2009年10月01日

雨中の「いかのおすし」

興味深いブログ記事を見つけました。
「鹿児島県鹿屋市で地域の安心と安全を守る活動を続けているボランティアグループ」と自己紹介のある「勇士会」という団体のブログ記事です。

http://blog.goo.ne.jp/yusikai/e/a8675ee665273f709344c8179a389dd3

集中豪雨で冠水が発生するなか、児童の下校に付き添って安全を確保したという活動記事です。地域の方々の子どもを見守る意識が高いことがうかがえます。

印象に残ったのは、

青パトが「いかのおすし」を推奨しながら学校付近を廻っていました。窓を閉めて涼しそうに…。豪雨による交通事故や災害を警戒している時に…。理解不能です。何を護りたいのでしょう?右に左に自転車で移動し、雨に濡れながら児童達を誘導している俺達を見て何も感じないのでしょうか?給料まで貰って…。


という部分です。
より緊急度の高い危険がいくらでもあるのに、「いかのおすし」はないだろうと、私も思います。

そして、一般的に子どもたちの健全な成長を確保するという大問題の前では、「いかのおすし」の重要性などとるにたらないほど優先度の低いものだと、私は思うのです。そうであるのに、「いかのおすし」がここまで喧伝されている事実に対して、私は疑問を呈したいと思っています。

おそらく、「勇士会」の方々は、そこまで「いかのおすし」が無意味なものだとは感じておられないでしょうし、まして有害なものだとは思っておられないでしょう。しかし、「雨に濡れ」ている善意の人々を、あたかも無関係のように「涼しそうに」走り去るその姿勢こそ、「いかのおすし」的教育の末路であり、「いかのおすし」的な心を再生産していくものだと、私には思えてならないのです。これを有害といわずして、何といえばいいのでしょうか。
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2009年10月02日

PTA愛育部にて

今日、月に一度の定例のPTA愛育部のミーティングがありました。「安全マップ」というのに記載する「子ども110番の家」募集に関する依頼文発送というのが、今日の活動内容でした。「子どもの安全」ということではかなり「いかのおすし」に近い活動です。けれど、実質的な子どもに対する影響という面では、かなり違ったものだと私には思われました。

確かにどちらも「不審者が子どもの安全を脅かしている」という思い込みを前提にした「不審者対策」ではあるのですが、「いかのおすし」が100%それに向けられているのに対し、「安全マップ」や「子ども110番の家」は、子どもが危険に陥る事故・事件全般を対象にしたものです。「危険を感じたらここに助けを求めましょう」というのは、「人をみたら泥棒と思え」式の教えとはだいぶ違います。「見知らぬ人であっても必要があれば助けを求めましょう」というのは、人間同士の本来あるべき信頼を根底とした考え方です。こちらの方が、同じ前提から出発してもはるかにマシではないかと、私には思えます。

実際、「困った事例」として、「子ども110番の家のステッカーをはっていると勘違いした子どもがトイレを借りにきたり、喉が乾いたから水をくれといってきたりする」という苦情があったそうです。しかし、これは苦情を言うようなものではなく、これこそが本来のあるべき姿ではないかと私には思えるのです。ステッカーを貼っていようがいまいが、気軽に他人にものを頼める地域社会こそが、本当の意味で子どもの安全と健全な発達を確保する上で重要なのだと思うのです。道を尋ねただけで不審者扱いされるような「セキュリティ意識」の高い社会には住みたくありません。

ともかくも、私の学校のPTAでは「いかのおすし」活動に積極的ではないということがわかって一安心したのですが、やはり「愛育部」というのはそれにいちばん近い活動をするところです。前回私はうっかり欠席をしてしまっていたのですが、前回の活動は「安全マップに関するアンケート」の配布でした。その集計は今後になると思いますが、過去のアンケート結果がファイルされていたので、待ち時間にそれを眺めていました。保護者の「安全」に関する意識が伺えて、興味深いものでした。

まずひとつは、アンケート回収率が非常に低いということです。過去2年分合わせて10件弱の回答があったに過ぎません。配布数の1%程度でしょうか。つまり、ほとんどの保護者は子どもの安全を、警察や学校が喧伝するほどには不安視していないということが伺えます。

そして、回答の大部分が、交通安全に関する不安でした。「この交差点は見通しが悪いので危ない」とか、「ここにガードレールを新設して欲しい」といったものです。「不審者」に関連した不安と思われるものは、「この道は下校時に人通りが少ない」とか「冬の夕方には暗い」といった指摘が合計2件か3件あっただけです(回答1件あたり複数の指摘があったので、全指摘数は20件弱になります)。その他、「遊び場として危険」に類するものが1件あったので、結局、8割ほどが交通安全で、1割強が不審者関連ということでしょう。「安全崩壊神話」といわれますが、不安感の実態としてはこの程度のようです。この実態から考えれば、「いかのおすし」が突出しているような気がするのは私だけでしょうか。

ちょっと欠席が続いた不真面目な役員の私としては、今回は直接「いかのおすし」に関する話題を持ち出すのははばかられました。もうちょっと他の役員の人と面識が十分にできたら一度意見を聞いてみようと思います。

けれど、けっこう待ち時間があったので、他のお母さんと雑談をすることができました。その中で印象に残ったのは、「うちの子が公園で木登りをしていたら、わざわざ電話をかけて注意してきた人がいた。子どもの木登りぐらいさせてやったらいいのに」というお母さんがいたことです。「うちの子は慎重過ぎて公園でしか遊ばない。子どもって、もっと冒険するものだと思うのに」と、別なお母さんは言っていました。つまり、子どもの安全は大切だけれど、あまりにそれを重視しすぎて子どもの自由を奪ってはいけないと、当たり前のバランス感覚をきちんともっておられるお母さんが多いようです。これはちょっと、ほっとする事実でした。

結局は、バランスが重要なのだと思います。一方的に「知らない人」を悪者と決めつける「いかのおすし」は、それ自体があまりにもバランスを欠いています。考案者の方々は、それに気がつかなかったのかと、不思議に思います。それよりも不思議なのは、それを推進して何とも思わない学校関係者です。このあたり、今後もうちょっと究明できたらなと思っています。
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2009年10月03日

性悪説からみた「いかのおすし」

「いかのおすし」は過剰防衛的ではないかというのが私の感覚なのですが、世の中にはむしろ「こんなものでは手ぬるい」という考えの方もいらっしゃるようです。私の考えと対極にあるのですが、大半の人が「いかのおすしって大事だよね」みたいな感覚でいるような状況の中では異色ですので、参考資料としてここにメモしておきます。

「学校でつくる危機管理のマニフェスト―善人論で子どもを地獄に落とさないために」(大泉 光一著 明治図書出版 2006/03)

紹介に「“よいこのお約束―合言葉は“いかのおすし””などの安全指導の問題点について解説した」とあるので、どのような「問題点」なのか気になります。幸いに発行元の明治図書出版のサイトで一部が立ち読みできますので、該当部分のリンクを貼っておきます。

第V章 平和ボケ学校の危機管理対策の問題点と提言(冒頭)

考え方は正反対ですが、「子どもに<いかのおすし>と丸暗記させても,突然襲われてパニック状態に陥ってしまえば,すべて頭の中から消えてしまう」といった指摘は、なるほどなのかなと思います。そのためこの本の著者は「特訓が必要である」とか「逃げるタイミングをもっと具体的に教えることが大切」と、防衛の強化を力説しています。

このように、脅威を完全に防ごうとすると、子どもら全てにスタントマン並みの特訓を施さなければならなくなります。それが、総合的な子どもの健全な成育という観点からみて妥当なのかどうか、常識的に考えればわかることでしょう。

このような対極にある考え方の論も、冷静に読めばそれなりに参考になるものだと感じた次第です。
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2009年10月04日

矛盾なのか、バランスなのか?

私自身の思いとしては「理由もなく人を疑うくらいなら騙された方がいい」という気持ちを子どもに伝えたいのですが、不必要に軽率である必要もなく、用心が必要だという考え方も否定するつもりはありません。だから全てはバランスの問題だと思うのですが、「いかのおすし」は、救いようのないほどバランスを欠いていると感じます。

ただ、それを警察が主張するのは、「ちょっとなあ」と思いながらも理解できなくはありません。解せないのは、それを学校のような警察とはまったく趣旨の違う機関が代理店のように繰り返すことです。こういう「右から左へ」式の情報伝達は、情報の意味を考えたら非常に奇妙です。

その奇妙な見本のようなページを見つけました。ある市の公式ページらしいのですが、「いかのおすし」とそれを真っ向から否定するような記事が全く同じページに記載されています。まあ、「お知らせバックナンバー」ということでソースが別々、趣旨も別々な情報がたまたま同じページに掲載されたに過ぎないのでしょうが、この矛盾は非常に変です。

http://www.city.sakurai.nara.jp/news/bnews133.html

長いページなので見つけにくいと思いますが、

「けいさつコーナー「暴力団・銃器追放奈良県民大会」開催」の部分に、

子ども見守り活動(自主防犯パトロール活動)への参加をお願いします
☆子どもに教える6つの心得「いかのおすしだ!」
 いか〜知らない人にはついていかない
 の〜車に乗るように言われてものらない
 お〜怖いと思ったらおおきなこえで「たすけて」とさけぶ
 す〜怖い思いをしたらすぐににげる
 し〜なにがあったかをすぐにしらせる
 だ〜遊びに行くときはだれとどこへ行くか家の人に言って出掛ける


と、「いかのおすし」の変形版が掲載されています。

同じページの「空(212)自然のままに」というエッセイの部分には、

大人が子どもに道を尋ねる。子どもはあわてて走り出す。老人が重い荷物を持って道を歩いている。その姿を見た若者が、「どこまで行かれるのですか。荷物をお持ちしましょうか」と声をかけると、老人が荷物をしっかり持ち直し、返事もせずに去っていく。
 なんと心寂しい時代であろうかと思う。人を見たら泥棒と思え。いやな言葉である。いやな響きの言葉である。

 本来人間の持っているやさしさを、もう一度考え直さなければならない。


と、「いかのおすし」と真っ向から対立するような感慨が記載されています。

私の心情はこのエッセイの方に近いわけですが、しかし、これが「いかのおすしだ!」と並べられていると、まるでバカにされたような気持ちになります。いったいこんな矛盾を放置して何を考えているのだろうと思ってしまいます。

これが行政の公平性なのかもしれません。あるいは特殊な考え方だけが突出しないようにというバランス感覚なのかもしれません。どうなのでしょう。私にはわかりません。

ただひとつ思うのは、もしも学校現場がこのようにさまざまな情報を右から左に流すだけの対応をしているのだとしたら、子どもはずいぶん混乱するだろうなということです。学校は、諸機関からの情報提供に対して、子どもへの影響を十分に配慮した上で対応してほしいものだと思います。
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2009年10月05日

現場の教員は「いかのおすし」をどう見ているのだろう?

「人を見たら泥棒と思え」という姿勢は恥ずかしいものです。表現が変わっていても、「いかのおすし」は子どもらに「知らない人=不審者=潜在的な犯罪者」と教えるもので、姿勢としては全く同じです。私は自分の子どもにこんなことを教えてほしくありませんし、自分自身、子どもたちにこんなことを伝えたくありません。そのこと自体が非常に恥ずかしいことだと思うのです。

そんなふうに感じるせいで、現場で子どもたちにこういうことを教える役割を担わされている先生方がどんなふうに感じているのか、知りたい気持ちになります。以前、学校の懇談会の席で「いかのおすし」を持ち出したときには、自分の気持ちを言うのが精一杯で、先生の意見までとても聞くことができませんでした。なかなか難しいものです。

できれば利害が直接関係する担任の先生にではなく、学校関係に勤めている知人にでも尋ねてみようと思います。直接に小学校の教員はいなかったと思うのですが、知り合いの知り合いぐらいの関係なら見つけられそうです。

それはそれとして、ブログを検索していたら、北海道の小学校で教員をされている方のブログに「いかのおすし」関連の書き込みを見つけました。

ひとつは「防犯教室」で「いかのおすし」的な内容の劇を演じた記事です。
http://suzukiq.blog.ocn.ne.jp/index/2007/12/post_4061.html

こちらには、「子供達は大喜びである」とか「学期末の忙しい中、1週間で30のセリフを憶えなくてはならなかったマモル君役のT羽先生の方が災難だったと思われる」といった感想が書いてありますが、「いかのおすし」に関しては、「それにしても「いかのおすし」って何度聞いても覚えられない・・・」とあるのみ。

一方、こちらは「いかのおすし」をメインで取り上げた記事です。
http://suzukiq.blog.ocn.ne.jp/index/2007/12/post.html

こちらの内容は、「もうちょっと親しみやすい標語にしてもらいたいものだ」というもの。やはり、「いかのおすし」そのものには何らの問題視もなく、ましてそれを教えることに対する抵抗もないようです。

こういう感覚が、おそらく世間標準なのでしょう。私の感覚はこれほどまでに世間とはズレているのだと、再認識させられます。

けれど、やっぱり「いかのおすし」的教育は嫌です。問題だと思います。直接に「いかのおすし」ではないけれど、やっぱり同じようなことを感じる人も、少数ではあるけれどいるようです。たとえばこんなブログを見つけると、本当にほっとします。そんな機会は滅多にないのですけれど。
みちのたまご - 人を見たら力になろうと思え

こんな記事を読むと、「いかのおすし」なんて誰も考えなくなる日まで、あきらめずに自分の考えを書きつづけなければならないと思います。それが「人の力になる」ことだと思えてならないからです。

以上、今回も、参考資料の備忘でした。
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2009年10月06日

「不審者情報」の実際

警察は、積極的に「不審者情報」を流します。それが仕事ということになっているのだから咎め立てをすべきではないのかもしれませんが、いたずらに不安を煽るような気がしないでもありません。しかし、「不審者情報」とはどんなものかをしっかり把握すれば、「不審者情報」がたびたび寄せられるからといって不安がることはないのかもしれません。

たとえば、鹿児島県警は「防災・安全・安心メール」を登録者に配信していますが、その内容は「鹿児島 犯罪情報 ライブドア支局」で見ることができます。たとえば今年の8月20日には、こんな情報が配信されています。

《鹿児島市で声かけ事案》【男の特徴】60歳位,頭に白色タオルを巻く,白色乗用車使用【日時】8/18(火)午後6時頃【場所】西伊敷3丁目の路上【内容】帰宅中の小学生男児が,白色の乗用車に乗った男から「ちょっとおいで」と声をかけられた事案。男児はすぐに近くの大人に知らせました。子どもたちには不審者への対応と併せて,不審車両のナンバーを覚えておくことも指導してください。


この文面を見れば、実に怪しげです。こんな「不審者」がウロウロしているのでは、落ち着いて暮らせないような気になります。けれど翌日21日には、こんな訂正が入っています。

《声かけ事案の解決》8/20に配信しました鹿児島市西伊敷3丁目における小学生男児への声かけ事案につきましては,車のナンバー等から,知人による善意の声かけと判明しました。御協力ありがとうございました。今後も,子どもたちには,日頃から防犯意識を持って行動すること,ナンバー等を覚えておいて大人に知らせることを指導してください。


「不審者」は、単なる知人であったわけです。

つまり、「不審者」は、「犯罪者」もしくは「犯罪の隙を伺っている悪意をもった者」とイコールではないのです。「不審者」の中にそんな人々もいくらか含まれている可能性はありますが、そうでない可能性も高いわけです。

この鹿児島県警の防犯メールでは、上記のように「結局は知人でした」というような訂正が入ることは多くありません。むしろ、「不審者」は「不審者」のまま解決されないケースがほとんどでしょう。であっても、だからといってそれらの中に知人や善意の人が相当数含まれていなかったとは考えにくいわけです。

たとえば、某巨大掲示板では、「
「コンビニを教えて」と聞いただけで犯罪になる時代がやってきました
」として、大阪府警の同様な「不審者情報」に関するスレッドが立っているようです。この「不審者」も、単に道を尋ねただけという可能性が高いわけです。

「不審者」に定義はありません。通報者が「不審者だ」と思えば、それ以外に何の根拠もなく、「不審者情報」は発生します。1週間ほど前に私は近所を車で走っていたときに、息子の友だちのお姉さん(小学校6年生)とすれ違いました。車の窓越しに手を振ったとき、視力の低い彼女は私の顔を見分けられず、不審な顔をしていました。こんなふうにして不審者情報がまたひとつ発生したかもしれません。

警察がこういった「不審者情報」を受理するのも、それに前向きに取り組むのも、それはそれでけっこうなことでしょう。また、その情報を希望者に流すのも、決してそれ自体は悪いことだとは思いません。ただ、こうやって累積する根拠のあやふやな「不審者情報」が統計となり、「これだけ多数の不審者情報が寄せられている」「不審者は年々増えている」というような解釈を引き起こすのは問題です。それは、「不審者」の実態を反映しないからです。

「不審者」は、「犯罪者」ではありません。「不審者」の増加は、「犯罪」の増加ではないのです。むしろ「不審者」の増加は、通報者の不安意識をより強く反映したものであるように思えます。コンビニへの道を聞いただけで通報されるのは異常です。そんな異常な行動を異常とも思わないほどに、人々は不安に怯えているのでしょうか。そんな不安は、どこから生まれたのでしょうか。

「いかのおすし」的教育は、その責任の一旦を担っていないでしょうか。「人を見たら泥棒と思え」という教えは、どんどんと「不審者」を増やしているのではないでしょうか。

私たちはみな、安心して住める社会を願っているのだと思います。「いかのおすし」はそんな社会の実現にプラスに作用しているのかマイナスに作用しているのか、冷静に検証してみる必要があるのではないでしょうか。
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2009年10月07日

私はひとりではないのかも?

「いかのおすし」を大部分の人は疑いももたず「子どもに覚えさせましょう」「広めましょう」と考えておられるようです。私のように、「そんなことを子どもに教えるのはやめてほしい」と感じる人は、ごく少数です。いいえ、ときには「私ひとりではないか」とさえ思えるほど、「いかのおすし」派の声ばかりが目立ちます。

そんななか、少しでも疑問を呈する意見に出会うとほっとします。

たとえば、非常に場違いなある掲示板で、「すきな言葉、嫌いな言葉」の募集をやっているところに、こんな書き込みを見つけました。

No.210 by 匿名さん 2009-02-12 21:53
嫌いな言葉⇒いかのおすし(学校内で問題をおこしている学校がいう)
知らない人間による犯罪から子供を守るために子供たちに「いかのおすし」を教えるのは大事なことだけど、いくら「いかのおすし」をとなえていても学校がいじめなどの問題をおこしていたら子供を不幸におとしいれていることには何ら変わりがない!!(もっとひどいのをいうと学校が学校内の問題を隠蔽する)


「いかのおすし」そのものの問題点を指摘していらっしゃるわけではないのですが、「嫌いな言葉」としてあげておられるのには、「やっぱり同じ感覚の人がいるのだな」と、嬉しくなります。

そして、そういった学校の教育姿勢に問題があるというのは、事実かどうか私は知りませんが、これまでの考察から「そういうこともあるかもしれないな」と納得できます。「いかのおすし」は、決して子どもに寄り添った発想から生まれる言葉ではないからです。むしろ、事なかれ主義と表面の取り繕いを重視する発想と近いものだと思います。

もうひとつ、こちらも「いかのおすし」を直接批判したものではないのですが、「もっとだいじなものがあるよ」と教えてくれる記事です。

日本短詩人協会
「いかのおすし」を子どもたちに勧めよう 投稿者:若丼 投稿日:2008年10月17日

「知らない人」よりもはるかに怖いのは、人を差別する心です。差別の行く果てが戦争です。戦争に「いかない」ために、「不審者」を排除する「いかのおすし」が役に立つのかどうか、冷静な判断を多くの人に望みたいものです。
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2009年10月08日

「いかのおすし」は何をしたいのか?

新聞紙上を亀井大臣の発言が賑わせています。「改革と称する極端な市場原理、市場主義が始まって以来、家族の崩壊、家族間の殺し合いが増えてきた。そういう風潮をつくったという意味で、(経団連に)責任がある」という発言です。

個人的には「お金」を中心に回る社会は人間を不幸にする危険性を大きく孕んでいると思っているので、一瞬、この発言に拍手をしたいと思いました。しかし、実際に「家族の殺し合いが増えてきた」のかといえば、以前にこのブログを書きながら調べたところでは決してそうではありません。日本では伝統的に家族内での殺人の比率が高いわけで、これは最近の傾向でもなさそうです。

そこで、これを裏づける統計がないかと、ちょっとネットを検索してみました。意外にもドンピシャリのものは出てこなかったので断定はできないのですが、どうやら各所の記事を見ると、数十年スパンの長期的な傾向では「家族間の殺し合い」(心中などを含む)は大幅に低下傾向にあるようです。ただし、「改革と称する極端な市場原理主義」の時代のここ十年ほどをとってみると、若干の増加はあるようです。それでも、これは大きな流れからいえば誤差程度のもの。どうやら大臣の発言は事実誤認に近いようです。

とまあ、「いかのおすし」と全く無関係な話をしたのですが、こんなことを調べていたら、以前に見つけられなかったいくつかの犯罪統計に行き当たりました。興味深かったのは、警察庁の統計をまとめたWebサイトに掲載された「平成21年上半期の犯罪情勢」というレポートです。同様なレポートは毎年度発表されているようなので全て見ればさらに有益な情報が得られるとは思いますが、私は特に犯罪に興味があるわけではないので、これひとつで「お腹一杯」という感じです。

まず、「凡例」の冒頭には、犯罪の分類が載っています。こんなことも私は知らなかったわけですが、

刑法犯を「凶悪犯」「粗暴犯」 「窃盗犯」「知能犯」「風俗犯」 「その他の刑法犯」の6種に分類したものをいう。
凶悪犯..................殺人、強盗、放火、強姦
粗暴犯..................暴行、傷害、脅迫、恐喝、凶器準備集合
窃盗犯..................窃盗
知能犯..................詐欺、横領(占有離脱物横領を除く。)、偽造、汚職、背任、「公職にある者等のあっせん行為による利得等の処罰に関する法律」に規定する罪
風俗犯..................賭博、わいせつ
その他の刑法犯......公務執行妨害、住居侵入、逮捕監禁、器物損壊、占有離脱物横領等上記に掲げるもの以外の刑法犯


という分類です。「いかのおすし」の広報には、「近年、凶悪犯が増加し...」というようなことが書いてありますが、これはつまり、「殺人、強盗、放火、強姦」の4種類の犯罪が増えているという主張なわけです。子どもが被害にあいやすい暴行、傷害、脅迫、恐喝は「粗暴犯」、痴漢などのわいせつ行為は「風俗犯」ということになるようです。

「いかのおすし」の内容からして、これが「強盗、放火」の予防を目的としたものには思えませんから、つまり「殺人、強姦」が増えていきているから「いかのおすし」が必要になったという文脈でしょう。

ところが、これは事実に反しています。こちらのサイトに詳しいグラフがあるのですが、小学生以下の殺人事件被害者数は、1970年代半ばをピークに1980年代末頃までに4分の1にも急減し、以後はほぼ横ばいが続いています。もちろん特定の年を取り出せば、たとえば2003年から2004年にかけて急増しているわけですが、全体的な傾向として「増加している」とは読めません。過去20年は、一定の振れ幅のなかに収まっているというのが実状のようです。そして数十年スパンでは急減です。

次に「強姦」ですが、やはり同じサイトにグラフがあります。小学生以下の幼女に関していえば、こちらも殺人と同じ傾向で、過去数十年スパンで見れば激減(5分の1程度)、過去20年で見ればほぼ一定の振れ幅の中に収まっています。「凶悪犯が増加し」という前提は、少なくとも小学生、幼稚園児対象の「いかのおすし」に関する限り、どうやらおかしいのです。

ただし、同じページの別のグラフの中に「強制猥褻被害者数」の推移があり、こちらによれば逆に被害は過去20年で5倍増と、全く逆の傾向になっています。ただし、これも小学生に関してはさほど大きな増加ではなく、ここ数年ではむしろ激減傾向があります。1980年代半ば以降に被害者数が増えたのは、犯罪の増加ではなく、「泣き寝入り」の減少を反映したものではないかという考察もありますが、私にはそこは判定できません。とりあえず、「凶悪犯」以外の部分では、確かに犯罪の増加傾向が(少なくとも「いかのおすし」誕生前後では)あったかもしれないというに止めておきましょう。そして、これも現在では必ずしもそうではないわけです。

さて、先の「平成21年上半期の犯罪情勢」に戻ると、もうひとつ、「いかのおすし」の内容からいって「凶悪犯」以上に重視されていると思われる「連れ去り犯」に関係する統計があります。「図表4−1−(5)−2 略取誘拐・人身売買の被害者の年齢・性別認知件数の状況」を見ると、12歳以下(つまり小学生以下)の年齢層で、上半期だけで33件の被害があったことが記載されています。年間にすればこの倍程度でしょうから、けっこう無視できない数字です。やはり「いかのおすし」は必要なのでしょうか。

しかし、次のページをめくると、「図表4−1−(5)−6 身の代金目的略取・誘拐事件の認知・検挙状況の推移」というのがあって、これは年齢層に関係なく年間2〜12件、過去5年には一定して減少していることが記載されています。よくよく見ると、「図表4−1−(5)−2」には、「人身売買」が合算されています。子どもの人身売買も怖ろしい犯罪ですが、「いかのおすし」が対象とする「連れ去り犯」とは大きく違います。「連れ去り犯」の全てが「身代金目的略取」ではないのですが、どうやら「上半期33件」の被害の中に「連れ去り犯」が占める割合はそう多くはなさそうです。

こんな数字を見てくると、「じゃあ、結局『いかのおすし』って何がしたいわけ?」と疑問を抱かざるを得ません。「凶悪犯罪が増えているから」必要なわけではありませんし、「連れ去り犯」はおそらく年間数件で、こちらも増加傾向にはありません。さらに、増えてはいないかもしれないけれど確実に存在する凶悪犯や強制猥褻犯の多くは、「知らない人」ではなく「顔見知り」や家族であるのかもしれません(たとえばこちらには教師の強姦事例が列記されています)。

「いかのおすし」は、幻の「凶悪犯」を追いかけているだけなのではないでしょうか。確かにこういった犯罪が1件でもある限り、その被害にあいたくはないというのは偽らざる親の心理です。けれど、ほとんど天文学的とも言えるほど微小な被害の確率を下げるために、「やむをえないけれど」と子どもに「人を疑え」と教えるのはあまりにバランスを欠いていると思います。

「だったらお前の子どもが誘拐されてもいいのか」というような感情的な議論の前に、冷静に、いったい「いかのおすし」は何に効くのか、その害はないのか、総合すればメリットとデメリットはどちらが大きいのかと考えてみることが必要ではないでしょうか。

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2009年10月09日

「いかのおすし」と不安社会

前回、資料を元に「いかのおすし」が必要な根拠とされる凶悪犯は実際には増えておらず(過去20年は安定、それ以前から見れば急減)、また連れ去り犯もそれほど多数は発生していないということを示しました。しかし、これは見方を変えれば、「いかのおすし」が効果を上げているからだと、「いかのおすし」が必要な根拠にもなり得る数字です。これほど不安な時代に実際に犯罪が増えていないのは、その対策が十分にとられているからだと、論じることも可能なわけです。

これは検証不能なのです。「いかのおすし」に限りません。一般に、個別の事例は検証不能なものです。たとえば、慢性疾患に苦しむ人は、「医者なんて何の役にも立たない。私の病気はちっともよくならない」と言うでしょう。けれど、担当医に言わせれば、「自分が治療をしているからこの程度で済んでいるのだ」ということになるはずです。治療をしなければもっと悪化していたのを、悪化を食い止めたのは相当な効果と評価するはずです。個別の事例の評価は、立場によってどうにでもなるものです。

学門の世界では、検証不能な個別の事例を論ずるのではなく、複数の事例を統計的に処理して、より客観的な検証を行います。医者の治療に効果があったかどうかは、治療を行わなかったグループと治療を行ったグループの結果を統計的に比較して判定されるでしょう。

けれど、そういった「客観的」とされる検証方法を、「いかのおすし」に適用するのは不可能です。比較可能な2つのグループを用意することができないからです。日本では全国津々浦々で「いかのおすし」が推進されていますから、日本国内の地域間で比較することはできません。日本と外国では犯罪事情がまったく異なるので、比較対象になりません。日本国内で「いかのおすし」がない地域を選べたとしても、ほとんど発生しない連れ去り犯の発生件数を統計的に意味のある比較対象にするのは不可能です。

結局のところ、いくら数字を根拠としてあげても、同じ根拠から、「だから『いかのおすし』なんて不要だ」という結論と、「だから『いかのおすし』が必要だ」という結論の両方が導かれてしまうのです。そして、それぞれ別の結論を導くのは、数字の根拠ではなく、議論をする人の信念であり、世界観です。こればっかりは、いくら議論しても解決するものではありません。

ですから、「いかのおすし」をやめさせたいと思うなら(私は思っています)、「『いかのおすし』なんて不要だ」という考え方に近い信念、世界観の人を議論に巻き込んでいくしかありません。そしてそういう人々はいると、私は思います。

確かに、「いかのおすし」で検索すると、世の中には「子どもに覚えさせましょう」「防犯のために大切です」といった意見ばかりです。けれど、ほんの少しキーワードを変えれば、「いかのおすし」的世界はまっぴらだと感じる人があちこちにいるように見えてきます。

たとえば、遠く北海道の恵庭市では、市議会の議員が、「安全・安心なまちづくり条例」に関して、

解釈として、記載されているのは、不審者情報の収集や防犯カメラの設置で、不必要な市民統制を強めることにつながります。
それが具体的に恵庭の犯罪や交通事故を減らすことにつながるためには、具体的な事例の検証とそれに対する対策を細かく練り上げることだと、私は思います。

という意見をブログに書いておられます。「不審者情報」に誰もが疑問を持たないわけではないと知って、心強く感じます。

地方新聞としては珍しいほどの個性を持った河北新報社の昨年の特集記事では、

日々不審者情報が飛び交い、雇用や社会保障の仕組みは揺らいでいる。不安が不安をあおるような中で、実体を見誤ってはいないか。人々の不安の深層を探る。

というリード文とともに、
多くの自治体や学校で今、不審者情報の発信に積極的に取り組むようになってきた。だが、地域の治安が実際には悪化していないのに、不審者に警戒しようと呼び掛けることは、不要な不安感まであおることにならないのか。

という問題提起をしています。「いかのおすし」的発想の負の側面を問いかけていると考えていいでしょう。ちなみにこの記事のコメント欄には、
子供を狙った犯罪は、寧ろ減っている。ならば、防犯に協力するほうが、社会悪なのではありませんか。敢えて防犯に協力せず、不審者など存在しないことを暴露するのが、正義だと思います。増えてもいない犯罪をちらつかされ、行動を萎縮させられる現代っ子が気の毒です。
学校関係者、警察関係者に対し、はっきり言いましょう。
「子供を狙った犯罪が頻発している。」
「ウソツキ!」。

という書き込みがあります。ただひとり「いかのおすし」に異議を唱える私にとって、心強い言葉です。

実際、「いかのおすし」に関しても、こちらのブログには、
♪ 道を聞かれても ごめんなさい 知りません
♪ 誰か大人に聞いてくださいと言おう
という事を子供に教えないといけない世の中になってしまったんですね、、、
ついこないだ旅先で道を聞いて、人の親切に直接触れてきた身としては、複雑な感情を抱かざるを得ません、、、、
それにこれは、子供に”ウソをついてもいい”という事を認めるだけでなく、薦めていることになります。
現代社会においては、こういった事を教えていかないと子供を守っていけない、、、という止むを得ない事情もわかりますが、なんかなぁ、、、
小さな頃から”ウソをついてもいい”と教わった子供がいったいどんな大人に育つのかという事を考えると、日本の将来をちょっと悲観してしまいます、、、

という書き込みがあります。「いかのおすし」が子どもに対して悪影響を与えると感じる人は、決して少なくないはずです。それが「やむをえない」という大きな声に押されて表面に出てこないだけではないのかと思うのです。

私は、「いかのおすし」にはメリットよりもデメリットがはるかに大きいと思います。こういうことを学校で教えるのはぜひ止めてほしいと思います。そして、学校の教員の方々も、このブログにあるように根拠もなく「不審者が来るかもしれないから帰りなさい」なんて言わないでほしいのです。正体不明の「不審者」のせいにするのではなく、もっと健全な常識として「遅くならないうちに家に帰りましょう」と言えば済む話なのです。「不審者」は、妖怪やおばけと同じレベルで子どもを脅す迷信と化していないでしょうか。そういう迷信に教育者が手を貸していいのでしょうか。

根拠のない「不審者」迷信は、こちらの記事にあるように、「社会的弱者を不審者として排除する格差社会を産んでいる」のかもしれません。大きな声で叫ばれる「いかのおすし」に流されるのではなく、きちんと事実を見つめてみたいものです。

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2009年10月10日

「いかのおすし」は子どもの安全を脅かす?

私が「いかのおすし」を子どもに教えて欲しくないと思うのは、それが子どもの健全な成長にとって有害だと思うからです。本当に有害なのかどうかは発達心理学など関連分野を調べなければならないのでちょっと手間取っていますが、常識的に考えて人を信頼することは子どもにとってかけがえのないほど重要なことです。根拠は必ずあると思っています。

そしてやっかいなのは、たとえこの部分で同調してくれる方がいたとしても、「でも、子どもの安全のためにはやむを得ないよ」と、「いかのおすし」を肯定することです。そこでここしばらくは「いや、決して子どもは危険に晒されてなどいないのだ。犯罪は増えていないし、不審者情報は参考情報に過ぎないのだ」ということを裏付ける資料を探してきました。「凶悪犯罪の増加」や「子どもが狙われている」という思い込みは「神話」あるいは「迷信」に過ぎないことがほぼ立証されていると思います。

しかし、仮に「危険」が事実だとしても「いかのおすし」は安全を高めるどころか危険を増加させるのではないかと思わせる説を発見しましたので、今日はそれを掲載します。実際、過度な不安は「神話」にもとづくものですが、子どもが狙われる犯罪が全くないのかといえば、「不審者による連れ去り」的な事件は事実、広い日本でおそらく年間数件の割合で発生しています。これが大きく報道されるので「ゴキブリが一匹出れば無数のゴキブリが隠れている」的発想から「神話」が生まれるわけですが、事実は報道されている事件がほぼ全てです。しかし、たとえ数百万分の1の確率でも、危険は危険です。その対策は必要なのかもしれません。

そして、その対策として「いかのおすし」を実施した場合、効果があるのでしょうか。次のブログのこんな記事を見る限り、答えはノーです。

不必要に疑わない習慣をつける
社会心理学の世界で、興味深い実験がある。
相手が嘘をついているかどうか見分ける課題で、
日常的に疑い深い人(=「人を見たら泥棒と思え」という人)のほうが、
人を信じやすい人(=「渡る世間に鬼はなし」という人)よりも、
なんと成績が悪かったのである。


この短い引用だけでは「興味深い実験」のことがよくわからないので、あるいは的を外しているのかもしれませんが、「疑う人ほど騙されやすい」という結論が出ているようなのです。「いかのおすし」にあてはめれば、「不審者」を警戒している子どもの方が、いざ悪意のある犯罪者に直面した場合には被害にあいやすいということになります。

これは、現実の場面を考えれば容易に理解できます。「不審者」対策をする子どもは、相手が「不審者」かどうかの判定に全力を注ぎます。犯罪者の側からいえば、この防御壁さえ突破すればいいのです。そのため犯罪者は、「お母さんが呼んでいる」とか、「事故が起こった、大変だ、早く来て」というような騙しの手口を使います。もちろん子どもには、「そういったことを言われても信じないように」と、更なる防御が教えられます。けれど、犯罪者にとって新たな手口を考え出すことはたやすいことです。結局は、いたちごっこです。

しかし、このブログの記事によると、
普段から「疑わない」習慣を持っている人は、疑うポイントを押さえているわけだから、どんなに親切にされようとも、そのポイントに来れば一瞬立ち止まることができる。

らしいのです。「人を信じる」態度を身につけた子どもは、どんな巧妙な嘘でも、それが嘘であるということだけで最終的に「おかしい」と感じて立ち止まることができるでしょう。

そう思えば、「いかのおすし」を教えることがかえって子どもの安全を損なっているのだという主張もあり得ることだと思います。

たまたま見つけたブログ記事ひとつの記述など、それこそ「信じる」べきではないのかもしれません。そこで、私としてもとりあえずは「『いかのおすし』が危険だ!」という主張まではしないでおきましょう。そうではなく、当面は、元ネタである「社会心理学の興味深い実験」をはじめこの方面の資料をもう少し探って、そういう主張が可能かどうかを検証してみる方向で進もうと思います。

ひょっとしたら、「危険神話」を肯定した上でも、「いかのおすし」はやめるべきなのかもしれません。何重にも根拠が危ういのが「いかのおすし」なのかもしれないのです。
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2009年10月11日

幼児教育の「いかのおすし」への視線

私は「いかのおすし」に小学校で初めて出会ったのですが、「いかのおすし」キャンペーンは実に広く行われていて、小学校での展開はその一部に過ぎないようです。具体的には、幼稚園、保育園で「いかのおすし」キャンペーンが行われた報告が、検索結果には数多くかかってきます。

私が暗澹とした気持ちになるのは、そういった報告のほとんどが、「いかのおすし」に何ら疑問をもたず、「自分たちは頑張っているのだ」「子どもたちはよく聞いていた」というような「いかのおすしは当然」という立場に立ったものだということです。そこには、「与えられたものをこなすのが自分の仕事だ」という、現代の誤ったプロフェッショナル意識が見えます。本来のプロフェッショナルな意識とは、専門性にもとづいた職務に忠実であることであり、組織に忠実であることではありません。教育の現場では、子どもの健全な成長に尽くすことが職務です。上長からの指令にしたがうことは、組織に忠実なことですが、これが職務に忠実であることと必ずしも合致するとは限らないのです。

「いかのおすし」を推進することが子どもにどのような影響を与えるかを専門職として検討することが本当の意味でのプロだと思うのですが、そんなことを考えている形跡は、少なくともWeb上を少し探したぐらいでは、出てきません。それでも、現場レベルというよりはもう少し上のレベルで「いかのおすし」に疑問を呈している幼稚園関係者のエッセイを見つけましたので、資料としてあげておきます。

広島県のある幼稚園で保護者に配布する「おたより」をWebで公開しているものらしく、そのエッセイにある一文です。
小学校の入学式に行ってきました。毎年のことでずが、 校長先生の大切なお話しに「いかのおすし」と呼ばれるものが あります。学校生活の第一歩でこのような話が例外なく求められていることが日本社会が負っている問題だと思います。 見ず知らずの人にはついていかない。大人は必ずしも信頼で きるものではないのだから。子ども達に大人とは無条件に信 頼できる存在。大人になることは素晴らしいことだと子ども 達に胸を張って言える社会にしたいものですね。不信感にあ ふれた人間関係は、子どもの成長に何も良いものを産みません。 幼稚園は、小さな子ども達が初めて母親や父親の保護の手 を離れて保育者という大人の保護と見ず知らずの子ども達の 集団の中に身をおかなければなりません。ここで人間への信 頼を獲得し、仲間とやりとげる面白さ、協力して歩む素晴ら しさを獲得していくのです。その為にも、登園までの毎日を しっかりと子どもと手をつないで歩んできて欲しいと思いま す。そして幼稚園に来ると、まるで忍者のようにすっと消えるように、幼稚園への信頼の思いの雰囲気を十分に伝えなが ら。保護者が子ども達に不安をあおるようにしないで下さい。 人間関係はとてもとても素晴らしいのだと。

幼稚園での「いかのおすし」ではなく、小学校入学と同時に実施される「いかのおすし」に対する幼稚園関係者としての疑問です。この記述からは、「『いかのおすし』は子どもにの成長に悪影響を与える」という強い思いが伺えます。全くその通りだと思います。「人間関係はとてもとても素晴らしい」。それこそがあらゆる教育の原点であると思います。

このような考え方から、「いかのおすし」をはねのけられている幼稚園・保育園も多いことでしょう。しかし、小学校は管轄外となって、新入学の子どもが「いかのおすし」を強制されるのを防ぐことはできません。一歩踏み出す必要がどうしてもあるのです。

「自分のところだけはそういうことを受けつけない」というのは、プロフェッショナルとして職務に忠実な行為でしょう。しかし、それだけでは最後まで職務に忠実であり通せないと思うのです。自分の管轄以外にも積極的に働きかけ、そういう悪習をやめさせるように動いてこそ、本当の専門職ではないでしょうか。大変なことだとは思いますし、なかなかできることではありません。けれど、そんな専門家の出現を願ってやみません。

教育関係ではありませんが、福祉関係で、現行の「不審者」に対する社会の視点がおかしいと考えられているところもあるようです(たとえばこちらのブログ)。あらゆる教育関係者、福祉関係者は、自分の学校や施設内のことだけでなく、広く社会に目を向けて、本当の意味での教育・福祉の実現を目指していかなければならないのではないかと思うのです。

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2009年10月12日

備忘

きちんと記事に書く時間がないので、備忘のためだけ。

以前、「いかのおすしなんか生ぬるい」という意見の掲載された本を参考資料としてあげましたが、同じように「「いかのおすし」は、いまいちです」と、より厳しい「安全教育」を主張しているサイトが合ったのでメモしておきます。

よりよい生活の為のライフコーチングとコンサルタント

こちらでは、「誘拐犯からの安全脱出セミナー」をされているとか。子どもが被害者となる「誘拐」犯罪がどの程度の頻度で発生しているのか、その「誘拐」の内容はどうなのか(たとえば親権のない離婚親が子どもを連れ出しても「誘拐」です)、などを検討すれば、この「セミナー」がいったいなにを目指しているのか、非常に奇妙に感じます。が、それ以上の突っ込みは本日はなし。おそらくこういったセミナーの存在を奇異に感じない社会の方が異常なのでしょう。

もうひとつ、何か教育関係に関する意見を書いてあるブログなのですが、記事の内容はともかく、たったひとつ、大きく賛同できる一行があったのでメモ。

「いかのおすし」なんて子供に教えたら、まともな人間に育つとは思えないです・・・

なんとなく・・・

「まともな人間」という言い方はともかく、健全な成長に「いかのおすし」が非常に有害であるということは、このブログで繰り返し述べてきていること。またも「私一人じゃなかった」という気持ちで、少しほっとしました。
posted by 松本 at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月13日

夢の中の「いかのおすし」

小学校1年生の息子は、空想力の豊かな子どもです。いろいろと空想とも現実ともつかない話をしてくれます。もっとも、最近はそのストーリーにかなりマンガの影響が強く見られるようになってきたので、ときどき興ざめします。まあ、それも成長の過程なのでしょう。

さて、今日は、一緒に歩きながら、夢の話をしてくれました。昨日の晩見た夢、一昨日の晩に見た夢と、順に話してくれるのです。「初日の出の上に乗って地球を見下ろしていた」というようなお目出度いというか気宇壮大な話があるかと思えば、「お小遣いで1370円もらった」というようなやたら現実的な話があったりとバラエティに富んでいます。が、3日前に見た夢というのがちょっと気になりました。

「ヒゲづらのおじさんに追いかけられて、なんとか防犯ブザーで防いだ。校長先生にその話をした」というもの。

ちなみに、「ヒゲづらのおじさんというのは?」と聞いてみると、「ヒゲだらけでニタニタ笑ってる人」という形容。「それって父ちゃんと同じやない」と私が笑うと、彼は真剣な顔で「いや、人相が悪いねん」と。「なぜ追いかけられたの?」と聞くと、「ランドセルをひったくられそうになった」との説明。

実際にそういう経験、それに似た経験があったとは考えにくいので、これは例によってマンガの影響なのでしょう。あるいは、学校で「知らない人に気をつけましょう。知らない人に声をかけられたら先生に言いましょう」と繰り返し教えられているせいなのかもしれません。

ちなみに、「夢の話」というのもいい加減なもので、たとえば4日前、5日前の夢をそういうふうに具体的に覚えているわけはなく、口から出まかせの空想話です。そうではあっても、「知らない人に気をつけましょう」という「いかのおすし」的教育の影響がこんなにもはっきりと出ていることに、改めて愕然としました。

「不審者」のイメージは、こんなふうにしてできていくのでしょう。それは日常的な実体験によってできるものではありません。学校で教え込まれるステレオタイプです。「こういう人は怪しい」という根拠のない予断を、学校では日々子どもに教えているわけです。

その一方で、「人を見かけで判断してはいけない」とか「偏見は差別を生む」という教育も、学校では行われるわけです。子どもが混乱するのをどうやって避けろというのでしょうか。

そんなふうに思えば、学校というところは、本音では「人を見かけで判断」する「偏見」と「差別」に満ちたところではないかという気がしてきます。それが現実世界であり、学校は現実世界の入り口なのだとすれば「そんなものさ」と言ってしまうこともできるのかもしれませんが、それはあまりにさびしいことだと、私は思います。
posted by 松本 at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月14日

メインサイトを開設しました

本ブログ「いかのおすし対策協議会」も、開設から1ヶ月あまり、情報が少し錯綜してきたので、別途メインサイトを立ち上げることにしました。こちらです。

http://sites.google.com/site/ikanosushi/

また、同時に、ご賛同いただける方の「協議会」への参加も募りたいと思います。メインサイトの方からご連絡いただければと思います。「協議会」を単なるブログの名称から、実質をもった集まりへと進化させていければと願っております。
posted by 松本 at 16:49| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月15日

子どもへの安全指導はどうあるべきか

「いかのおすし」を廃止してほしいというのが一児の親である私の願いなのですが、おそらくこれは、「児童への安全指導は必要です」という立場で一蹴されることでしょう。しかし、私は、「いかのおすし」を子どもに唱えさせることが何ら子どもの安全を高めることにもならないと思うのです。本当の意味での安全指導は、全く異なった形でなければならないと思います。そこで、今回は「対案」として、私の考える有効な「安全指導」を説明したいと思います。
なお、私は教育関係者でもなく、また学校で教育関連の学問を学んだこともありません。大学卒業すらしていません。ですから、専門家からみれば滑稽なほど誤ったところもあるかもしれません。それでも、「いかのおすし」よりもはるかに効果の高い安全指導があるはずだという点においては、誤っていないはずです。もしも私にその他の点で誤りがありましたら、ぜひ専門家の方の訂正をいただきたいと考えております。

まず最初に重要なのは、小学校レベルの教育においては、すべての教科を含めたすべての指導が密接に絡み合っているという事実です。国語で文字の読み書きを指導することは算数の文章題読解につながります。音楽や図工は運動神経の発達促進という面で体育と深く関係しています。生活科と括られた理科と社会は、初等教育レベルで深く絡みあっているからこそ、統一的に教えられるようになっているわけです。

安全指導も例外ではありません。これは、生活科や道徳教育と結びついて行われるべきものです。これらの教科と矛盾や齟齬があってはならないでしょう。

そういった出発点からはじめれば、安全教育は何よりも「大人の常識」の押しつけであってはならないことがわかります。そうではなく、子どもら自身に考えさせ、できるならば議論させて、「何が問題なのか」「その解決のために何をすればいいのか」を見出させていくのが正しい指導方法ということになります。

指導者は、問題点となっている事実を、わかりやすく、しかし正確に説明します。「子どもの安全」を課題とするのであれば、子どもがどのような事故や犯罪に巻き込まれるのか、統計にもとづいて重要な順に説明すべきでしょう。この場合、当然ながら第一にくるのは交通安全であり、次にくるのが家庭内の虐待でしょう。以下、子ども同士のトラブルや遊び場での事故などが続き、おそらく誘拐や通り魔ははるかに優先順位の低いこととして取り上げられることもないでしょう。

しかし、社会的な恐怖を全く反映しないわけにもいかないかもしれません。指導の中で、誘拐や通り魔といった犯罪の可能性を取り上げることが有益である場合もあるかもしれません。そういう場合でも、指導者は最初から大人の常識を教えてはいけません。まず、子どもたちに考えさせることです。

たとえば誘拐犯の事例を(警察の流すイメージではなく事実にもとづいたケーススタディとして)子どもたちに考えさせたとしたら、子どもたちはどんな反応を返すでしょう。昨今の闘争的なテレビ番組やゲームの影響を考えるなら、多くの子どもが「たたかう」という答えを出すのではないでしょうか。指導者が介入するタイミングはここです。そして、「いかのおすし」に何らかの真実が含まれるとしたら、この部分でしかありません。

「たたかう」という結論を自ら考え出した子どもに対してそれが実際には被害を拡大すること、そうではなく拒否する、逃げる、叫ぶ、助けを求めることが実際にはより有効なことを事実にもとづいて説明すれば、子どもは自らの誤りを再検討し、新たな考えを納得して受け入れることができます。重要なのは、子どもに考えさせることです。そうすることで新たな考え方は子どもの武器になり得ます。

この違いをはっきりと意識してください。子どもに考える余裕を与えずに「これが正しいから」とばかり「いかのおすし」を斉唱させることは、百害あって一利なしです。そのようにして刷り込まれた「いかのおすし」は、子どもの発達を阻害し、偏見を生み出し、柔軟に危機に対応する能力を削ぎ落とします。一方、子どもが自分で考えて身につけた知恵としての「拒否する、逃げる、叫ぶ、助けを求める」手段は、必要に応じて子ども自身が柔軟に使えます。一般化されて教えられた場合と異なって事例に即して考えていますから、不必要に消極的な態度や一般化された偏見を生じさせる危険性はほとんどありません。実際の危機に際して、よりその場に即した応用が期待できるでしょう。

「そこまで安全指導に時間をかけていられない」のが現場の実状なのかもしれません。時間がないときに、とりあえず「いかのおすし」を一斉に唱えさせるのは簡単で、アリバイにはなるでしょう。しかし、無意味なこと、有害なことをやって意義のあることの代用だと主張するのはおかしなことです。

もしも時間がないのなら、「有効な安全指導を行う時間がとれない」事実を報告しましょう。時間がないのは教員の責任ではありません。もしも文部科学省が安全教育を必要なものだと考えるなら、指導要領を改訂してくれるでしょう。そうでなければ、やっぱり行き過ぎた安全教育は不要なのかもしれません。

以上、私の考える「いかのおすし」に代わる「安全指導」を説明しました。本音でいえば、そういった安全指導さえ必要がないほど、日本の犯罪発生率は低いと思っています。けれど、何事であれ、子どもら自身に自分の頭で考えさせることはいいことです。題材は何であっても構いません。やってはならないのは、無批判に「これが正しい」と大人の考えを刷り込むことです。その弊害は、「いかのおすし」に止まらない一般的なものだと多くの人が認めるでしょう。だからこそ、現代の教育が昔と違った形に進化しているのだと思います。

posted by 松本 at 10:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 対案 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月16日

リスクは確率論

リスクを論ずるとき、それは確率論だということを忘れてはなりません。この考え方は感情的には納得しにくいものです。けれど、やっぱりリスクは発生確率を抜きにして論じることができません。

リスク論でもうひとつ重要なのは、リスクの想定被害です。こちらの方が忘れられることはありません。しかし、発生確率に関しては、ときにはうっかりと、ときには恣意的に無視されることが多いのです。

たとえば、人工衛星が頭の上に落ちてくるというリスクを回避するために外出を控える人はいません。このようなリスクが存在しないわけではないのです。実際、過去に人的被害は出ていないものの、オーストラリアの牧場で牛が人工衛星の破片の直撃を受けて死亡しています。この瞬間にも、戸外にいるあなたの頭上に人工衛星の破片や隕石のかけらが直撃しないとは限らないし、その場合、大怪我や即死につながることも十分考えられます。しかし、その発生確率は天文学的に低いものです。だから、だれもがこのリスクを無視して生活するわけです。

一方、最近流行のインフルエンザに対するリスクには、人は敏感です。マスクは飛ぶように売れますし、うがい、手洗いの励行が叫ばれます。死亡例がないことはないとはいえ多くの症状は発熱や吐き気で命に関わるものではないにもかかわらず、このようにリスクに対する対策がとられるのは、発生確率が非常に高いからです。

ですから、あらゆるリスクの対策は、想定被害と発生確率を乗じた期待値にもとづいて必要性が判断されます。その上で、対策の実行においてもうひとつ重要な要素は、対策手段の実施可能性や実施に要するコストです。

たとえば、地球と小惑星の衝突は、まさに天文学的に低い確率でしか起こりません。数億年に1回の確率は、無視できるほど小さいものです。しかし、その被害は人類滅亡を含む巨大な破滅です。想定被害と発生確率を乗じた場合、対策をとるには十分な期待値になるかもしれません。しかし、一部の研究や研究的な試験を除けば、具体的な対策は実施されていません。それは、対策の実施可能性が現段階では極めて低いからです。どれだけリスクが大きくても、それを避ける有効な手段がなければ対策を行うのは無意味です。逆に、リスクが小さくてもわずかの投資でそれを避けることができるなら、リスク対策は広く実施されることになります。たとえば、予備の電球を常備しておくことは多くの家庭で広く行われていますが、電球が切れることによるリスク被害はたいしたものではありません。それでも、予備の電球の購入が特別な追加投資や余分の手間を必要としないものであるため、「同じことなら安全側」という配慮から予備の電球が購入されるわけです。

リスクを論じる場合、これら3つの要素の分析が欠かせません。ところが、実際には、想定被害だけが一人歩きし、あとの2つを恐怖感で抑えつけてしまうことが少なくないのです。これは、単に理性を欠いた言動である場合もありますし、通常では説得力をもたないリスク対策を購入させようという商売上の動機から欺瞞的に行われる場合もあります。自分自身の仕事の枠を広げようという誤った仕事熱心が原因の場合もあるでしょうし、特定の社会構造を実現したいという政治的な動機によるものもあるでしょう。

実際、「核戦争になればすべておしまいですよ。核シェルターへの投資なんて安いものです」といわれれば、「そうかな?」と思うのが人情です。けれど、このような欺瞞に乗ってしまうことは、より多くの人々の安全を確保する「核のない世界」の実現を遅らせるだけでしょう。リスクを論じるときには、常に理性が必要とされるのです。


「いかのおすし」も、その例外ではありません。子どもを狙う「連れ去り犯罪」の想定被害は実に大きいものです。ときには子どもの命にかかわり、そこまでいかない場合でもPTSDによる長期的影響など、無視できない被害が発生します。この事実は、決して無視してはならないものです。

しかし、この想定被害だけを前提に「だから"いかのおすし"だ!」というのは、あまりにも短絡的です。このような被害がどの程度の確率で発生するのか、そして、その有効な対策のコストはどうなっているのかを検証しなければなりません。

まず、発生確率は子ども一人当たり年間に百万分の1以下です。犯罪統計から余裕もって見積もってもこの程度なのです。日常的に発生する交通事故被害とはスケールが完全に違っています。

そして、対策の実施可能性は非常に低いものです。一言でいってしまえば、百万分の1以下の確率で発生する犯罪に統一的な対策などあり得ないからです。数多く起こる犯罪であれば、「傾向と対策」のようなものを導き出すことは出きるでしょう。しかし、年間数件しか発生しない犯罪に対して、その傾向を分析したところで、それは多様な想定し得る手口のごく一部があらわれたに過ぎません。いくらでも「新手の手口」は発生するでしょう。そして、それを予防的に想定して次から次へと防衛策を講じることは、ほとんど滑稽でしかありません。

このように、仮に「いかのおすし」が想定被害から見れば正当な対策であるとしても、発生確率と実施可能性の2つの要素を組み合わせれば決してそうではないことがわかります。

そして、「いかのおすし」はそもそも対策として誤っている可能性が高く、また、その弊害も無視できないほど大きいものです。

リスク論の立場からいっても、「いかのおすし」は廃絶すべきといえるのではないでしょうか。

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2009年10月17日

アメリカの「いかのおすし」

「いかのおすし」は、日本だけの現象なのでしょうか?
日本は、犯罪の発生件数だけをとるならば、世界でも有数の安全な国です。一方、アメリカ合衆国は、犯罪が多発することで知られています。アメリカなら、日本どころではない「子どものための安全教育」が行われているに違いありません。

ところが、ちょっと調べたぐらいでは、これはなかなか発見できませんでした。こういったものは、実際に生活してはじめて体験するものなのでしょう。実際、私は「いかのおすし」を、子どもが小学校に入学するまで知りませんでした。知らないものは調べようもないのです。

それでもようやく発見しました。アメリカ合衆国だけでなく、イギリス、オーストラリアなど英語圏で広く用いられている標語、「stranger danger」です。

「stranger danger」は、たぶん「知らない人に気をつけて」ぐらいに訳せばいいのだろうと思いますが、もうちょっと強く危機を訴えているような感じです。Wikipediaに詳しい解説がありました。

http://en.wikipedia.org/wiki/Stranger_danger

部分的に抄訳すれば、こんな感じでしょうか。

Stranger dangerは、「知らない人」による子どもたちへの危険と考えられているものを説明したものである。このフレーズは、未知の大人によってもたらされる悪意による危険に関連するさまざまな懸念を要約したものである。このフレーズには幅広い用いられ方が見られ、多くの子どもたちが成人までに耳にするものである。子どもがこのアドバイスを覚えるのを助けるため、多くの本、映画、広報が用いられてきている。この概念は、ほとんどの子どもの誘拐や危害が知らない人によるものではなく、子どもがよく知っている人や血縁関係者によるものであるという事実を無視しているとして批判されてきている。


「stranger danger」は、まさに英語版の「いかのおすし」です。その歴史は古く、少なくとも1970年代に遡るようです。ただし、「いかのおすし」と大きく異なるのは、一方でそれを広めようとする人々がいるにもかかわらず、「stranger dangerなんて博物館行きだ!」と批判する人々も少なくないということです。日本で「いかのおすし」がおかしいという声が(このブログ以外)ほとんど聞かれないのと実に対照的です。

その批判の内容は、上記のように子どもが犠牲者になる犯罪が「知らない人」によるものより「知っている人」による方が多いということを踏まえたものの他、Wikipediaの同じ記事には次のように述べられています。
知らない人という形をとった危険の可能性を繰り返し子どもに注意するプロセスは、潜在的な危険を誇張したものであり、不信感を不必要に広めるものだとしても批判されてきている。特に、(一例をとれば)アメリカ合衆国では年間80万人の子どもが少なくとも一時的には行方不明になっているが、「古典的な知らない人による誘拐犠牲者とみられるのは」わずか115に過ぎないという事実を考えれば、この批判はなおさらである。その他の理由によって子どもが危機にあるような状況では、(援助を期待できる)知らない人を避けることは、それ自体が危険である。たとえば、「さらわれる」ことを怖れるあまり救援隊から隠れつづけた11歳のボーイスカウトの少年の事件などがそうである。


つまり、日本とは桁違いに「子どもの連れ去り犯罪」の多発しているアメリカ合衆国でさえ、「知らない人」による危険性は誇張されていると批判されているのです。そして、「不信感を不必要に広める」弊害もはっきりと指摘されています。

こういった実状の一端をWikipediaという限られた窓口から覗くだけでも、「いかのおすし」を無批判に受け入れる日本の現状がいかに異常であるかということがよくわかります。怖いのは、「いかのおすし」そのものよりも、批判が一切封じられているという事実かもしれません。すべての人がおかしいと思う必要はありません。「やっぱり"いかのおすし"は必要だよ」という人が多数でもかまわないでしょう。けれど、私以外にはほとんど誰も「"いかのおすし"はおかしい」と言わないのはおかしいではありませんか。

何かこれには、私の気づかない原因でもあるのでしょうか。まだまだ「いかのおすし」を巡る謎は解明されていないのかもしれません。

posted by 松本 at 00:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 参考資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

便利な言葉、「不審者」

「いかのおすし」を考えていると、必ず出会う言葉が「不審者」です。そして、この言葉は、非常に便利に使われていると思います。「便利に」という言い方が不正確なら、「恣意的に」と言い換えてもいいでしょう。

マスコミでは、犯罪報道の際に、呼称がころころ変わります。最初は「○○さん」だったのが「○○容疑者」に変わり、「○○被告」から、最後には呼び捨てになります。これはときに滑稽に映るのですが、根拠のないことではありません。裁判で有罪と確定しない人を犯罪者扱いすることができないからです。警察が嫌疑をかけ、検察官が捜査を許可した段階で、「容疑者」にはなりますが、「容疑者」は「犯罪者」ではありません。裁判所に訴えられた時点で「容疑者」は「被告」となりますが、これも法廷における地位を表現したに過ぎず、やはり「犯罪者」ではないわけです。

法治国家では、「あいつは怪しい」というだけで相手を犯罪者とすることはできないのです。いくら怪しくても、現に違法行為をはたらいていない人、違法行為をはたらいているという証拠がある人以外は、「犯罪者」はおろか、「容疑者」にもなれないのです。法にもとづかずに人を「犯罪者」や「容疑者」と呼ぶことは、それ自身が違法行為です。

この「容疑者」にもできない「怪しい者」を一括りにしたのが「不審者」です。ですから、「不審者」は「犯罪者」ではありません。何の法的根拠も必要なく、ただ、任意の誰かが「怪しい」と思っただけで「不審者」は発生します。

ところがこれが、「不審者情報」となり、その統計となって数値化されると、あたかも「不審者」の増加が「犯罪」の増加を示しているような錯覚を起こさせます。

私が、現在の「不審者」の使われ方が一種の私刑であると感じるのは、こういった法にもとづかない情報が一人歩きするからです。人は、危険を感じたときに他者の行動を「怪しい」と思います。「不審者が増加している」という情報は、それだけでわずかでも変わった行動を「怪しい」と思わせる動機になります。この「怪しい」感覚が更なる「不審者」を生み、「不審者情報」は自己増殖していきます。

もちろん、「怪しいな」と思ったときにそれなりの注意を払うのは大切なことでしょう。車のナンバープレートをちょっと控えておくとか車種を覚えておくというのは、万一の事態が発生したときに重要な手がかりになります。「不審者」を警察に届けるのも正当な自衛でしょう。実際、私もかつてコソ泥に侵入されたことがありますが、後に判明した犯人は典型的な「不審者」風の男でした。見かけない人が何をしているのだろうと関心をもち、ときにそれを他の人々と共有することは、犯罪の防止になることが少なくないでしょう。

しかし、「不審者」は、正体がわからないからこそ「不審者」であるわけです。見かけない人でも実は何らかの業務で周辺をうろついていることもあるでしょう。周縁化されて行き場のない人々であるのかもしれません。そういった正体がわかれば、「不審者」は「不審者」ではなくなります。「何をしでかすかわからない」から「怪しい」のであって、素性が知れればそれでいいのです。

ですから、「不審者」をなくして安全な社会をつくっていくには、「不審者情報」に敏感になって「不審者」の発見に努めることではなく、「不審者」の素性を明らかにしていく作業が必要なのです。「不審者」を見つけ出して統計化することは、どんどん不安感を増加させるだけです。そうではなく、地域で「不審者」の存在を感じたら、警察を利用するか、あるいは自分自身で、その「不審者」がいったいなにをしているのかを明らかにすればいいでしょう。そうすれば、「不審者」は消えてなくなります。

私自身、警察に職務質問されるのは嫌なものです。けれど、いわれもなく「不審者」として統計化され、「犯罪の増加」の根拠にされるのはもっと嫌なことです。だれでもそうではないでしょうか。

「不審者」は、無根拠にレッテルを貼って統計化するのではなく、その場その場で解消していくことが重要なのではないでしょうか。現状は疑いが疑いを呼ぶ無法地帯です。これではいけないと、「いかのおすし」ついでに感じた次第です。
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2009年10月18日

子どもの安全は「不安」ではなく「自信」から

英語圏の「いかのおすし」にあたる「Stranger danger」には、「いかのおすし」と違って批判があることを先に書きました。ただ、批判をすぐに商売に結びつけてしまうのがアメリカ人です。stranger dangerで検索するとすぐに出てくるのはこんな会社です。これは、「stranger dangerなんて時代遅れで役に立たないから、私のところの安全教育をどうぞ」という教材やトレーニングを販売する会社のようです。役に立たない「いかのおすし」なら廃止すればそれでいいと私などは思うのですが、「代案」を売る商売を考えつくとは、何とも商魂たくましいものです。

とまあ、ちょっとどうかと思うところもあるにはあるわけですが、このプログラムの説明には、なるほどと思わせるところもあります。たとえば3つの基礎として、次のようなことが書かれています。
1. 怪しい行動を見破る
外見や年齢、その人を知っているかどうかなどはあてになりません。肝心なのは、その人があなたに何をしろといっているのかです。
2. 本能と感情を取り戻す
自然な本能と感情を信じ、それにもとづいて行動することで身を守ります。
3. 自信をつける
自分を大切に思う気持ちがあれば、身を守ることの価値がわかり、自分を守ろうとするでしょう。

子どもは、騙されやすい存在です。しかし、騙されやすいからといってそれを守ろうとするばかりでは、子どもの能力は伸びません。騙されやすいと同時に、子どもには身を守る本能が備わっています。その本能を自信をつけることで育てようという考え方には、(それで商売をするのはともかくとして)賛意を表していいのではないでしょうか。

もちろん、商売ではなく子どもの安全を考える団体も存在します。たとえば、行方不明の子どもや虐待されている子どもの安全に特化した団体のサイトが、Wikipediaにリンクされています。この団体のサイトには、子どもの安全に関して、
何十年も、子どもたちは「知らない人」に近づかないように教えられてきました。しかし、この概念は子どもには把握しづらいものですし、犯人が子どもの知っている人であることも少なくありません。特定のタイプの人物に注意するよう子どもに教えるよりは、子どもに自信をつけさせて危険な状況への対応を教える方がずっと有益なのです。

と、書かれています。「自信」の意味は先のサイトとは違いますが、やはり、子どもには「不安」よりは「自信」をつけさせるべきだというのが、「Stranger danger」批判から生まれた新しい安全対策のようです。

さて、日本では「いかのおすし」批判から何か生まれるのでしょうか。いずれにせよ、子どもにとって自分自身を信じ、自分自身を尊重することはもっとも重要なことのひとつだと思います。
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2009年10月19日

「いかのおすし」と小杉・山岸論文

昨日、oikaさんよりコメントをいただき、以前に「いかのおすし」は子どもの安全を脅かす?という記事で引用した社会心理学実験に関して、「『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)あたりをご参照いただけるとわかりやすいかと思います。」とご教示いただきました。この本の著者である山岸俊男さんという名前を手がかりに探した結果、この実験と思われる報告が「一般的信頼と信頼性判断」(小杉素子・山岸俊男 1998 『心理学研究』 69(5), 349-357.)という論文に掲載されていることがわかりました。これは山岸教授のWebサイトからダウンロードできますので、ちょっと読んでみました。

これによると、1970年代には「信じやすい人の方が騙されやすい」という研究結果が示されていたのが、1980年代に入って必ずしもそうではないという実験結果が出てきたところ、1990年代にこの論文の研究者らの実験で、「信じやすい人の方が騙されにくい」という結果が出たということのようです。

学問としてこの論文は興味深いものですが、ただし、この結果を即座に「いかのおすし」にあてはめて「"いかのおすし"的教育はかえって子どもを危険にさらす」とまで言いきってしまうのは無理があるのかなと感じました。せいぜいが、そういう「可能性がある」程度を言うのが関の山でしょう。それでもちょっと引っ張り過ぎかなという感じです。

というのは、この実験で用いられた「信頼」の尺度は、必ずしも想定される「連れ去り犯」の行動や特徴とは重ならないからです。さらに、実験の被験者となったのは大学生であり、子どもとは違います。後天的な社会的行動を獲得した後の大学生と、先天的な本能の部分がまだまだ大きい子どもの行動ではかなりちがってくるでしょう。

さらに、この信じやすさ、疑いやすさは、むしろ相手の行動を分析する能力の差異によって後付け的にできたものではないかと推論されていることが重要です。これによれば、騙されやすさの方が先にあるわけですから、教育によって疑うことを植え付けることが必ずしもマイナスにはならないということになります。

ということで、詳細を知ることで「いかのおすし」批判の根拠の可能性を一つ失ったわけですが、しかし、こういった方面の社会心理学の研究が、何か手がかりになるような感覚は残りました。ひとつの取っ掛かりが見つかったので、この方向で、もう少しこの方面でいろいろな研究をあさってみようかと思っています。

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