2009年10月31日

過度の防犯意識は敵意に満ちた大人の世界をつくる

私は、「いかのおすし」的教育は子どもにとって有害だと思います。そして、有害な教育は、生き辛い社会を形作っていくことになると思います。それは、巡り巡って子どもらの安全性をかえって損なうでしょう。

そういった私の考えを裏打ちするようなエッセイを、イギリスの大学で教鞭をとっておられるHelene Guldberg博士がブログに書いておられました。博士の許可を得て、以下に翻訳文を掲載します。原文は、こちらになります。

「Stranger-danger」のパニックが敵意に満ちた大人の世界をつくる


Helene Guldberg
(2009年7月17日)

 子ども相手の仕事と爆発物を扱うのと、どっちが厳格な安全性を求められるのでしょう。イギリスを代表する児童文学家が何人か、学校での朗読に参加するのを拒否するという声名を今週になって出しました。性的暴行者でないことを証明するために犯罪歴のチェックを求める新たな方針が採用されたからです。
 2007年の「明るい未来を築くために」という文書中で、イギリス政府は次のように論じています。「若年者及び弱者の安全を守る上での政府の主要目的のひとつは、不適切な人々がこれら弱者に業務を通じてアクセスするのを防止するのを支援することです」。さらに後の方では、「2006年弱者集団安全保護法を通じて、子どものそばで業務を行うことを志望する個人の身元調査のためにもっとも堅固な方式を創設する法制度を確立しました」と豪語しています。
 人気作家のフィリップ・プルマンは、大規模な身元調査は「子どもの世界観を歪め、『基本的には信頼ではなく疑いを』と子どもが考えるように仕向けるものだ」と正論を吐いています。彼の言葉によれば、私たちは子どもらに「この世界は誰もがお前を殺し、暴行しようとしている暗黒で汚らわしい場所なのだ……。人間の他者に対する初期設定は親切ではなく獲物を狙う心なのだと」と教えているのです。
 子どもの心に知らない人すべてに対する恐怖を植え込むのは非生産的です。これが両親と子どもに伝えるメッセージは、子どもの近くで働くことを志望するあらゆる大人を疑えということです。あらゆる成人に対する無差別な身元調査に反対するマニフェスト・クラブのキャンペーンを主催するジョシー・アプルトンは、次のように論を張ります。「子どもを守るためという名目で行われる成人の身元調査は、濫用されています。現在身元調査の対象になっているのは、たとえば子どもに読み書きを教える16歳の若者、学校でボランティアをする父母、里親の友人などです。学童クラブの運営は、爆発物取扱い以上の厳格な安全審査の対象になってしまっています」。
 いまでは、イギリスでは自分の子どもや孫、甥や姪の写真を撮ることさえ、公共の場所では不可能に近くなっています──近くに他の子どもがいるとしたら。私の甥っ子のいちばん年上であるマーカスが4歳の誕生パーティーをブリストルのプールで開いた1996年には、プールで遊び回る子どもたちの写真をいくらでも撮れたものです。十年後、その弟のステファンにスイミングのレッスンを見学にきて写真を撮ってよと頼まれたときには、とんでもない大変なことになりました。プールサイドに座って友人とのおしゃべりに気をとられながら、私は無意識にバッグからカメラを取り出しました。おしゃべりを続けながら、ふと私は背後で騒動がもちあがっているのに気がつきました。警笛が吹かれ、監視員が手を振って誰かに叫んでいます。私と友人は顔を見合わせ、騒ぎに注意を向けました。いったいぜんたい何が起こったのと。そしてようやく、監視員がカメラをしまうように叫んでいるのだと気がつきました。まるで私が凶器でもバッグから取り出したみたいに。ステファンはこの日、生まれて初めてプールの端から端まで泳ぎきったというのに、その記念すべき写真は1枚も撮ることができなかったのです。
 こういった規制の哀しむべき帰結は、「stranger-danger」や写真の問題、身元調査の意味などを子どもがどこかでどうにかして悟ってしまうということです。そして、そこから導かれるメッセージはただひとつです。無条件で大人を信頼できるとは思うなよというメッセージ。
 現代の恐怖文化──特に「子どもが犠牲者になる」というパニック──のもうひとつの副作用は、大人が自信をなくしてしまうことです。困っている子どもを助けようと一歩踏み出す勇気をなくしてしまうのです。IDタグを販売しているIdentikidsという会社による500人の男性を対象とした調査の結果、75%の男性が困っている子どもを見かけても人目を気にして助けようとはしないということがわかりました。児童虐待に対する意識があまりに強いため、迷子その他の危険な状況にあるように見える子どもに公共の場所で手を貸すことがためらわれるようになっているのです。23%は、子どもを完全に無視すると答えています。その他の男性は、女性もしくはその場の関係者を探すといいます。この疑念は、他の大人に対しても向けられます。67%の男性は、困っている子どもにあえて近づく男性の意図を疑いの目で見るといいます。
 これは、イギリスだけの現象ではありません。カナダ人セラピストのMichael Ungarが「Too Safe for Their own Good」で書いているのを引用しましょう。「私は公共の場所で自分の子どもではない子どもに手を貸すとき、いつも不安になります。この子の親がどう思うかと、いつも気になるのです。けっして危害を加えないとわかるように気をつかっても、見知らぬ男が子どもに近づくのを見てどう思うだろうかと。この地域の子どもらが子どもだけで歩いていても声をかけようと思わないと他の親御さんが言うのも聞いたことがあります」。
 実際、いまではこういった疑いの雰囲気が子どものそばで働く大人たちをつつみこんでいるのです。そして、教員、学童クラブの職員、その他の人々は、怪我をした子ども、困っている子どもに手を貸すことに慎重です。マサチューセッツ・メトロポリタン大学のチームとヘザー・パイパー博士によって実施された重要な研究では、教員、保育所職員までが、担任の子どもたちに触れるの気後れするようになってきていることが明らかにされています。パイパー博士は、数多くの憂慮すべき事件を報告していますが、たとえば、男性体育教師が怪我をした少女をホールに放置した件があります。彼は、女性の同僚教師が到着するのをただ待っていたのです。また、膝をすりむいた子どもに軟膏を塗るのを拒否した教師の件もあげられています。
 この研究によれば、子どもに触れるのを不安に思うことが主流になっているのです。であるなら、なぜ研究者が「まともで有能な子どもの世話をする専門家」と形容するこれらの人々が、子どもが必要とする受けて当然のケアを与えようとしないのでしょうか。パイパーの考えでは、これらスタッフは、不信感を自分の内部に抱え込んでしまっているのです。とどのつまりは、疑わしい行動の兆候がないかを相互に監視し合うようにさえなります。パイパーは、これを「完璧なパノプティコン」と形容しています。「パノプティコン」とは、「全展望監視型」の刑務所のことで、哲学者ジェレミ・ベンサムが考え出した概念です。これは監視官が全受刑者を受刑者が監視されているかどうかさえわからないままに監視することができるような仕組みのものです。ベンサムの言によれば、パノプティコンは「類例のない多数において心に打ち克つ心の力を得る新たな様式である」わけです。
 私が「 Reclaiming Childhood」で論じたように、大人は大人らしく振る舞うべきであり、子どもがより広い世界でやっていくための自信を築き上げていくべきです。つまり、子どもが大人へとたどっていく道程を導くことであり、子どもが知らない人と関わる機会を与え、子どもに目標となる何かを与え、大人の世界は怖れるものでも侮るものでもないのだと教えることなのです。
 人間というものにもっとポジティブなイメージを与え、画一化された疑念や国がお墨付きを与えた煽動に挑むことができれば、子どもの人生を解き放ち、人生を楽しませ、生きることを通じて学ばせることができるようになるのかもしれないのです。

先に紹介したSarah Kulkofsky博士の論文とは別な方面から、「stranger-danger」に警鐘を鳴らすものです。この記事に関する私のコメントは、また回を改めることにしましょう。
posted by 松本 at 07:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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