2009年09月25日

「不審者」をつくり出す「いかのおすし」

「いかのおすし」は防犯のために考えられた標語です。防犯は警察の仕事であり、犯罪の多寡にかかわらず、犯罪がこの世からなくならない限りは続けられるべき活動でしょう。ただし、「近年多発する犯罪に」とか、「少年犯罪の増加傾向」のような宣伝文句には、実証性がないかもしれません。

私自身がデータをもっているわけではないので真偽の議論に立ち入るつもりはないのですが、たとえば、こんな本があります。

犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (浜井 浩一/芹沢 一也  光文社新書)

私はまだ読んでいないのですが、この本には、「治安悪化言説こそが「神話」なのである。……事実と相反する「神話」がなぜ「常識」と化したのか? 統計と思想の両面から迫る」というようなことが書かれているそうです。公式統計のグラフにかかわらず、その内容を精査すると、実際には犯罪は増えていないのではないかということのようです。

「いかのおすし」を肯定する人々の大半は、そもそも異議があることなど考えられないようです。子どもの安全は無条件で重要であり、そのために「いかのおすし」があるのなら、やはり無条件でそれを普及すべきだろうと、強いて尋ねればそんなふうに考えておられるでしょう。しかし、なかには、「確かに嫌な言葉だよね。でも、むかしと違って怖い事件がいっぱい起こっているから、しかたないよ。時代が悪いんだから」と、「いかのおすし」のマイナス面を認めながらも、「危険な時代だからしかたない」と肯定される方もいらっしゃるようです。

しかし、「治安悪化言説」が「神話」に過ぎず、実際には凶悪犯罪は増えておらず、子どもの身の危険も「むかし」と大差ないのだとしたらどうでしょう。「しかたない」の根拠は崩れるのではないでしょうか。

けれど、「しかたない」とおっしゃるお母さんは、きっと、「むかしに比べてそれほど危険じゃないのかもしれない。でもやっぱり……」と反論するでしょう。やっぱり少しでも危険があるのならそれは防ぎたい。やっぱり、「知らない人」に用心するに越したことはないと。

ここに、「いかのおすし」の根深さがあります。それは、存在しない危険に対する過剰な防御姿勢です。いえ、「存在しない」と言ってしまってはウソになります。実際に犯罪は発生するのです。それに対する防御の姿勢も絶対に必要です。存在しないのは、「想定されているほど過大な危険の可能性」です。あたかも日常的に近所の公園に犯罪者が現れるかのような想定であり、そんな想定にもとづいた「人を見たら泥棒と思え」式の防御姿勢です。これはどう見ても過剰です。

こんなことを言うと、「いえ、そんなことはない。だって、先週もこの町内で不審者が現れたっていう警報メールがあったのよ。声をかけられた女の子が逃げたからよかったらしいけど」というような反論があるでしょう。実際、「不審者」を見たという通報はあとをたちません。「不審者」が発見されると、たちまち防犯メールが送信され、保育園や学校、町内掲示板に「不審者情報」が掲示されます。回覧板にも「見かけない人に気をつけましょう」という呼びかけとともに、これらの情報がまとめて告知されるでしょう。こういった情報に気をつけていれば、「過大な危険の可能性」などという指摘は世迷い言に聞こえるはずです。

私は、これこそが「いかのおすし」問題だと思うのです。なぜなら、「不審者」は、「犯罪者」ではありません。「声をかけられた」「連れ去られそうになった」「下半身を露出された」などという被害報告は、「被害者」の一方的な主張です。確かにその中には犯罪につながりかねないものもあったかもしれませんが、多くは意志の疎通を欠いた誤解であったり、犯罪性の希薄な異常行動だったりするのではないでしょうか。

そういった「確かに怪しいけれど危険ではない」人々を「犯罪者」と同一視される「不審者」にしてしまうことで、「神話」は現実となります。そして、それに対処するために「いかのおすし」的教育が強化されます。

上記の「犯罪不安社会」の著者は、「神話」生成の原因をマスコミの過剰報道に求めているそうです。しかし、何でもかんでも「マスコミが悪い」というのは、何でもかんでも「不審者」のせいにする心性と大差ないように思います。そういったマスコミの言説を生み出しているのは、私たちひとりひとりの心の過剰防衛反応かもしれません。

そして、そういった過剰防衛反応を生み出すのが、「いかのおすし」的教育だと私は思うのです。

私たちは、小さいころから「知らない人に気をつけましょう」と繰り返し教え込まれてきました。私は個人的な性癖からこれに対して「それっておかしいよね」と思ってきたのですが、ほとんどの人はそれを疑問に思うことなく育ってきたのではないでしょうか。そういう「常識」を教え込まれた人は、「知らない人」が、ほんの少し常軌を逸した行動をしているのを見ただけで「不審者」と感じるでしょう。そんな「常識」にもとづいて生きていれば、確かに世の中は「不審者」だらけです。そんな「不審者」から子どもを守るには、どうあっても「いかのおすし」がなければなりません。

「いかのおすし」的教育は、このようにして再生産されます。そして、それはどんどんと「不審者」を増やしていき、この世の中をどんどんと生きにくいものにしていきます。

「安全崩壊」が本当に「神話」であるのかどうか、私には検証する能力はありません。しかし、少なくとも、それが「神話」ではないかと疑うことは許されていいのではないかと思います。「神話」だと疑えば、「いかのおすし」が奇妙に見えてきます。

だから私は、「いかのおすし」に疑問を投げかけていきたいと思うのです。

posted by 松本 at 13:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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