2009年10月16日

リスクは確率論

リスクを論ずるとき、それは確率論だということを忘れてはなりません。この考え方は感情的には納得しにくいものです。けれど、やっぱりリスクは発生確率を抜きにして論じることができません。

リスク論でもうひとつ重要なのは、リスクの想定被害です。こちらの方が忘れられることはありません。しかし、発生確率に関しては、ときにはうっかりと、ときには恣意的に無視されることが多いのです。

たとえば、人工衛星が頭の上に落ちてくるというリスクを回避するために外出を控える人はいません。このようなリスクが存在しないわけではないのです。実際、過去に人的被害は出ていないものの、オーストラリアの牧場で牛が人工衛星の破片の直撃を受けて死亡しています。この瞬間にも、戸外にいるあなたの頭上に人工衛星の破片や隕石のかけらが直撃しないとは限らないし、その場合、大怪我や即死につながることも十分考えられます。しかし、その発生確率は天文学的に低いものです。だから、だれもがこのリスクを無視して生活するわけです。

一方、最近流行のインフルエンザに対するリスクには、人は敏感です。マスクは飛ぶように売れますし、うがい、手洗いの励行が叫ばれます。死亡例がないことはないとはいえ多くの症状は発熱や吐き気で命に関わるものではないにもかかわらず、このようにリスクに対する対策がとられるのは、発生確率が非常に高いからです。

ですから、あらゆるリスクの対策は、想定被害と発生確率を乗じた期待値にもとづいて必要性が判断されます。その上で、対策の実行においてもうひとつ重要な要素は、対策手段の実施可能性や実施に要するコストです。

たとえば、地球と小惑星の衝突は、まさに天文学的に低い確率でしか起こりません。数億年に1回の確率は、無視できるほど小さいものです。しかし、その被害は人類滅亡を含む巨大な破滅です。想定被害と発生確率を乗じた場合、対策をとるには十分な期待値になるかもしれません。しかし、一部の研究や研究的な試験を除けば、具体的な対策は実施されていません。それは、対策の実施可能性が現段階では極めて低いからです。どれだけリスクが大きくても、それを避ける有効な手段がなければ対策を行うのは無意味です。逆に、リスクが小さくてもわずかの投資でそれを避けることができるなら、リスク対策は広く実施されることになります。たとえば、予備の電球を常備しておくことは多くの家庭で広く行われていますが、電球が切れることによるリスク被害はたいしたものではありません。それでも、予備の電球の購入が特別な追加投資や余分の手間を必要としないものであるため、「同じことなら安全側」という配慮から予備の電球が購入されるわけです。

リスクを論じる場合、これら3つの要素の分析が欠かせません。ところが、実際には、想定被害だけが一人歩きし、あとの2つを恐怖感で抑えつけてしまうことが少なくないのです。これは、単に理性を欠いた言動である場合もありますし、通常では説得力をもたないリスク対策を購入させようという商売上の動機から欺瞞的に行われる場合もあります。自分自身の仕事の枠を広げようという誤った仕事熱心が原因の場合もあるでしょうし、特定の社会構造を実現したいという政治的な動機によるものもあるでしょう。

実際、「核戦争になればすべておしまいですよ。核シェルターへの投資なんて安いものです」といわれれば、「そうかな?」と思うのが人情です。けれど、このような欺瞞に乗ってしまうことは、より多くの人々の安全を確保する「核のない世界」の実現を遅らせるだけでしょう。リスクを論じるときには、常に理性が必要とされるのです。


「いかのおすし」も、その例外ではありません。子どもを狙う「連れ去り犯罪」の想定被害は実に大きいものです。ときには子どもの命にかかわり、そこまでいかない場合でもPTSDによる長期的影響など、無視できない被害が発生します。この事実は、決して無視してはならないものです。

しかし、この想定被害だけを前提に「だから"いかのおすし"だ!」というのは、あまりにも短絡的です。このような被害がどの程度の確率で発生するのか、そして、その有効な対策のコストはどうなっているのかを検証しなければなりません。

まず、発生確率は子ども一人当たり年間に百万分の1以下です。犯罪統計から余裕もって見積もってもこの程度なのです。日常的に発生する交通事故被害とはスケールが完全に違っています。

そして、対策の実施可能性は非常に低いものです。一言でいってしまえば、百万分の1以下の確率で発生する犯罪に統一的な対策などあり得ないからです。数多く起こる犯罪であれば、「傾向と対策」のようなものを導き出すことは出きるでしょう。しかし、年間数件しか発生しない犯罪に対して、その傾向を分析したところで、それは多様な想定し得る手口のごく一部があらわれたに過ぎません。いくらでも「新手の手口」は発生するでしょう。そして、それを予防的に想定して次から次へと防衛策を講じることは、ほとんど滑稽でしかありません。

このように、仮に「いかのおすし」が想定被害から見れば正当な対策であるとしても、発生確率と実施可能性の2つの要素を組み合わせれば決してそうではないことがわかります。

そして、「いかのおすし」はそもそも対策として誤っている可能性が高く、また、その弊害も無視できないほど大きいものです。

リスク論の立場からいっても、「いかのおすし」は廃絶すべきといえるのではないでしょうか。

posted by 松本 at 10:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。