2009年09月09日

「いかのおすし」の水掛け論

「いかのおすし」的教育が子どもの健全な発達にとって有害だという私の主張には、「私がそう思う」という以上の根拠はありません。もちろん、演繹的な理由づけはあります。詳細は別記事に譲るとして、簡単にまとめると、次のようなものです。
社会生活において最も必要とされる能力の一つは、コミュニケーション技術である。コミュニケーションの技術の中心にあるのは、「異質な他者とどのようにかかわるか」という方法論である。これを発達させるには、同質の仲間同士ではなく、異質な人々と実際にかかわっていく経験が必要である。未知のものに対してそれを拒否し、逃げることのみを推奨するような「いかのおすし」的発想では、この能力の発達は著しく阻害される。

ただし、この議論に証拠はありません。

証拠を出せといわれたら、検証するための調査をしなければいけないでしょう。「いかのおすし」的教育を施した集団と施さなかった集団について、5年後のコミュニケーション能力を実測して、統計的に処理する必要があります。そんな「証拠」は、不可能です。

しかし、一方で、「いかのおすし」が効果をあげているかどうかの検証も不可能でしょう。たとえば、小学生にアンケートをとって「いかのおすし」の意味を尋ねるような調査ならできるかもしれません。それでしかるべき割合の子どもが「ついていかない、車に乗らない、大声を出す、すぐ逃げる、知らせる」と答えたら、「効果があった」と主張することもできるかもしれません。けれど、「いかのおすし」の最終目標が「連れ去り犯罪の防止」であるのなら、いくら子どもに「いかのおすし」を暗記させても、それだけでは意味はありません。

そして、これが本当に効果を上げたかどうかを判定するには、犯罪の発生率が似たような2つの地域を選んで一方に「いかのおすし」を施し、施さなかった方とその後の連れ去り犯の発生率を比較しなければなりません。そんな検証をするのは、「いかのおすし」の有害性を立証する以上に困難です。

ですから、「いかのおすし」的教育の是非は、水掛け論になります。2つの思想の主観的な主張になります。

しかし、だからこそ、私は声を上げたいのです。「それはおかしいと思う人々がいるのだよ、少なくとも私はおかしいと思っているのだよ」と伝えない限り、根拠のない一つの思想だけが世の中を支配してしまうと思うからです。

思想には、根拠はないものだと思います。それだけに、さまざまな思想が譲り合って世の中を回していくことが重要ではないのでしょうか。私は、根拠もなく、そう信じています。
posted by 松本 at 12:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。