一方、「安全神話が崩壊した」という言葉の意味は、「この社会には安全なものなどひとつも存在しないのだ。だから、危険から身を守るためには万全の備えをしなければならない」という文脈で使われることが多いようです。そして、この「安全神話の崩壊」そのものが、既に「神話」と化しているように私には思えます。
たとえば「いかのおすし」です。子どもの日常に関して、「安全神話は崩壊した」、だから防犯教育が必要だというのが、「いかのおすし」の大前提になっています。しかし、子どもの身の安全に、もともと「安全神話」など存在したでしょうか。無条件に子どもが安全であるとするような考え方は、おそらく数百年以前から日本に存在したためしはないでしょう。そして、事実として、子どもが被害者になる犯罪は戦後数十年かけて激減し、ここ十数年ほどはほぼ横ばいになっています。「安全神話」もなければ、その「崩壊」を示す事実もありません。
「安全神話の崩壊」は、確かに科学技術の社会的な応用といった分野では事実なのかもしれません。技術者はだいたいにおいて、「絶対に安全だ」などとは考えないものですが、それが社会に実用技術として提供されるときに「安全神話」が生まれます。原子力発電所などは、まさに「安全神話」の上に成り立っているわけで、その「神話」を取っ払ったら、メリット、デメリットに関してまったく別な議論が生まれていたに違いありません。そして、そういった神話を信じる人はどんどん減少しているわけですから、これを「安全神話の崩壊」と表現するのもかまわないでしょう。
しかし、それを社会一般に当てはめるのはどうかと思うわけです。ことに、犯罪に関しては、もともと「安全神話」は存在しません。「日本が諸外国に比べて犯罪の発生率が低い」というのは神話でなく事実ですし、この事実は長期にわたって変化していません。さらに、その事実が社会的に認知されていた時代にあってさえ、防犯の重要性は常に説かれていたわけです。
では、何が変化したのかといえば、人々の意識です。「日本は犯罪社会になった」という思い込みが、何の根拠もなく拡大したのです。つまり、「安全社会の崩壊」という神話が生まれたわけです。
そして、日常生活に「予防原則」が採用されるようになりました。これに関して、こちらに重要な指摘があります。
予防原則は、日常生活で導入されるには適しておらず、大変お金のかかるものであるこれは、Aaron Widavskyという社会学者の発言の引用らしいのですが、「わずかの危険も許さない」という態勢は、原子力発電所のような巨大技術には適用できても、日常生活では無理があると私も思います。特に、成長期にある子どもに適用すべきものではないと思います。
こういった過剰な防犯指導に関しては、こちらのブログに批判的な記述があります。そこから情報をたどると、こちらで川端裕人氏が毎日新聞に記事を書かれていたことがわかります。かなり興味深い記事なのですが、残念ながらリンク先は既に削除されていました。著作権その他に問題がなければどこかにアップしていただけると嬉しいのですが、昨今の情勢ではそうもいかないのでしょうか。
「安全神話」も「安全神話の崩壊」も、何らかの意図にもとづいて(誰か意図する黒幕がいるという意味ではなく、社会的意図という意味です)事実にもとづかずに流布したものです。それが過剰な防犯意識を生み出しているあたりに、何か「いかのおすし」問題を読み解く鍵があるのかもしれません。
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