2009年11月17日

大人の世界と子どもの世界

「いかのおすし」キャンペーンと類似の活動として英語圏で行われている「Stranger danger」に関する研究論文をいくつか読んでいました。ちょっと読みこなしに時間がかかったので更新の間が開いてしまいましたが、日本で「いかのおすし」に関する学術的な発言がほとんどないのに比べ、英語圏ではそこそこの分量の研究がstranger-dangerに関して見られます。今回は、イギリスはグラスゴー・カレドニアン大学の研究者であるSue Scott教授の研究をとりあげましょう。まずは、十年以上前(1998年)の論文である「Swings and roundabouts: risk anxiety and the everyday worlds of children.」です。初出はイギリス社会学会の「社会学」のようですが、ネット上で公開されていて誰でも読めるようになっています。

論文のタイトルは「ブランコとメリーゴーラウンド」というもので、これは英語の諺に由来するものだそうです。つまり、遊園地では、ブランコに人気が集まるとメリーゴーラウンドは閑散とするし、メリーゴーラウンドが流行ればブランコはさびれるという具合に、全てがうまくいくことはない。けれど、ブランコがダメなときはメリーゴーラウンドでそこそこ稼げるし、メリーゴーラウンドがダメでもブランコから売上が確保できるというように、どっちもだめということはない。つながりあっている2つの事柄のどちらもうまくいくこともなければ、共倒れということもないというような意味だそうです。

わかりにくいタイトルですが、どうもスコット教授はこういう論文らしくないタイトルを好むようです。この論文では、ブランコが安全で、メリーゴーラウンドが子どもの自立ということになりそうです。安全を強調し過ぎると子どもの自立が損なわれ、子どもの自立を重視し過ぎると子どもの安全性に問題があるという議論がイギリスでは古くからあるようです。おそらくそれを「両立が難しい」という諺で表現したのでしょう。

しかし、奇妙なことに、この論文の要旨は安全と自立の両立ではありません。結論はおそらく、性教育が欠如している安全教育は片手落ちだということになるのでしょう。この議論そのものがわかりにくいのですが、これはこれで説得力があります。

簡単にまとめると、まず、欧米では「stranger-danger」の安全教育が大きく性犯罪被害防止にシフトしているという前提があります。つまり、「知らない人」による児童・幼児に対する犯罪が微小であり、その多くが思春期前後以上に対するものであることは、既に十年以上前から欧米では常識になっているわけです。したがって、安全教育を施す側の意識としては、「stranger-danger」は性犯罪被害防止でしかあり得ないわけです。ところが、stranger-danger教育は、日本の「いかのおすし」同様に、幼稚園児、小学校児童の年齢層を対象に行われています。この年代の子どもには十分な性知識がないため、性犯罪の具体的な被害をイメージできず、結果としてstranger-danger教育は空回りしている、というのがだいたいの流れとなっています。

ですから、結論そのものは、ある意味、地味で、興味に乏しいものです。この結論から導かれる議論は、「だったら安全教育と組み合わせてきちんと性教育をすべきだ」とか「安全教育の対象年齢を引き上げるべきだ」といった実務的なものにしかならないでしょう。

この論文が興味深いのは、実はそういった議論の方向性ではありません。子どもの安全と自立を天秤にかける観点でさえありません。そうではなく、研究の切り口なのです。

スコット教授の方法は、子どもの世界観と大人の世界観をはっきりと別物としてとらえるところから始まります。それぞれの「リスク風景」が異なっていることを明らかにし、そこが問題の出発点であることをはっきりさせていくわけです。

大人にとって、主な危険は性犯罪です。暴行や強姦、人身売買が恐怖の対象であり、それにつながるものとして連れ去りや声かけが問題になるわけです。ところが、低年齢の子どもの世界から見た危険は、まったく異なります。連れ去りは身代金目的の誘拐や殺人に直結しています。犯罪者のイメージも、まったく異なりますし、そこからもたらされる危険地域や時間帯のイメージもちがっています。

このような差異は、スコット教授が参加した別の研究である"Children 5-16: Growing into the Twenty-First Century"プロジェクト報告に具体的に現れています。

そして、このような「リスク風景」の違いよりもさらに興味深いのは、スコット教授が、子どもを「社会的存在」として認識していることです。子どもは、生得的に子どもなのではなく、社会構造の中で子どもとして位置づけられることで子どもとなるのだという考え方です。したがって、「一般的に子どもはこうである」という考えと、「自分の子どもはこうだ」という認識が違っているのは不思議ではないというようなことも書かれています。社会構造の中で、大人は子どもを管理すべきもの、保護すべきものとして扱いますが、これは生得的にそうだというわけではないという主張です。実際、これは「子ども時代」というものの歴史を振り返ればその通りだと言わざるを得ないでしょう。「子どもを子どもそのものとしてとらえるのではなく、未来の大人としてとらえる」仕組みです。

また、大人にとって、「子どもの危険」は2通りの意味をもつという指摘も、非常に説得力があります。つまり、子どもは外部からの危険に晒される存在であると同時に、危険な行動をとる存在でもあるわけです。特に、ティーンエイジャーは、危害を加える側としても大人にとって不安の対象になります。低年齢の子どもの「リスク風景」にも、街にたむろするティーンエイジャーは巨大な危険として存在します(stranger-danger犯罪の主な被害者がティーンエイジャーであるという事実、そしてstranger-danger教育の主な対象が低年齢児童であることを考え合わせると、これは非常に不思議な状況を作りだしています)。

そして、子どもを管理しようとする大人の方針は、子どもを大人に依存させることによって成立します。「子どもを育てる」ことが、「子どもの自立を制限する」ことと一体化しているわけです。そして、「子どもは無邪気なもの」という概念が子どもに押し付けられることになります。「無邪気な子ども時代を守る」ことが安全教育の目標となるため、もっとも無邪気とされる低年齢児童に対してstranger-dangerが行われるというちぐはぐなことが起こりうるわけです。つまり、安全教育は、実際のリスクに対してではなく、大人の「リスク風景」にもとづいて行われることになります。このリスク風景そのものが、大きく矛盾しているわけです。

興味深いところをとびとびに引っ張り出すととりとめないことになりますが、スコット教授の視点は、「いかのおすし」を考えるときに非常に重要なものだと思います。特に教授は、「リスク」と「リスク不安」を厳密に区別すべき概念と考えています。「いかのおすし」のような安全教育は実際のリスクに基づいて行われるのではなく、リスク不安を出発点としています。そのリスク不安は、誰のもの、何のためのものかを考えていけば、この論文の結論以上に興味深い考察が生まれるのではないかと感じました。

posted by 松本 at 11:57| Comment(0) | TrackBack(1) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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