2009年12月03日

「いかのおすし」の「永遠の嘘」

以前のエントリでSue Scott教授の「Swings and roundabouts」をとりあげたときから、どうにも気になって仕方ないことがあります。それは、この記事中にScottish Daily Mail紙からの引用として、
子どもをもつ親の心配と統計的確率の間のこの明白なギャップを、無知や愚かさを示すものだと考えるのはいかがなものか。
と書かれていたことです。

Scott教授は、この指摘に関して、
信頼できる研究がない以上、親たちがリスクを「現実的に」推し量れていないと考えることはできない。仮に親たちが危険を真剣にとらえていない場合には、他人から愛情が足りないとか無責任だとか見られる危険を冒すことになる。親たちは、「知らない人」に自分の子どもが性的暴行を受けたり殺されるような事態が統計的にごくわずかの確率でしかないことを知っているかもしれない。これは、宝くじを買う人々の動機を裏返したものだと思えばいい。宝くじに当たる確率は、非常に小さいかもしれない。けれど、「ひょっとしたら」と思うから、宝くじは売れる。被害にあう確率は非常に小さいかもしれない。でも、「ひょっとしたら」。
と、説明しています。

つまり、親たちは、被害にあう確率が低いことを知らないほど無知ではないかもしれないけれど、周囲の目を気にして心配をするようになるし、さらに、どんなに確率が低くても絶対に被害にあいたくないから心配をするのだというわけです。

それはそうなのかもしれません。けれど、私はこのあたりを読んでいるとき、あるブログ記事を思い出さずにおれませんでした。それは、常野雄次郎さんという方の「「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 前編」という記事です。記事そのもののテーマとはほとんど無関係なのですが、その一節、
だから嘘を批判するには、ただ嘘が嘘であることを暴露するだけでは不十分である。嘘が嘘であることは、騙す者も騙される者も先刻承知なのかもしれないからだ。そのような場合は、真実を暴露する者はただ「空気の読めない痛い奴」として処理されるだろう。(中略)「永遠の嘘」の批判は、真実を暴露することではない。嘘に気づかないふりをする「お約束」が分析されなければならない。それは、「騙される」者、「無知」な者をも、「被害者」としてではなく「嘘」に参加する共犯者として捉えるということだ。
という部分が、頭の中にこだまするのです。

親たちの心配は、統計的事実の前には、まったく根拠のない杞憂でしかありません。そのことは、このブログで繰り返し述べてきました。当初私は、その事実を指摘すれば、誰も「いかのおすし」など唱えなくなるだろうと思いました。

けれど、実際にはそうではないようです。Scottish Daily Mail紙が指摘するとおり、親たちは決して無知でも愚かでもないのです。子どもが被害者になる事件の恐ろしい報道がまず現実に自分の身にはふりかからない極端な事例でしかないことを、親たちはよく知っています。そんな天文学的な確率の不幸に対して防備を整えるのが馬鹿げていることもよく知っています。知らないわけでも、愚鈍なわけでもありません。

そうではなく、そうやってありもしない脅威を信じることが、親にとって、何か都合のいい事情があるに違いないのです。そういう脅威があることを前提に、何かが成り立っていて、親自身がそこに寄りかかっているのではないかという疑念が浮かぶのです。

私自身が一人の親です。ですから、「親たちが...」と言うのであれば、まずは自分自身の心の中を探るべきです。

しかし、これほど難しい問題はありません。ここで躊躇してしまいます。世の中に、自分の心の闇ほど怖ろしいものはないからです。

「いかのおすし」の「永遠の嘘」、それはいったい何なのでしょう。これが喉に引っかかった魚の小骨のように、ここ数週間の私の気持ちを落ち着かないものにしています。
posted by 松本 at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月07日

PTA愛育部にて - その3

先週のことになりましたが、PTA愛育部の月例活動日がありました。私は「安全マップ」や「子ども110番の家」に関する作業を行なうグループに属しているので、その関係のことを1時間ほどお手伝いしました。あいにくと子どもが学級閉鎖で留守番している関係で、途中で抜けねばならず、他の方に迷惑をかけてしまったのですけれど。

この愛育部、「いかのおすし」に非常に近いところで活動しているわけですが、「子ども110番の家」に関しては、私はどちらかといえば好感をもっています。ということでこれに「協力してください」という文書の作成をお手伝いするのはかまわないのですが、この文書、そして登録者の情報の取扱いを巡って、グループのメンバーの間でいろいろと意見が出ました。

その結果として明らかになったのは、「そもそも子ども110番の家って何?」ということが自分たちでさえ曖昧なままに、勧誘文書をつくろうとしているという事実でした。この事業に関しては、秘密でも何でもなく、ホームページ等で内容が公開されています。そのリンクも、勧誘文書には記載してあります。

けれど、紙に印刷されたURLなど、誰が1文字1文字打ち込んで見に行こうと思うでしょうか。はっきりいって、これは無意味です。実際、委員の誰一人としてこれを見てはいませんでした。登録者の取扱いを巡って、「じゃあ子ども110番の家って、そもそもは?」と疑問が出てはじめて、誰もそれを正確に知らないことが判明したのです。

自分でもわかっていないことを、何となくわかったつもりになって人に勧めるのはおかしなことです。ときには危険なことでもあるでしょう。しかし、PTA活動をはじめ、多くの活動がそのようにして進められているのではないでしょうか。

私が問題視する「いかのおすし」にしても、これはあてはまるように思えてなりません。「いかのおすし」の標語自体はわかりやすいもので、誰でも見ればわかります。けれど、なぜそれを広めようとする人々がいるのか、それがどのような背景をもとに広められようとしているのか、それが実際に何をもたらすのかを、誰も理解しようとしない、理解する必要を感じていないのではないでしょうか。

では、自分がわかりもしないことをなぜ人に平気で勧められるのでしょう。それは、勧めることのないようにではなく、勧誘活動そのものに意義が見出されているからに違いありません。私の場合、まず、PTAのクラス役員というものが義務として必ず回ってきて、活動日に顔を出さないとペナルティがあるという状況があります。そういう状況で委員になり、活動日に出席すると、自動的に、「あなたの仕事は子ども110番の家の勧誘です」ということになります。そういう仕組みで自分の仕事が与えられた場合、その仕事の意義は、単に自分のノルマをこなすことでしかありません。事業の中身まで敢えて立ち入って理解したいとは、誰も思わないのです。

幸いなことに、今回は、議論を通じて「勧誘する以上、子ども110番の家がどういうものなのかを正確に伝えなければダメだよね」ということがはっきりしました。これは、メンバーの質が高かったのでしょう。そして、勧誘文書に加えて、事業の説明文書を配布するということで合意ができました。この文書は、警察(の外郭団体?)から入手できるもののようです。

自分が何をやっているのかを理解する必要のないシステムは、非常に危険だと感じたことでした。
posted by 松本 at 16:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月14日

忘年会にて

先週の週末、近所の数家族が集まって忘年会を開きました。息子の保育園の同級生つながりです。保育園というのは送迎の関係で親同士が顔なじみになることが多いので、卒園後もなにかにつけ集まります。今回は、その中でもごく近所の家族が集まったという形です。

忘年会ですから無礼講で、とりとめのない話で盛り上がっていましたが、途中、「近頃はむかしとちがって危ない世の中になってきたから...」という話が出てきたので、「いや、実際はそうでもないんですよ。子どもを狙った犯罪の発生率は15年ほど前まではずっと減少してきていて、その後はほぼ横ばいらしいですよ」と、持ち出してみました。

意外なほどに反論がなかったのは、場の雰囲気だったのか、メンバーの性格だったのか、よくわかりません。「不審者情報は急増しているが、それが実際には犯罪の発生とは相関していない」という話も、すんなりと受け入れられました。「不審だと思えば不審者」という背景や、「知的障害者等の弱者が不審者として統計に含まれている」という指摘も、なるほどと納得されました。

それでもやっぱり、安全に対する懸念は消えません。そこで気がついたのですが、この席にいた親御さんは、いずれも女の子のいるご家庭の方々でした。私のところは男の子です。やはり感覚がちがうのかもしれません。

ということは、日本でも、英語圏のstranger-danger同様に、懸念の対象は性犯罪なのでしょうか。だとしたら、英語圏での分析が日本にもあてはまる部分が大きくなってくるようにも思えます。今後、注意すべきところかもしれません。

もうひとつ、やはりここで気になるのは、「子どもの安全」を言う親の真意です。以前にも書きましたが、何らかの主張の根拠となる事実が誤っていることを認めた上でなおその主張を続けようとするのは、実はその主張された論理とは別な論理が働いているからだと考えていいことになります。私を含めた親たちを「安全」へと駆り立てている論理が何なのか、改めて考えねばならないだろうと思います。
posted by 松本 at 11:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月16日

「強制」でなければいいのだろうか?

「いかのおすし」が主張する事実そのものには、確かに正しい知見もあります。たとえば、子どもが加害者に対して「たたかう」姿勢をとるのは危険です。「逃げる」「助けを求める」のがもっとも有効な防衛方法になるでしょう。「いかのおすし」には、そういう知恵を伝える部分もあります。

しかし、「いかのおすし」は、問題です。その問題点はこのブログで再三にわたり述べてきました。これが子どもの成長に与える悪影響は、何度強調しても足りないと私は思います。

これに対して、「別に強制されているわけじゃないからかまわないではないか」という議論もあり得ると思います。どんな教育内容にも、正しい部分と誤った部分があります。重要なのはその文脈です。文脈を無視して強制されることで誤った部分の弊害が大きくなるわけですから、そういった強制がないのであればとりたてて目くじら立てることでもないだろうという話はよくわかります。けれど、「いかのおすし」に関しては、これはあてはまらないと私は思うのです。


まず、「いかのおすし」教育は、現に強制されています。すべての教育現場でそうだとは思わないし、また思いたくはないのですが、実に多くの幼稚園や学校で、「いかのおすし」は唯一無二の「正しいこと」として教えられています。たとえば、警察や警察の外郭団体が出張してきて「いかのおすし」を題材にした寸劇を見せるとき、これを拒否することは児童にも保護者にもできません。たとえば、私の息子の通う学校では、新学期の冒頭に、全校生徒に「いかのおすし」を斉唱させました。やはりこれは、私の観点から言えば「強制」です。強制される「いかのおすし」はまっぴらです。

しかし、強制されなければそれでいいのでしょうか。強制されるから「いかのおすし」は問題なのでしょうか。そうではないと私は思います。「いかのおすし」教育は、それ自体が問題です。

第一に、これは、「子どもを狙った犯罪が増加している」という過った事実認識にもとづいて展開されています。第二に、そういった過った事実認識を、根拠もなく多くの人の心に植え付けます。第三に、そういった過った事実認識、そして「不審者」という非常に恣意的な概念により、子どもの社会に関わる姿勢を歪めます。そして、子どもの正常な社会能力の発展を阻害します。第四に「いかのおすし」が無批判に行われているという事実そのものが、教育業界の異常な実態のあらわれです。さらに語り出せばきりがないほど、「いかのおすし」には多くの問題があります。

こういった問題を抱えたものを、「強制されていないならOK」と言えるわけはないと私は思うのです。

私は何も、「いかのおすし」を主張することそのものが犯罪だと言っているわけではありません。たとえば警察がこういった標語を考え出し、それを広めようと思うことは、別段何の問題もないでしょう。警察という仕事を遂行する上で、ひょっとしたらそれが役に立つのかもしれません。もちろんその場合でも、「過った認識に基づいている」という批判の対象にはなり得るとは思います。けれど、人間の多くの行動はそういうものです。あまり堅いことを言うべきではありません。

もちろん仮に、警察が「いかのおすし」を徹底させるために強権を発動するというようなことがあれば、これはアウトです。けれど、いかな警察でもそういうことはしません。そういう文脈では、「強制されていないからかまわないじゃないか」と言うこともできます。

しかし、ほとんど犯罪的だと私が思うのは、教育の専門家としての自らの職務を放棄したような学校の「いかのおすし」に対する姿勢です。正常な感覚なら、これが低年齢の児童に対しては何の役にも立たないこと、むしろ有害なことぐらいの判断はできるでしょう有害だという判断まではしなくても、何らかの批判的な検討を行うことぐらいは、現場への導入前に当然すべきことでしょう。ところが学校は、行政の下請けとして、要請された「いかのおすし」を無批判に、ほとんど右から左へと、児童に伝達しています。これは完全にアウトです。こういう姿勢で教育現場で教えられる「いかのおすし」は百害あって一利なしであり、「強制でないからかまわない」などという議論が入る余地のないものだと私には思えるのです。

しかし、実のところ、もっと怖ろしいことがあります。

それは、ほとんど私以外の誰一人、「いかのおすし」が問題だと思わないことです。疑いさえしないことです。「強制されている」と感じるどころか、むしろ空気のように当たり前の存在だと思っていることです。

これはまるで、「信号を守りましょう」とか「歯を磨きましょう」とかというのと同じ次元で教えられています。根本的に違います。だれも違いを意識しないのはどうしてなのでしょう。

「信号を守りましょう」というのは、それが明文化されたルールだからです。ルールを守ることで、子どもは身を守ることができます。これは、ルールに対する潜在的な批判までを含めて、ほぼ間違いのない知識として子どもに伝えることができます。

「歯を磨きましょう」は、人が定めたルールではありません。しかし、多くの科学的な議論と実地の数多くの検証のもとで、有効性が確認されてきた知恵です。歯を磨く習慣をつけることは、子どもの身を守ります。もちろん、他の方法や、併用してさらに効果のある方法(甘いものを食べないなど)があることは確かです。しかし、そこまで含めて、やはり間違いのない知識として子どもに伝えるべきものです。

これに対して、「いかのおすし」は、定められたルールではありません。さらに、何らかの検証を経て有効性が確認されたものでもありません。警察の犯罪捜査の実地の経験から、その一部の有効性は確かにある程度認められるでしょう。しかし、それは百万分の一以下の確率で発生する非常に特殊なケースにおける有効性であり、日常生活に一般化できるかどうかの検証は、議論にさえのぼりません。さらに、そういった犯罪の現場での知恵を低年齢児童の教育に導入することの影響に関しては、誰一人考えた形跡がありません。

つまり、「いかのおすし」は、交通ルールや基本的生活習慣とはまったく異なったレベルの、かなり「迷信」に近いものです。であるのに、それがまったく同一レベルのものとして扱われていることが、私には怖ろしいのです。

ここまでの無知は、無知として処理すべきものではないでしょう。むしろ、これは主体的に疑うことを放棄していると考える方が合理的です。

では、主体的に疑うことを放棄して、大人社会は何を目指しているのでしょう。ここのところがどうやら「いかのおすし」問題の中核のように思えてくるこの頃です。

posted by 松本 at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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