豊かな子どもです。いろいろと空想とも現実ともつかない話をしてくれます。もっとも、最近はそのストーリーにかなりマンガの影響が強く見られるようになってきたので、ときどき興ざめします。まあ、それも成長の過程なのでしょう。

さて、今日は、一緒に歩きながら、夢の話をしてくれました。昨日の晩見た夢、一昨日の晩に見た夢と、順に話してくれるのです。「初日の出の上に乗って地球を見下ろしていた」というようなお目出度いというか気宇壮大な話があるかと思えば、「お小遣いで1370円もらった」というようなやたら現実的な話があったりとバラエティに富んでいます。が、3日前に見た夢というのがちょっと気になりました。

「ヒゲづらのおじさんに追いかけられて、なんとか防犯ブザーで防いだ。校長先生にその話をした」というもの。

ちなみに、「ヒゲづらのおじさんというのは?」と聞いてみると、「ヒゲだらけでニタニタ笑ってる人」という形容。「それって父ちゃんと同じやない」と私が笑うと、彼は真剣な顔で「いや、人相が悪いねん」と。「なぜ追いかけられたの?」と聞くと、「ランドセルをひったくられそうになった」との説明。

実際にそういう経験、それに似た経験があったとは考えにくいので、これは例によってマンガの影響なのでしょう。あるいは、学校で「知らない人に気をつけましょう。知らない人に声をかけられたら先生に言いましょう」と繰り返し教えられているせいなのかもしれません。

ちなみに、「夢の話」というのもいい加減なもので、たとえば4日前、5日前の夢をそういうふうに具体的に覚えているわけはなく、口から出まかせの空想話です。そうではあっても、「知らない人に気をつけましょう」という「いかのおすし」的教育の影響がこんなにもはっきりと出ていることに、改めて愕然としました。

「不審者」のイメージは、こんなふうにしてできていくのでしょう。それは日常的な実体験によってできるものではありません。学校で教え込まれるステレオタイプです。「こういう人は怪しい」という根拠のない予断を、学校では日々子どもに教えているわけです。

その一方で、「人を見かけで判断してはいけない」とか「偏見は差別を生む」という教育も、学校では行われるわけです。子どもが混乱するのをどうやって避けろというのでしょうか。

そんなふうに思えば、学校というところは、本音では「人を見かけで判断」する「偏見」と「差別」に満ちたところではないかという気がしてきます。それが現実世界であり、学校は現実世界の入り口なのだとすれば「そんなものさ」と言ってしまうこともできるのかもしれませんが、それはあまりにさびしいことだと、私は思います。
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2009年10月19日

「いかのおすし」と小杉・山岸論文

昨日、oikaさんよりコメントをいただき、以前に「いかのおすし」は子どもの安全を脅かす?という記事で引用した社会心理学実験に関して、「『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)あたりをご参照いただけるとわかりやすいかと思います。」とご教示いただきました。この本の著者である山岸俊男さんという名前を手がかりに探した結果、この実験と思われる報告が「一般的信頼と信頼性判断」(小杉素子・山岸俊男 1998 『心理学研究』 69(5), 349-357.)という論文に掲載されていることがわかりました。これは山岸教授のWebサイトからダウンロードできますので、ちょっと読んでみました。

これによると、1970年代には「信じやすい人の方が騙されやすい」という研究結果が示されていたのが、1980年代に入って必ずしもそうではないという実験結果が出てきたところ、1990年代にこの論文の研究者らの実験で、「信じやすい人の方が騙されにくい」という結果が出たということのようです。

学問としてこの論文は興味深いものですが、ただし、この結果を即座に「いかのおすし」にあてはめて「"いかのおすし"的教育はかえって子どもを危険にさらす」とまで言いきってしまうのは無理があるのかなと感じました。せいぜいが、そういう「可能性がある」程度を言うのが関の山でしょう。それでもちょっと引っ張り過ぎかなという感じです。

というのは、この実験で用いられた「信頼」の尺度は、必ずしも想定される「連れ去り犯」の行動や特徴とは重ならないからです。さらに、実験の被験者となったのは大学生であり、子どもとは違います。後天的な社会的行動を獲得した後の大学生と、先天的な本能の部分がまだまだ大きい子どもの行動ではかなりちがってくるでしょう。

さらに、この信じやすさ、疑いやすさは、むしろ相手の行動を分析する能力の差異によって後付け的にできたものではないかと推論されていることが重要です。これによれば、騙されやすさの方が先にあるわけですから、教育によって疑うことを植え付けることが必ずしもマイナスにはならないということになります。

ということで、詳細を知ることで「いかのおすし」批判の根拠の可能性を一つ失ったわけですが、しかし、こういった方面の社会心理学の研究が、何か手がかりになるような感覚は残りました。ひとつの取っ掛かりが見つかったので、この方向で、もう少しこの方面でいろいろな研究をあさってみようかと思っています。

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2009年10月24日

ショッピングセンターにて

今日、ショッピングセンターでのこと。2歳ぐらいの女の子が、エレベータの前の床の上に寝転んで遊んでいました。5歳ぐらいのおにいちゃんが、いっしょうけんめいその子を立たせようとしているのだけれど、女の子の方はおにいちゃんにさからうのがおもしろいのか、全然いうことをききません。あたりをカートや台車が通り過ぎます。危険な状況ですが、誰も足を止めません。

聞いてみると、お母さんはちょっと離れたセール中のお店のレジ行列に並んで動けないということ。おにいちゃんがいっしょうけんめい妹を安全なところに連れ出そうとしているのだけれど、うまくいかず、困り果てていました。

事情を聞いた後、おにいちゃんと、「じゃあ、そこのベンチでお母さんを待とうか」と話して、女の子を抱き上げて、ベンチまで。気がついたお母さんもちょっとレジ行列を離れて女の子を落ち着かせました。互いに会釈をしてその場を離れました。

こんな出来事も、ちょっと間違えれば、「連れ去り事案」ぐらいの不審な行動になってしまったかもしれません。けれど、そこに女の子と困り果てた男の子を放置することがどれほど危険かを考えれば、やるべきことは明らかです。

こういった常識が通じなくなる社会につながるような気がしてならないから、私は「いかのおすし」教育に反対するのです。
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2009年11月05日

ちょっと呆れました

先日来、時間を盗んでは「いかのおすし」の英語圏での表現である「stranger-danger」に関連する論文を読んでいます。まだ数多くは読めていないのですが、近年の論文で「stranger-danger」指導を全面的に肯定するものはほとんどありません。実際、正面からstranger-dangerに触れたものはわずかしかありませんが、そのほとんどは、こういった安全教育が実際には役に立たないこと、誤った事実にもとづいていることを述べています(典型的には先日ご紹介したSarah Kulkofsky博士の論文です)。もちろん、その上で「もっと効果的な防犯教育が必要」とするのか、「こういった教育は不要」とするのか、立場は分かれます。けれど、事実の認識としては、それほど大きな違いはないようです。「科学」というものが事実を尊ぶのだということから考えれば、これは当然といえるでしょう。

ところが、今日、たまたま「stranger-danger」を全面肯定するような英語論文を見かけました。ずいぶんと珍しいなと思ってよくよく読んでみたら、なんと、著者は日本人で、日本の地域防犯体制に関して書いたものでした。

凄まじいことに、この論文では近年の子どもの犯罪に対する危険性の増大の根拠として、統計をあげるのではなく、新聞記事をあげています。社会学の資料として、ときに新聞記事は重要なものになるでしょう。しかし、新聞記事はしょせん新聞記事です。まさか、そのままで根拠になると思う学者がいるとは驚きでした。

全く無批判に、アンケート調査の回答を分析しただけのこの論文は、まるで前世紀の遺物を見るようです。こういった事実にもとづかず、先行文献の十分な調査もない論文が、日本国内で流通するだけならともかく、全世界の人が目にする英語で書かれてインターネットの検索で簡単に出てくるというのは、ほとんど日本の恥だと思います。

この論文を詳細に取り上げて批判すべきか、それともこんなものは無視してしまうのがいいのか、私には未だに判断がつきません。

「日本にはまともな"いかのおすし"研究がないのか」と思っていた矢先の発見だけに、なんとも複雑な思いです。学問は、いったい何のためにあるんでしょうね。

ちょっとした愚痴モードでした。
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2009年11月09日

PTA愛育部にて - その2

私はPTAの「愛育部」に所属しています。先週の金曜日は、その月例の活動日でした。「愛育部」というところは、「安全マップ」や「子ども110番の家」の依頼や管理など、「いかのおすし」に非常に近いところで活動しています。おそらく学校によっては直接「いかのおすし」を実行する部門にもなるのでしょう。幸いなことに、息子の学校ではそうではありません。

さて、金曜日はいくつかの手違いから活動らしい活動は何もなかったのですが、印象に残ったことがひとつありました。

「安全マップ」に追加すべき情報がないかどうかアンケートをとるのですが、今年はほとんど反応がありませんでした。おそらく積年の情報で危険と思われるものは出尽くしているのでしょう。ただ、ひとつだけ、「ちょっと違うかもしれないけれど」と提出された情報がありました。それは、「ここの住民が子どもを怒鳴りつけたり追いかけたりします」というもの。確かに「安全マップ」に載せるような情報ではありません。それは衆議一致し、まあ困っておられるのなら学校か自治会にでも調査してもらおうというようなことでその場はおさまりました。

すると、あるお母さんが、「うちの近くでも子どもを追いかける人がいる。うちの子どもがこの間、『全力で逃げた』と言っていた」と言ったのです。何人かのお母さんが頷きました。「警察に連絡したらパトロールを強化してくれるよ」と言ったお母さんもいました。

私は、こういった不安が、「治安が悪化している」という風説、そして「いかのおすし」的教育の背景にあるのかもしれないと思いました。不安の実体は、幻などではなく、子どもの報告のなかに現に存在するわけです。

私は、このような不安を根拠のないものだと退けるつもりはありません。しかし、たとえば「大人に追いかけられる」という危機が、いったいどういうものなのか想像ができないのです。というのは、ごくまれにニュースで聞くような通り魔事件を除けば、子どもが大人に追いかけられた末に危害を加えられるというような事例を私は知らないからです。そして、こういった通り魔事件は、ニュースになるほど珍しく、日常的に発生するものではありません。ところが「追いかけられた」というような報告は、このお母さんの経験のように、日常的に発生しているのです。その全てといわず数パーセントでも、「通り魔事件」的な要素をもっていたとは考えにくいことです。もしそうなら、通り魔事件はもっと頻繁に発生しているはずだからです。

どこかに、何かの誤認があるのかもしれません。あるいは、私の想像のつかないような危険が、日常的に存在するのでしょうか。私はこれまで、子ども同士の喧嘩の現場は何度か見たことがありますが、子どもが大人に一方的に危害を加えられている現場は見たことがありません。限られた自分の見聞だけをもとに判断すべきではないのかもしれませんが、少なくともそういった異常な事件が、子どもの報告ほどには、日常的に多発しているのではないことは間違いないと思います。

振り返ってみれば、私の子どものころの日常は、けっこう恐怖にあふれていました。「あそこにはキチガイがいて追っかけてくる」みたいな噂は子どもの間でも流布していましたし、何となく大人に睨まれているような気がして駆けて帰ったこともあります。そのうちのどれだけが本当に危険につながっていたのかは、いまとなっては検証のしようもありません。

大人であれば、その検証ができると思うのです。今度そういう話を聞いたら、できるならばその危険が本当に危険であるのかどうかを調べてみたいと思います。安直にパトロールを強化するようなことだけが本当の安全をつくるのではないと思うからです。まして、無意味な「いかのおすし」を強化するべきではないとも思います。

PTA活動とは無関係に、そんなことを感じた金曜日でした。

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2009年12月07日

PTA愛育部にて - その3

先週のことになりましたが、PTA愛育部の月例活動日がありました。私は「安全マップ」や「子ども110番の家」に関する作業を行なうグループに属しているので、その関係のことを1時間ほどお手伝いしました。あいにくと子どもが学級閉鎖で留守番している関係で、途中で抜けねばならず、他の方に迷惑をかけてしまったのですけれど。

この愛育部、「いかのおすし」に非常に近いところで活動しているわけですが、「子ども110番の家」に関しては、私はどちらかといえば好感をもっています。ということでこれに「協力してください」という文書の作成をお手伝いするのはかまわないのですが、この文書、そして登録者の情報の取扱いを巡って、グループのメンバーの間でいろいろと意見が出ました。

その結果として明らかになったのは、「そもそも子ども110番の家って何?」ということが自分たちでさえ曖昧なままに、勧誘文書をつくろうとしているという事実でした。この事業に関しては、秘密でも何でもなく、ホームページ等で内容が公開されています。そのリンクも、勧誘文書には記載してあります。

けれど、紙に印刷されたURLなど、誰が1文字1文字打ち込んで見に行こうと思うでしょうか。はっきりいって、これは無意味です。実際、委員の誰一人としてこれを見てはいませんでした。登録者の取扱いを巡って、「じゃあ子ども110番の家って、そもそもは?」と疑問が出てはじめて、誰もそれを正確に知らないことが判明したのです。

自分でもわかっていないことを、何となくわかったつもりになって人に勧めるのはおかしなことです。ときには危険なことでもあるでしょう。しかし、PTA活動をはじめ、多くの活動がそのようにして進められているのではないでしょうか。

私が問題視する「いかのおすし」にしても、これはあてはまるように思えてなりません。「いかのおすし」の標語自体はわかりやすいもので、誰でも見ればわかります。けれど、なぜそれを広めようとする人々がいるのか、それがどのような背景をもとに広められようとしているのか、それが実際に何をもたらすのかを、誰も理解しようとしない、理解する必要を感じていないのではないでしょうか。

では、自分がわかりもしないことをなぜ人に平気で勧められるのでしょう。それは、勧めることのないようにではなく、勧誘活動そのものに意義が見出されているからに違いありません。私の場合、まず、PTAのクラス役員というものが義務として必ず回ってきて、活動日に顔を出さないとペナルティがあるという状況があります。そういう状況で委員になり、活動日に出席すると、自動的に、「あなたの仕事は子ども110番の家の勧誘です」ということになります。そういう仕組みで自分の仕事が与えられた場合、その仕事の意義は、単に自分のノルマをこなすことでしかありません。事業の中身まで敢えて立ち入って理解したいとは、誰も思わないのです。

幸いなことに、今回は、議論を通じて「勧誘する以上、子ども110番の家がどういうものなのかを正確に伝えなければダメだよね」ということがはっきりしました。これは、メンバーの質が高かったのでしょう。そして、勧誘文書に加えて、事業の説明文書を配布するということで合意ができました。この文書は、警察(の外郭団体?)から入手できるもののようです。

自分が何をやっているのかを理解する必要のないシステムは、非常に危険だと感じたことでした。
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2009年12月14日

忘年会にて

先週の週末、近所の数家族が集まって忘年会を開きました。息子の保育園の同級生つながりです。保育園というのは送迎の関係で親同士が顔なじみになることが多いので、卒園後もなにかにつけ集まります。今回は、その中でもごく近所の家族が集まったという形です。

忘年会ですから無礼講で、とりとめのない話で盛り上がっていましたが、途中、「近頃はむかしとちがって危ない世の中になってきたから...」という話が出てきたので、「いや、実際はそうでもないんですよ。子どもを狙った犯罪の発生率は15年ほど前まではずっと減少してきていて、その後はほぼ横ばいらしいですよ」と、持ち出してみました。

意外なほどに反論がなかったのは、場の雰囲気だったのか、メンバーの性格だったのか、よくわかりません。「不審者情報は急増しているが、それが実際には犯罪の発生とは相関していない」という話も、すんなりと受け入れられました。「不審だと思えば不審者」という背景や、「知的障害者等の弱者が不審者として統計に含まれている」という指摘も、なるほどと納得されました。

それでもやっぱり、安全に対する懸念は消えません。そこで気がついたのですが、この席にいた親御さんは、いずれも女の子のいるご家庭の方々でした。私のところは男の子です。やはり感覚がちがうのかもしれません。

ということは、日本でも、英語圏のstranger-danger同様に、懸念の対象は性犯罪なのでしょうか。だとしたら、英語圏での分析が日本にもあてはまる部分が大きくなってくるようにも思えます。今後、注意すべきところかもしれません。

もうひとつ、やはりここで気になるのは、「子どもの安全」を言う親の真意です。以前にも書きましたが、何らかの主張の根拠となる事実が誤っていることを認めた上でなおその主張を続けようとするのは、実はその主張された論理とは別な論理が働いているからだと考えていいことになります。私を含めた親たちを「安全」へと駆り立てている論理が何なのか、改めて考えねばならないだろうと思います。
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2010年02月05日

いかのおすし指導の実際に少しだけ安心

昨日、小学校1年生の息子が学校で「安全訓練」があったというので、「どんなことを教えてもらったの?」と尋ねてみました。すると、「怪しい人に気をつけることとか」というので、「ああ、やっぱりいかのおすしだ」と、もうちょっと詳しく聞いてみました。

「怪しいひととか泥棒とかに気をつけましょうっていうこと」と、かなりいい加減なことを聞いてきています。まさか子どもに「泥棒に気をつけましょう」とは教えないでしょう。「じゃあ怪しいひとってどんなひとって教えられた?」と尋ねると、案の定、「怪しいひととかあ...」と、具体的ではありません。「いかのおすし」の困った点のひとつは、誰でも「不審者」にしてしまうことです。現実には犯罪性のある不審者はごくごくわずかで、大半の「不審者」は単純に見慣れないひと、理解できない行動をしているひと、あるいはもっと極端には「知らないひと」でしかありません。ここをしっかりおさえないと、子どもの心から人間に対する信頼が失われてしまうと私は危惧するわけです。

実際、子どもに具体的に犯罪の匂いを嗅ぎ分けるよう求めるのは無理でしょう。大人にだってたいていはわかりません。「いかのおすし」は出発点から破綻していると思います。そこで、私は息子に、「じゃあ、怪しいひとってだれ? 知らないひとはみんな怪しいひとなの?」と重ねて聞きました。すると息子は、「ちがうちがう、誰でも疑ったらあかんねん」と言いました。そのように学校で教えられたと。

では、どういうときに気をつければいいのかと聞いてみたら「しつこく聞いてくるときは気をつける。それから、どんなときでもこのくらい離れる」といって両手をいっぱいに伸ばしました。

これは正しいと思います。最初に疑いありきではなく、普通に対応して、それが尋常でなければ用心するというのは、何も「いかのおすし」を持ち出さなくても常識的な行動です。そして、他人に対してある程度の物理的な距離を置くというのは、安全のためでもあるし、礼儀の上でもそうあるべきことでしょう。

このブログでは「いかのおすし」教育の弊害をしつこく繰り返してきましたが、実際に息子が報告したように過剰な危機意識を子どもに植え付けるのでない「安全教育」なら、まあそれほど害はないのかなと、少し安心した次第です。もっとも、だからといって「いかのおすし」の奇妙さがなくなるわけではないのですけれど。

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2010年02月18日

やっぱりおかしい「いかのおすし」

この数ヶ月、「いかのおすし」問題について考えることはあまりありませんでした。寒くなってあまり出歩かなくなったことが関係しているのかもしれません。「いかのおすし」的世界に触れることがなければ、これが問題だという気持ちにもなりません。

もともと私が問題意識をもったのは、昨年9月の新学期、小学校1年生の息子が学校で「いかのおすし」を教えられたことがきっかけでした。これにどうにも納得できなかった私は「いかのおすし」について調べ始めたわけです。そして、身の回りに無数にある「いかのおすし」的発想に気づき、批判を繰り広げました。

しかし、直接「いかのおすし」が身に降りかかってきたのはこのときぐらいです。以後、自分から「いかのおすし」について調べたり、そんな話題を持ち出すようなことはあっても、「いかのおすし」の方からやってくることは特にありませんでした。

そういうこともあって、「まあこの問題はもういいか」という気持ちにもなっていました。さらに3学期の初めに息子の学校であった「安全教室」の内容がそれほどひどいものでもなかったので、「常識的にいってそこまでひどいことはしないんだなあ」と納得したりもしていました。

けれど、先日久しぶりに「いかのおすし」で検索をかけて、状況は相変わらずなのに気づきました。当たり前といえば当たり前です。何が変わったわけでもないのです。単純に、私のモチベーションが下がっていただけで、「いかのおすし」を巡る悲惨な状況は変わりません。

私が悲しいと思うのは、どうして「子どもの安全」という大義名分の前で、誰もが思考停止をしてしまうのかということです。何度でも繰り返しますが、「子どもの安全」は何よりも大切です。しかし、「いかのおすし」は、警察的観点からの安全に対する回答ではあり得ても、一般解ではあり得ません。人間に対する信頼なくして、どうして人間が安全でいられるでしょう。そんな単純なことも、「子どもが危険だから」というお題目の前で考えられなくなっている状況が悲しいのです。

やはり、「いかのおすし」批判は続けなければいけないと思います。ただ、非論理的な行動を理解するには、深層まで掘り下げた批判が必要になります。前途多難にため息をつくこの頃です。

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2010年03月28日

子どもを混乱させる「いかのおすし」

ここのところブログの更新が止まっていた理由のひとつに、ツイッターを始めてしまったということがあります。よくわからない世界でウロウロしていて時間がなくなってしまったわけです。

そのツイッターの世界でも、ときに「いかのおすし」がつぶやかれることがあります。大半は、ブログの世界と同じような肯定的なものです。「子どもを狙った犯罪が増加している」という過った認識のもとに「こうやって身を守らなければいけない」と思い込んだ記述です。けれど、たまには、こういうものもあります。

spoonist 近年子供達の教育に疑問あり。 「いかのおすし」を変に捉えてるのか同じマンションでも大人に挨拶しない子が多い。 大人からは子供達に挨拶してるのに。 これでは守って(気をつけて)あげようにも守れないかも。 米国では、他人の子供を守ることで他人からは自分の子供を守ってもらえるというが。 4 days ago


この「つぶやき」を読んで感じたのは、「子どもも大変だなあ」ということです。子どもは、「元気にあいさつしましょう」と指導されます。実際、挨拶はコミュニケーションのスタートであり、それが伝統的な方法であるとか作法がどうのこうのということに関わらず、人と人の接点をつくりだす基本的技術として重要なものです。そして、その一方で子どもは「いかのおすし」を指導されます。これは、「大人を見たらまず疑いましょう」と教えるものです。疑いの心からは、コミュニケーションは生まれません。

つまり、子どもはまったく矛盾する指導を常に大人から受けているのです。そんな矛盾を抱え込まざるを得ない子どもの日常は実に大変です。

それが人生というものと断じることもできるかもしれません。確かに、多くの矛盾を折り合わせて生きていくことは、将来は必要になるでしょう。けれど、この矛盾の一方が仮想された根拠のないものであるならどうでしょう。実際には「いかのおすし」なんて意味はないのに、それを教えられているのだとしたらどうでしょう。

以前にも何度も繰り返してきたように「いかのおすし」の根拠には具体的な裏付けがなにもありません。「いかのおすし」は、確かに警察の犯罪捜査の経験からは誤りのない事実であるかもしれませんが、それを子どもらの日常に導入すべき理由は何一つないのです。そして、むしろ有害であり、子どもを混乱させます。

間もなく新学期です。新学期には、多くの学校で、「いかのおすし」が教えられることになるでしょう。このような状況を変えたいと、私は願って止みません。
posted by 松本 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月07日

防犯ブザー持って遊びにいきますか?

息子の学校でも新学期が始まり、息子も小学2年生になりました。明日は入学式があるので、いよいよ下級生の面倒をみる立場になります。この1年、ずいぶん成長したと思う一方で、まだまだ頼りなく、本当に大丈夫かなと心配になります。

そんな新学期準備のために春休み前に配られたプリントを改めて見直していたら、やっぱり「いかのおすし」的な注意事項が列記してありました。まあ、「知らない人に声をかけられてもついていかないようにしましょう」程度のそれほど害のあるものでもないので、特に目くじらをたてることもないように思います。それよりも、笑ってしまったのは、「あぶない目にあったら防犯ブザーを鳴らしましょう」というもの。近所に遊びにいく子どもに、防犯ブザーを持たせるのでしょうか。

こういう書類を作る教育現場のセンスがどうなっているのかと、疑いたくなります。こんな事なかれ主義が、「いかのおすし」的教育に反映されているのではないかと思います。いったいあなたは、防犯ブザーを持って遊びにいきますか? それはまるで、片時も銃器を離さないアメリカ人のように滑稽な図ではないのでしょうか。

安全のためには、もっといい知恵があると思います。
posted by 松本 at 15:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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