2009年12月16日

「強制」でなければいいのだろうか?

「いかのおすし」が主張する事実そのものには、確かに正しい知見もあります。たとえば、子どもが加害者に対して「たたかう」姿勢をとるのは危険です。「逃げる」「助けを求める」のがもっとも有効な防衛方法になるでしょう。「いかのおすし」には、そういう知恵を伝える部分もあります。

しかし、「いかのおすし」は、問題です。その問題点はこのブログで再三にわたり述べてきました。これが子どもの成長に与える悪影響は、何度強調しても足りないと私は思います。

これに対して、「別に強制されているわけじゃないからかまわないではないか」という議論もあり得ると思います。どんな教育内容にも、正しい部分と誤った部分があります。重要なのはその文脈です。文脈を無視して強制されることで誤った部分の弊害が大きくなるわけですから、そういった強制がないのであればとりたてて目くじら立てることでもないだろうという話はよくわかります。けれど、「いかのおすし」に関しては、これはあてはまらないと私は思うのです。


まず、「いかのおすし」教育は、現に強制されています。すべての教育現場でそうだとは思わないし、また思いたくはないのですが、実に多くの幼稚園や学校で、「いかのおすし」は唯一無二の「正しいこと」として教えられています。たとえば、警察や警察の外郭団体が出張してきて「いかのおすし」を題材にした寸劇を見せるとき、これを拒否することは児童にも保護者にもできません。たとえば、私の息子の通う学校では、新学期の冒頭に、全校生徒に「いかのおすし」を斉唱させました。やはりこれは、私の観点から言えば「強制」です。強制される「いかのおすし」はまっぴらです。

しかし、強制されなければそれでいいのでしょうか。強制されるから「いかのおすし」は問題なのでしょうか。そうではないと私は思います。「いかのおすし」教育は、それ自体が問題です。

第一に、これは、「子どもを狙った犯罪が増加している」という過った事実認識にもとづいて展開されています。第二に、そういった過った事実認識を、根拠もなく多くの人の心に植え付けます。第三に、そういった過った事実認識、そして「不審者」という非常に恣意的な概念により、子どもの社会に関わる姿勢を歪めます。そして、子どもの正常な社会能力の発展を阻害します。第四に「いかのおすし」が無批判に行われているという事実そのものが、教育業界の異常な実態のあらわれです。さらに語り出せばきりがないほど、「いかのおすし」には多くの問題があります。

こういった問題を抱えたものを、「強制されていないならOK」と言えるわけはないと私は思うのです。

私は何も、「いかのおすし」を主張することそのものが犯罪だと言っているわけではありません。たとえば警察がこういった標語を考え出し、それを広めようと思うことは、別段何の問題もないでしょう。警察という仕事を遂行する上で、ひょっとしたらそれが役に立つのかもしれません。もちろんその場合でも、「過った認識に基づいている」という批判の対象にはなり得るとは思います。けれど、人間の多くの行動はそういうものです。あまり堅いことを言うべきではありません。

もちろん仮に、警察が「いかのおすし」を徹底させるために強権を発動するというようなことがあれば、これはアウトです。けれど、いかな警察でもそういうことはしません。そういう文脈では、「強制されていないからかまわないじゃないか」と言うこともできます。

しかし、ほとんど犯罪的だと私が思うのは、教育の専門家としての自らの職務を放棄したような学校の「いかのおすし」に対する姿勢です。正常な感覚なら、これが低年齢の児童に対しては何の役にも立たないこと、むしろ有害なことぐらいの判断はできるでしょう有害だという判断まではしなくても、何らかの批判的な検討を行うことぐらいは、現場への導入前に当然すべきことでしょう。ところが学校は、行政の下請けとして、要請された「いかのおすし」を無批判に、ほとんど右から左へと、児童に伝達しています。これは完全にアウトです。こういう姿勢で教育現場で教えられる「いかのおすし」は百害あって一利なしであり、「強制でないからかまわない」などという議論が入る余地のないものだと私には思えるのです。

しかし、実のところ、もっと怖ろしいことがあります。

それは、ほとんど私以外の誰一人、「いかのおすし」が問題だと思わないことです。疑いさえしないことです。「強制されている」と感じるどころか、むしろ空気のように当たり前の存在だと思っていることです。

これはまるで、「信号を守りましょう」とか「歯を磨きましょう」とかというのと同じ次元で教えられています。根本的に違います。だれも違いを意識しないのはどうしてなのでしょう。

「信号を守りましょう」というのは、それが明文化されたルールだからです。ルールを守ることで、子どもは身を守ることができます。これは、ルールに対する潜在的な批判までを含めて、ほぼ間違いのない知識として子どもに伝えることができます。

「歯を磨きましょう」は、人が定めたルールではありません。しかし、多くの科学的な議論と実地の数多くの検証のもとで、有効性が確認されてきた知恵です。歯を磨く習慣をつけることは、子どもの身を守ります。もちろん、他の方法や、併用してさらに効果のある方法(甘いものを食べないなど)があることは確かです。しかし、そこまで含めて、やはり間違いのない知識として子どもに伝えるべきものです。

これに対して、「いかのおすし」は、定められたルールではありません。さらに、何らかの検証を経て有効性が確認されたものでもありません。警察の犯罪捜査の実地の経験から、その一部の有効性は確かにある程度認められるでしょう。しかし、それは百万分の一以下の確率で発生する非常に特殊なケースにおける有効性であり、日常生活に一般化できるかどうかの検証は、議論にさえのぼりません。さらに、そういった犯罪の現場での知恵を低年齢児童の教育に導入することの影響に関しては、誰一人考えた形跡がありません。

つまり、「いかのおすし」は、交通ルールや基本的生活習慣とはまったく異なったレベルの、かなり「迷信」に近いものです。であるのに、それがまったく同一レベルのものとして扱われていることが、私には怖ろしいのです。

ここまでの無知は、無知として処理すべきものではないでしょう。むしろ、これは主体的に疑うことを放棄していると考える方が合理的です。

では、主体的に疑うことを放棄して、大人社会は何を目指しているのでしょう。ここのところがどうやら「いかのおすし」問題の中核のように思えてくるこの頃です。

posted by 松本 at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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