2009年09月26日

強者と弱者をつくらないために

前回の記事を書きながら、「ああ、これにはツッコミどころがいっぱいだな」と思っていました。いろいろな立場から、いろいろと批判できる記事だったと思います。そして、私自身の立場からも、ひとつ、大きく欠落している部分がありました。今回はそこを書こうと思います。

前回の論旨は、荒っぽくまとめると、「実際には犯罪者は "いかのおすし" が必要になるほどには多くはいない。犯罪者ではない "不審者" は、"いかのおすし" 的感性からつくられるものである」というようなものでした。事実関係について批判を受ける可能性も、もちろんあります。しかし、仮にこれが事実だとしても、その上でやっぱり、大きな問題はあるのです。

それは、「不審者なんていない」という考え方が、強者の論理だということです。仮に、世に言う「不審者」の大部分が実際には悪意がなかったり犯罪性が希薄な「非常識」程度の行為だと仮定しても、それを「あの程度じゃ不審者とは言わない」と笑えるのは強者だけです。被害を受けやすい弱者にとっては、どのような犯罪の兆候でも笑って見過ごせるものではありません。だからこその「不審者」であるわけです。

強者には、弱者の視点はわかりません。ですから、弱者が「怖い」と素直に訴えても、「そんなことはあるものか」と門前払いを食わせます。かつての警察はそうでした。不安感に少しでも漠然としたことがあると、とりあってくれなかったものです。

しかし、犯罪の兆候を敏感に感じた人の訴えを退けた後に実際に犯罪が起こる事例がくり返された反省なのでしょうか、最近は警察も、ややあやふやな訴えをとりあげてくれるようになりました。以前の強者の論理を改めて、弱者に歩み寄るようになってきたわけです。このことは高く評価すべきでしょう。

しかし、その結果、「不審者」の情報は増加していきます。気がつけば、まわりには不審者だらけで、世の中が非常に危険になってしまっているような錯覚に陥ってしまいます。

そして、その「不審者」の中には、不審者情報を届ける人々とは別な意味での弱者が含まれています。家を失って公園ぐらいしか行き場のない人や、昼間からぶらぶらせざるを得ない失業者、十分なケアを受けられない障害者などが、ひとくくりに「不審者」として報告されている可能性があります。こういった社会の周縁部にはじきとばされた人々をさらに疎外していこうとするのは、やはり強者の論理ということになります。

つまり、「不審者なんかいない」というのも強者の論理ですが、「不審者がいるから用心しよう」というのも強者の論理です。弱者の視点が欠けています。どちらをとっても、どこかで弱い人が苦しむ可能性が高いのです。

ここを改めなければ、「いかのおすし」問題は解決しません。

なぜ、弱者の視点を取り入れた「不審者情報」が、強者の論理になってしまうのでしょう。検討すべき課題とは思いますが、私の思いつきでは、これは共感が足りないからではないかという気がします。

警察は、絶対的に強者です。これは社会制度上、強者であるようにつくられているわけです。警察が弱ければ、犯罪は取り締まれません。弱い警察など不要です(理想としては警察が不要な世の中になればいいわけですが、そこまで話を拡張するのは控えましょう)。ですから、常に弱者に対する共感を意識しないと、その行動はどうしても強者の論理にもとづいたものになってしまいます。

弱者の「怖いから助けてください」という訴えに対して、強者の論理では「それではその不審者に対する警戒を強化しよう」となるでしょう。しかし、それが本当に弱者に対する共感にもとづいた行動なのでしょうか。弱者の不安を取り除くには、「怖い」対象を「不審者」として一括りに警戒対象にするのではなく、実際に恐怖を与えた人物が誰であったのか、その行動がどういうものであったのかをしっかりと実地に検証し、恐怖をひとつひとつ解消していく対応が必要なのではないでしょうか。

まさかとは思いますが、警察は「不審者の届け出」を「成績」のように扱っていないでしょうか。不審者情報を、自分たちの業務の根拠づけとして利用していないでしょうか。

「不審者」の実体が判明すれば、それは「不審者」ではなくなります。「不審者」が「不審者」として放置され、ただ単に「情報」や「統計」として流布してしまうのは、ある意味、警察がその正体を確認する能力を欠いていることをあらわしているに過ぎないのではないでしょうか。

とはいえ、警察ばかりを責めるべきではありません。「不審者」を届ける人にも、「不審者」扱いをされた人にも、相手の気持ちを思いやる共感する力があれば、「不審者」は大きく減るのではないかと思います。その上で、共感する力は、弱者よりも強者により大きく求められます。そういう意味で、警察には、ことに弱者に対する配慮をさらに求めたいと思うわけです。

そして、何よりも、数多くの弱者である子どもらをあずかる学校には、弱者に対する共感を強く求めたいわけです。いったい、「いかのおすし」を子どもに唱えさせることが、本当に弱者のためになるのでしょうか。それは、強者と弱者をどんどん再生産していく思想を植え付けることにはならないでしょうか。

強者と弱者は、常にこの世に存在します。しかし、人間には共感する力があります。この共感する力によって、強者と弱者をできるだけつくりださないよう努力することはできるはずです。そして、そのために教育の果たす力は小さくありません。

その教育は、「いかのおすし」的教育ではあり得ないと、私は思います。
posted by 松本 at 15:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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