2009年09月05日

「いかのおすし」って?!

小学校1年の息子が、夏休みが終わった始業式の日、帰ってきての会話。
「今日は勉強はなかったでしょ」
「勉強あった」
「何を勉強したの?」
「いかのおすし」
「?」

すぐに息子は解説してくれました。だいたい、こんな感じのことです。



私は一瞬怯みました。危機感を覚えました。
私と同じように、「こんなことを子どもに教えるなんて!」と感じる方には説明は不要でしょう。けれど、哀しいことに「そうだ、こういう危機管理が子どもにも必要だ」と感じる人の方が多くなっているようです。私が身震いするのは、むしろそっちの方かもしれません。

確かに、子どもの身の安全を守ることは重要です。私もひとりの子の親です。自分の子どもが危険な目に合う可能性を考えただけで背筋が凍ります。

けれどまた、子どもが正常な感覚をもった人間に育ってくれることも、ひとりの人間として望まずにいられません。そして、「いかのおすし」は、子どもの安全を守るメリットよりも、子どもの正常な発達を阻害するデメリットの方がはるかに大きいように感じるのです。

ひとことでいえば、それは「危ないものには近寄らない」態度をよしとするものです。確かに危険に近づかないのは安全の基本です。しかし、そればかり強調しすぎると、いざ本当に危険が襲ってきたときに全く対処のできない後ろ向きな姿勢が身についてしまいます。

いいえ、危機の場合だけではありません。社会に出てもっとも大切な能力は、コミュニケーション能力です。あらゆる場所で、正常なコミュニケーションをとる力が求められています。そして、コミュニケーションの基本は、自分とは異なる他者の存在を認めることです。異質な他者の存在を認め、それとつきあうための適切な距離と接し方を判断する能力です。

一方的に「怪しい人には近寄らない」姿勢は、こういった異質なものとの距離を判断する能力の成長を阻害します。なぜなら、多くの子どもにとって、異質なものはすなわち怪しいものだからです。異質なものを身近から排除してしまうことは、異質なものに対する経験値を上げる機会を失わせます。

企業が求める人材像が必ずしも人間のあるべき姿とは思えませんが、それはさておき、近年、企業人が新人のコミュニケーション能力の不足を嘆いている話をよく聞きます。多くはそれを携帯電話やインターネットの普及によるリアルな関係性の不足のせいだと結論づけていますが、ひょっとしたらそうではないのかもしれません。「いかのおすし」は2004年ごろに考案された標語だそうですが、「いかのおすし」的教育は、そのずいぶん前から行われてきています。若者のコミュニケーション能力の低下の遠因がここにあるのかもしれません。

何度繰り返しても足りないほど、子どもの身の安全を守ることは重要です。問題なのは、「いかのおすし」がそれに本当に役立つ知恵であるのかということです。子どもの個性や状況に応じて、こういった標語を利用して防御的姿勢を身につけさせるのが必用な場面もあるかもしれません。けれど、ほとんどの子ども、ほとんどの状況では、これはむしろ、子どもの正常な発達を阻害し、そして最終的にはむしろ、子どもを人生においてより困難な危機に追い込むのではないかと思えます。

このような問題意識の下、このブログでは「いかのおすし」的教育にどのように立ち向かい、どのようにそれを変えていけるのかを考えていきたいと思います。
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2009年09月06日

警察と学校と

「いかのおすし」は、いまから5年前、東京都教育庁と警視庁少年育成課が協力して考案した標語だそうです(詳細はこちら)。「深刻化する少年犯罪から子どもを守ろう」という目的だそうですが、実際のところ、少年犯罪が深刻化しているのかどうか、統計的な根拠を私は知りません。ただ、根拠があろうがなかろうが、子どもの安全が守らなければならないということには強く同意します。この点を問題視するつもりは全くありません。

また、警察がこういった標語を考案し、それを普及しようと努力することも、よっぽど甚だしく度を越えない限りは問題ないと思います。なぜなら、警察というところはもともと犯罪を防ぐためのものだからです。子どもがこういう標語を覚え、それが犯罪防止に役立つと考えるのであれば、警察がその手段を活用するのは理に適っています。

私が問題だと思うのは、教育機関が無条件にこういった標語の流布に協力することです。なぜなら、教育機関の第一の目的は、子どもの健全な育成だからです。

もちろん、子どもを預かる教育機関が子どもの身の安全を確保するため努力するのは当然のことでしょう。しかし、教育機関の第一の目的は、子どもの安全ではありません。子どもの健全な成長を支援することが第一であり、安全はそれに付随して発生する必要要件に過ぎません。

現行の「小学校学習指導要領」には、第1章1-1で「各学校においては...児童の人間として調和のとれた育成を目指し、地域や学校の実態及び児童の心身の発達段階や特性を十分考慮して...」と明記されています。1-2では、「学校における道徳教育は,学校の教育活動全体を通じて...適切な指導を行わなければならない。道徳教育は...人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし、豊かな心をもち、個性豊かな文化の創造と民主的な社会及び国家の発展に努め、進んで平和的な国際社会に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため、その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。」と詳細が説明されています。

「人間尊重の精神」は、自分とは異質な他者の存在を認めるところから始まります。なぜなら、人間とは実に多様で複雑なものであり、単純に「これが正義だ」と割り切れない存在だからです。この地球に存在する様々な人間のあり方を学び、それぞれの個性を認め、その中で自分自身を確立していくことが、「人間を尊重する」ということでしょう。人間だけではありません。万物、ありとあらゆる存在に対し、それを受け入れ、そこから学ぶ精神が重要です。これがすなわち、「生命に対する畏敬の念」でしょう。

学習指導要領は、高らかにこれを謳っています。その一方で現実はどうかといえば、「いかのおすし」です。

「いかのおすし」は、
いか…知らない人についていかない
の…他人の車にのらない
お…おおごえを出す
す…すぐ逃げる
し…何かあったらすぐしらせる

とされています。

子どもにとって、多くの「他者」は、「知らない人」です。ですから、「人間尊重の精神」を養おうというのであれば、まずは「知らない人」とどのように関わっていくべきかを指導すべきでしょう。

「他者」は限りなく多様です。ですから、最初の接触で、「ついてい」ったり、「車にの」ったりしないのは常識的な行動かもしれません。しかし、他者との接し方として無条件にそれだけを教育することは、果たして正しいのでしょうか。まして、無条件に「大声を出」し、「逃げ」、自分で判断することなく「知らせる」態度が、果たして子どもの成長を助けるでしょうか。

「人間尊重」の教育を目指すのであれば、なによりも、「知らない人」にはさまざまな人がいて決して一括りにはできないのだということを教えるべきではないでしょうか。多様な人々がいて、そこから様々なことを学ぶことができるのだと、教えるべきではないでしょうか。その上で、多様な人のなかにほんの一握り、危害を加える可能性のある人がいるかもしれないこと、そういった偶然は自分の身にも起こり得ること、そして被害が起こったら偶然では済まされないのだということを順に指導していくのが筋道ではないでしょうか。

「知らない人」を拒否し、そこから「逃げる」態度は、小さな小集団の利益だけを考える社会的態度を植え付けるでしょう。誤解のないように繰り返せば、身を守る技術を身につけることも、ときには立ち向かわずに「逃げる」知恵をもつことも、とても大切なことです。けれど、他者とどうかかわってもいいかわからず、まっすぐに相手を見ることもできずに逃げることだけに終始するのは全く別です。

息子の学校では、「いかのおすし」は大声で復唱させられたけれど、それを補足するような指導は何も行われなかったようです。私が危機感を覚えるのはここのところです。

学校は、警察ではありません。子どもを健全に育ててくれることを期待して、私たちは子どもを託しています。そのことを忘れないでほしいと思うのです。
posted by 松本 at 14:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 問題提起 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月07日

子どもはたぶん、大丈夫

前回、「いかのおすし」的教育は子どもの健全な成長にとって有害であるという内容の主張をしましたが、正直なところ、実際には直ちに子どもが悪影響を受ける危険性は大きくないのだろうと思います。

というのは、子どもは案外とバランス感覚をもっています。学校で「いかのおすし」と教えられても、それが唯一正しい行動原理だと信じ込む子どもは多くないでしょう。たいていの子どもは、「先生もあんなこと言うけど、まあそこまで極端なことはないよね」と、内部でバランスをとるでしょう。学校というところが決して正しいことばかり教えてくれる場所ではないことを、子どもたちは経験上知っています。そこはさまざまな不条理や問題を抱えた小さな社会です。そういった場所で教えられた知識であるという前提で、子どもたちは「いかのおすし」に対するのだと思います。

だから、あまりにも偏っていると思われる「いかのおすし」的教育を受けても、子どもはたぶん大丈夫です。それが原因で排他的な性格ができたり、コミュニケーション能力が著しく落ちることは、本当のところはないのかもしれません。

けれど、だからといって学校がそれに甘えていいわけはないと思うのです。この社会には、いろいろな立場があります。何はさておき防犯を第一としなければならない警察のような立場もあるでしょう。子どもを学校に託さねばならない親の立場もあります。どうしても弱者であることを逃れられない子どもの立場もあります。そんな中で、学校の立場とは何でしょう。

長期的に見て、子どもたちにより大きな悪影響を与えるのではないかと私が危惧するのはこの点です。学校は、本来、子どもの健全な成長を支える場所です。そういった役割を自覚していれば、無条件に警察の主張する「いかのおすし」を子どもに押し付けるようなことはしないはずです。しかし、学校はそれを放棄しています。そして、子どもたちはそれを敏感に感じ取ります。

結果として、子どもたちが受け取るメッセージは、「大人は信用できない」「社会の仕組みなんて建前と本音は違うんだ」という不信感です。社会に信頼がもてないまま成長した子どもが、将来どんな社会を築いていくのかと考えれば、ここで発生している損失が計り知れないことがわかるでしょう。

ですから、やっぱり「いかのおすし」は問題です。学校の場において「いかのおすし」キャンペーンが無批判に実行されることは、直接にも有害ですし、間接的にも有害です。

このことを深く考えてほしいのです。
posted by 松本 at 16:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 問題提起 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月08日

「いかのおすし」よりも「いかめし」

ここまで「いかのおすし」的教育は問題だと批判してきたわけですけど、批判をするとすぐに「対案を出せ!」と言い張る人が出てきます。「対案なしで文句だけ言うのは非生産的だ」「対案がなければただの愚痴じゃないか」と。

本来、批判には「対案」など必要ないのだと思います。けれど、そういう哲学的な議論をやっても始まりません。「対案」がなければ納得しない人には、それをつけておいたほうが説得力があるでしょう。そこで、「いかのおすし」への対案を考えてみます。

といって、ここで「『いかのおすし』の最高の対案はそれを教えないことだ」と言ってしまっては身も蓋もありません。もうちょっと、「いかのおすし」を主張する人々の考え方に近いところまで想像力を膨らませる必要があります。

「いかのおすし」ができた詳細な経緯はわかりませんが、その内容を見る限り、これは子どもの連れ去りを防ごうとして考案されたもののように思えます。



子どもを対象にした犯罪では、最も頻度が高く、また最も子どもに与える被害が大きいものは、近親者によるものだといわれています。しかし、「いかのおすし」はこれを対象にしたものではありません。「いかのおすし」がターゲットにするのは、不特定の「犯罪者」による子どもの連れ去りです。もちろんこのような犯罪も未然に防がねばならないのは言うまでもありませんから、その防止策が警察によって考案されることには同意するとしましょう。

そして、その防止策のなかに「子どもが覚えやすい標語」を取り入れることも、一つの手段として認めるとします。そこまで同意した上でなお認められないのは、子どもの成長に悪影響を与えると思われる「いかのおすし」そのものです。もちろん、この「いかのおすし」を何の問題意識ももたずに子どもに強制する学校のあり方こそが問題の根源であるわけですが、そこはとりあえず別問題として切り分けてみましょう。

すると、要は「子どもを連れ去りから防止するために、もっとマシな標語はないのか」ということになります。そりゃあ、あるでしょう。あるはずです。なければつくればいいのです。

ここで、「いかのおすし」を分析してみましょう。

「いか」(知らない人についていかない)

子どもに対する犯罪の多くは、子どもの近親者や顔見知りによって行われます。そういう点でこの「いか」はかなり現実ばなれしているのですが、捜査する警察の立場からいえば、近親者でも顔見知りでもない犯罪者は確かに厄介なものなのでしょう。
「知らない人」が厄介なのは、手がかりがつかめないからです。逆に、犯意をもった「知らない人」は、自分の正体を知られることを嫌います。正体が暴露されるような手がかりは、なるべく残したくありません。
手がかりは、多くの人の目に触れることで残りやすくなります。たとえば多くの人の目のあるところで子どもを連れ去ったら、それだけ多くの手がかりを残すことになります。ただし、無関心な人がいくら多くても、手がかりにはなりません。大都会の中の雑踏で子どもの手を引いている人が犯罪者なのかそうでないか、気に留める人はいないでしょう。
ですから、ここで重要なのは、「子どもを一人にしない」ことです。それも、友人や近所の人など、その子どもに関心をもっている人の目の届く範囲内に置くことです。こうすることで、「知らない人」が子どもを連れ去る危険性はぐっと下がります。

新標語:「い」(いつも友達といっしょに)


「の」(知らない人の車に乗らない)

「お母さんが呼んでいるから」「大変なことがあった。急いで!」こんなふうにもっともらしい口実をつけて犯意をもった「知らない人」が子どもを連れ去る事件は、実際に起こり得るでしょう。この「の」は、それを直接に防ごうとするものです。確かに、車は捜索範囲を一気に拡大させるので、警察にとっては非常に厄介でしょう。
上記のように、子どもを一人にしないことで、「知らない人」の連れ去りは相当に困難になります。それでも、たとえば下校時の子どもたちの群れに近づいて上記のような口実で誘拐を行った事例がないわけではありません。
子どもの信じやすさにつけこむ犯罪は、許しがたいものです。しかし、だからといって子どもを猜疑心の固まりにするのはいかがなものでしょうか。そうではなく、子どもが騙されないようにするための方法はないのでしょうか。
犯罪者は、嘘をつきます。そして、嘘というものは、一般に相手が少ないほど騙しやすいものです。一人の目はごまかせても、大勢の目はごまかせません。
だから、犯罪者の嘘を見破るには、大勢の力を借りればいいのです。「車に乗って!」と言われたら、自分一人で判断するのではなく、友達の意見を聞くべきです。大人がいればなおいいでしょう。携帯電話で確認をとってくれるかもしれません。大人がいなくても、数人の子どもに質問攻めにあって嘘をつき通せるほど余裕のある犯罪者は多くないでしょう。

新標語:「か」(かならず相談、動く前に)


「お」(おおきな声で呼ぶ)

上記のように、犯意をもった人は自分の正体がバレること、手がかりが残ることを嫌います。「大きな声で呼ぶ」ことは、この点で犯罪者の嫌うところでしょう。
しかし、子どもは何と呼べばいいのでしょうか。「助けを呼ぶ」といっても、犯罪者は「助けてほしい状況」をつくらないように悪意をこらします。上記のように「お母さんが呼んでいる」といったような口実は、まさに助けを封じるためのものです。
大きな声で呼ばれることと同様に、犯罪者が嫌うことあります。それは、まっすぐに目を見られることです。たとえ相手が子どもでも、まっすぐに目を見られて嘘をつき通すのは難しいものです。疚しいところがあれば、必ず目を逸らします。子どもは敏感にその変化を感じとるでしょう。

新標語:「め」(目を見て話そう)


「す」(すぐ逃げる)

犯罪者の中にはプロもいます。何とか工夫して嘘をつき通そうとする人もいるでしょう。いろいろと疑いをはさんでも、あれやこれやと言い逃れをするかもしれません。「すぐ逃げる」のは、相手にこんな言い逃れを工夫させないための手段として有効です。また、凶器などをもっている場合、危害を加えられる前に「逃げるが勝ち」でしょう。
けれど、いずれの場合も、大勢の前では犯罪者は無力です。言い逃れもできませんし、暴力も(本能的に自分の方が弱いことがわかるので)大勢に対しては行使しにくいものです。
ですから、これは上記の「いつも友達といっしょに」で十分ではないでしょうか。


「し」(何かあったらすぐ知らせる)

犯罪に限らず事故、事件の防止には、大人が子どもの現状を的確に把握していることが重要です。子どもがどんなふうに過ごしているのかを大人がきっちりとつかんでいれば、どこにどんな危険があるのかが未然に予測できます。
ですから、「何かあったらすぐ知らせる」では全く不足なのです。何もない状態から、大人は常に子どもの身辺に目配りをしておかなければなりません。そして、これは、両親をはじめとする「保護者」だけに求められることではありません。子どもの安全は地域で守るべきです。そしてそのためには、子どもが常に周囲と緊密なコミュニケーションを確保しておくことが重要なのです。「ああ、あの子ならきっとあそこで遊んでいるよ」と、地域の人が認識していれば、子どもの安全はぐっと高まるでしょう。

新標語:「し」(知っている人と話をしよう)


いかがでしょう。「いかのおすし」に対する「対案」として「いかめし」を用意しました。こちらのほうが子どもの安全を確保する上でははるかに有効で、そして子どもの成長に与える害も小さいと思うのですが、どうでしょうか。

もちろん、「いかめし」よりもさらにさらに、百倍も千倍もいい「対案」はいくらでも出てくるだろうと思います。皆さんもひとつ、考えてみられてはいかがでしょう。
posted by 松本 at 14:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 対案 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月09日

「いかのおすし」の水掛け論

「いかのおすし」的教育が子どもの健全な発達にとって有害だという私の主張には、「私がそう思う」という以上の根拠はありません。もちろん、演繹的な理由づけはあります。詳細は別記事に譲るとして、簡単にまとめると、次のようなものです。
社会生活において最も必要とされる能力の一つは、コミュニケーション技術である。コミュニケーションの技術の中心にあるのは、「異質な他者とどのようにかかわるか」という方法論である。これを発達させるには、同質の仲間同士ではなく、異質な人々と実際にかかわっていく経験が必要である。未知のものに対してそれを拒否し、逃げることのみを推奨するような「いかのおすし」的発想では、この能力の発達は著しく阻害される。

ただし、この議論に証拠はありません。

証拠を出せといわれたら、検証するための調査をしなければいけないでしょう。「いかのおすし」的教育を施した集団と施さなかった集団について、5年後のコミュニケーション能力を実測して、統計的に処理する必要があります。そんな「証拠」は、不可能です。

しかし、一方で、「いかのおすし」が効果をあげているかどうかの検証も不可能でしょう。たとえば、小学生にアンケートをとって「いかのおすし」の意味を尋ねるような調査ならできるかもしれません。それでしかるべき割合の子どもが「ついていかない、車に乗らない、大声を出す、すぐ逃げる、知らせる」と答えたら、「効果があった」と主張することもできるかもしれません。けれど、「いかのおすし」の最終目標が「連れ去り犯罪の防止」であるのなら、いくら子どもに「いかのおすし」を暗記させても、それだけでは意味はありません。

そして、これが本当に効果を上げたかどうかを判定するには、犯罪の発生率が似たような2つの地域を選んで一方に「いかのおすし」を施し、施さなかった方とその後の連れ去り犯の発生率を比較しなければなりません。そんな検証をするのは、「いかのおすし」の有害性を立証する以上に困難です。

ですから、「いかのおすし」的教育の是非は、水掛け論になります。2つの思想の主観的な主張になります。

しかし、だからこそ、私は声を上げたいのです。「それはおかしいと思う人々がいるのだよ、少なくとも私はおかしいと思っているのだよ」と伝えない限り、根拠のない一つの思想だけが世の中を支配してしまうと思うからです。

思想には、根拠はないものだと思います。それだけに、さまざまな思想が譲り合って世の中を回していくことが重要ではないのでしょうか。私は、根拠もなく、そう信じています。
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2009年09月10日

「いかのおすし」と遠い記憶

「いかのおすし」的教育は、いまに始まったものではありません。私が子どものころにも「知らない人についていってはいけません」と学校で教えられたものです。当時は「子取りにさらわれるぞ」というような言い方をしました。「子とり」は怖ろしいものとして語られましたが、どこかお伽話めいたロマンチックな存在であったりしたものです。

ともかくも、「連れ去り犯罪」はいまに始まったものでもなく、むしろ昔の方が多かったのかもしれません。そして、それが子どもを持つ親にとって忌まわしいものであることは昔も今も変わりません。だからこそ、「知らない人についていったら子取りにさらわれるぞ」と。

ただ、私は子ども心にも、この「知らない人〜」が納得できませんでした。というのは、私にとって自分以外のほとんどの人が「知らない人」だったからです。

これは、ずっと後になって知ったことなのですが、おそらく私は「自閉症スペクトラム」と呼ばれる傾向をもった子どものひとりでした。現在もその傾向は引きずっています。たとえば、他の人を認識する能力が著しく一般よりも劣っています。つまり、顔を覚えられないし、名前を覚えられません。ようやく覚えても、顔と名前が一致しません。このことを自覚するようになった30代以降には、初めて会った人には必ず「私は三度はお名前を忘れますがどうかお許しください」と自己紹介に添えて言うようにしてきました。多くの人はこれを冗談と思ったかもしれませんが、本当のことなのです。

そして、子どものころ、私は自分自身の親の顔さえ忘れました。サラリーマンの子どもが滅多に顔を合わせない父親の顔を忘れるという笑えない話はよく耳にしますが、私の父親は勤め人とはいえ朝晩必ず食事をともにし、休日には一緒に遊んでくれる人でした。であるのに、外出した際など、私はよく父親の顔を見分けられなかったものです。母親の顔も同様でしたが、さすがに母親ともなると顔以外の部分で動物的に覚えているのでしょう、まちがえることはありませんでした。それでも、たとえば写真を見てどれが母親の顔かわからないというようなことはよくあったのです。

感覚というものは、自分だけのものです。他人の感覚と自分の感覚が違っているかどうかは、直接比較することができません。だから私は、それが普通だと思っていました。両親の顔さえ覚えていられない私にとって、世界は「知らない人」に満ちていました。だから、「知らない人についていってはいけません」という教えは、私にとっては「大人にはついていってはいけない」というのと等しく感じられました。「信用できない人にはついてくな」と言われても、誰を信用していいのかわからないのです。

「知らない人についていってはいけない」が納得できなかったというのは、そういうことです。

「自閉症スペクトラム」は、傾向であっても固定された形質ではありません。ですからそういう傾向があっても、成長の段階で徐々に社会との関わり方を身につけ、一般人として生きていくことができるようになる場合が少なくありません。私もそういう幸運なひとりでした。そして私に必要な社会性を身につけさせてくれたのは、多くの素晴らしい友人をはじめとする「知らない人」たちでした。

ですから、「知らない人」の排除がはじめにあってはならないと思うのです。「自閉症スペクトラム」の子どもによくあるように、私は猜疑心が強い方でした。「人見知り」で、親兄弟以外とはほとんど口をききませんでした。そんな猜疑心の強い子どもに対しては、「知らない人についていくな」は無用の警告でしょう。むしろ、他の人々に対してどのように心を開いていくかを教える方がはるかに重要だと思います。

子どもはひとりひとりちがっています。ですから、「知らない人についていかないように」と注意を喚起した方がいいような性格の子どももいるでしょう。しかし、全く別な指導をしたほうがいい子どもも少なくありません。「知らない人にはついていかない」あるいは「いかのおすし」と子どもに一斉に唱えさせることがどれほど奇妙であるかは、こんな観点から言えば論ずるまでもありません。

子どものころを思い出して、やっぱり「いかのおすし」は「いかさない」と思うこのごろです。
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2009年09月11日

学級懇談会にて

本日、小学校1年生の息子の授業参観がありました。小学校1年生の勉強というのは...。ま、私が子どものころよりは、はるかにマシでしょう。

さて、授業参観が終わり、学級懇談会が開かれました。私はこの席で、「自分は『いかのおすし』がおかしいと感じる」と、どうにか発言することができました。「言っちゃったよう...」という感じです。

「いかのおすし」が問題だと感じる人は、非常に少数派でしょう。ですから、そういうことを言うととても場違いに受け止められるに違いありません。場違いなことを言う人は嫌われます。私だって嫌いです。できればそういう立場にはなりたくありません。

だから、いくらそう思っても、黙っていたいとも思いました。ブログで自分の考えを書くことと、実生活の場でそれを口にすることは大きくちがいます。できれば波風立てずに生きたいと、私はそんなふうに思います。

しかし、同じくらい強く、私は「いかのおすし」的教育をやめてほしいと思っています。自分が恥ずかしい思いをし、何人かの人に場違いで不愉快な思いをさせるリスクをおかしても、声をあげないことには何一つ変わる可能性はありません。声をあげたらすぐに変わるわけではありません。声をあげても何も変わらない確率の方が高いでしょう。けれど、声をあげなければさらに確率は下がります。ここは厚顔無恥を装ってでも、「クレーマー」と後ろ指をさされても、言うべきではないでしょうか。

ずいぶん悩みました。最終的に「言おう」と思ったのは、担任の先生がひとりひとりに発言の時間をとってくれて言いやすい雰囲気をつくってくれたこと、そして、出席者(30人の学級で8人しか出ませんでした。皆、忙しいのですね)の半数が、保育園から同じだった子どものご両親で、私のことをある程度わかっていてくれる人たちだったからです。私が少々変わり者だということは、この人たちならわかってくれます。変わり者だけれど、子どものことを真剣に愛しているのだということをよく知っていてくれます。単に「文句」をつけているだけではないということも、きっと理解してくれるでしょう。もちろん、「いかのおすし反対!」まで理解してくれるとは望みません。それはあまりに欲張りです。

そういう話しやすい雰囲気があったので、私はどうにか、つっかえながら、「自分は『いかのおすし』がおかしいと感じる」と、言うことができました。担任の先生も、特に不愉快な表情を見せることもなく、メモをとってくれていました。他の親御さんたちも、特別に変な目では私を見ませんでした。

昨夜から、話すべきか、黙っているべきか、ずいぶん悩みました。ようやく終わって、ほっとしています。




posted by 松本 at 16:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月12日

キャンペーンに意味はあるの?

「いかのおすし」が嫌だなあと思ってこのブログを書き始めた私ですが、「いかのおすし」について考えていて、さらに疑問が広がりました。そもそも、「いかのおすし」に代表されるようなキャッチフレーズやそれを展開したキャンペーンって、意味があるのでしょうか。

発想は理解できます。警察や学校、政府には、広く伝えたいメッセージがあります。たとえば「いかのおすし」の場合、「子どもの連れ去り犯罪防止」です。そのメッセージは、そのままでは伝わりません。たとえばお役所式の堅苦しい文書で配布したところで、誰も読んでくれません。そこで、メッセージをわかりやすい形で伝えるため、キャッチフレーズが考案されます。キャッチフレーズはつくっただけでは広まりませんから、さまざまなキャンペーンを通じて浸透をはかります。

こういった考え方の流れは理解できます。けれど、ひとつの発想があることと、それが有効であることとは大きくちがいます。「メッセージをそのまま伝えるよりはわかりやすいキャッチフレーズにしてポスターやキャラクターを使ったキャンペーンを展開すれば効果があるだろう」と考えるのは合理的です。けれど、この合理性は検証されていません。ひょっとしたら、合理的に考えたことが、実は的外れだということもあり得るのです。

キャッチフレーズは、本当にメッセージを正しく伝えるものなのでしょうか。キャンペーンは、メッセージの浸透に役立っていますか? 検証されないアイデアは、机上の空論です。

たとえば、観光客誘致のために地方自治体がキャッチフレーズを考え、キャンペーンを展開することはよくある話です。観光客増加による経済効果が○十億円とか試算され、キャンペーンのために投下される数千万円は安いものだと皮算用が生まれます。ところが往々にして、こういったキャンペーンは検証されません。確かにその夏、観光客は増えたかもしれません。けれどそれがキャンペーン効果なのか、たまたまその夏の猛暑のせいだったのか、判定ができないかもしれません。そして何より、そのキャンペーンのために費やされた予算(+予算に含まれない通常人件費)がもっとも有効な使い方であったかどうかはさらに検証が困難です。たとえば同じ額の予算を施設の整備にあてたり利便性の向上にあてた方が観光客の満足度が高まり、長期的には効果が高かったかもしれません。

同じだけの資源を投下するなら、効果は高い方がいいに決まっています。そして、キャンペーンやキャッチフレーズは、本当に投資効果の高い方法なのでしょうか。

学校の現場は、非常に忙しいものになっています。教職員のもっとも重要な役割は子ども一人一人に目線を向けてその発達により添うことだと思います。それだけでも相当なエネルギーをとられるのに、数多くの事務仕事に忙殺され、本来の仕事が十分にできないことも多いようです。

そして、そういった事務仕事にさらに負担を増加させているのが、「いかのおすし」のようなキャンペーンではないのでしょうか。学校という組織の本来の機能を考えたら、これは投資効果が高いどころか、投資効果を下げる役割しか果たしていないのではないでしょうか。

もっと賢いやり方がないのかと、疑問に思うのです。


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2009年09月13日

「にせもののかぎばあさん」

今日、子どもについて近くのショッピングセンターに併設された図書室に行ってきました。子ども向けの本が集められた小さな部屋で、親が買い物をしている間、子どもが時間をつぶすのにはもってこいの場所です。本好きの息子はここに行くのが好きで、私もときどき、本を読む子どもの脇で、適当にパラパラと本を読んでいます。

今日、手に取った本は、「にせもののかぎばあさん」という一冊でした(手島悠介著、岡本颯子イラスト、岩崎書店1983年)。




「ふしぎなかぎばあさん」を最初とする「かぎばあさん」シリーズの3作目で、「かぎばあさん」とホクロひとつ以外はそっくりな「にせもののかぎばあさん」が登場します。この「にせもの」、贋者といいながら、やっていることは本物の「かぎばあさん」とほとんど同じです。ただ、微妙なところが少しずつちがいます。カバンから取り出す料理の素材がインスタントものだったり、子どもに見せる紙芝居が「人を見たらどろぼうと思え」だったり。
これに対して後半に登場する本物の「かぎばあさん」は、ちゃんと手作りのクレープを用意し、そして信じることの哀しさと美しさを描いたお話をしていきます。
ふたりの「かぎばあさん」は、やっていることもほとんど同じなら、その善意もほとんど同じです。比べさえしなければ、どっちが本物だかわからないでしょう。
けれど、微妙な違いが大きいのです。「にせもののかぎばあさん」は、善意から怪しい人物を「どろぼう」と断定して、警察に通報します。本物の「かぎばあさん」は、そうやって傷ついた子どもたちの心を癒していきます。おもしろいのは、「にせのかぎばあさん」が警察署長の母親だというオチがつくことです。警察とは、人を疑うことが仕事なのです。

そういう仕事をしているからといって、警察を蔑むものではありません。そういう仕事が社会に必要だから、警察は職務としてそれを行っているのです。けれど、社会には、もっと他の仕事も必要です。そして子どもの心により必要なのは、人を疑うことよりも人を信じることではないかと思うわけです。

すべてはバランスのなかにあります。用心をすることも必要なら、ときには思い切って飛ぶことも必要です。警察が疑うことを教えてくれるなら、学校は信じることを教えてはどうかと思うのです。

「いかのおすし」は、果たして学校の仕事なのでしょうか。少なくともそれを子どもたちに斉唱させることはやり過ぎではないかと、私は思うのです。
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2009年09月15日

「知らない人」は「悪い人」?

「いかのおすし」の最大の問題点は、それが子どもに「知らない人は悪い人」という誤った先入観を与えかねないことです。

確かに、「知らない人」のなかに「悪い人」はいくらかの割合で存在するでしょう。しかし、では、「知っている人」のなかに「悪い人」は存在しないのでしょうか。いいえ、やっぱり同じくらいの確率で存在します。そして、通常は、「知っている人」からの犯罪被害の方が、子どもに与える影響は大きいのです。(たとえば平成19年の犯罪白書の図表では、平成18年には児童虐待で49件の殺人が検挙されており、これらは父親・母親らによるものです)。

「知らない人に気をつけましょう」という発想の中には、いくつかの誤った思い込みがあります。

ひとつは、「仲間内なら安全だ」という根拠のない身内意識です。こういった排他意識が何の効果もあげないことは、明治維新以来百数十年にもわたって指摘されてきたことです。私たちの頭の中は、未だに文明開化していないのでしょう。


こちらのブログで見つけた写真)

もうひとつの思い込みは、「他人が身内のことに口を出すものではない」という誤った社会常識です。かつて、家父長主義の下では、人は国家の支配と家の支配の二重支配を受けていました。人は法の下で平等であるかもしれませんが、一歩家のなかに入ればその法は効力を失います。このような家父長主義の下では暴力が当然であり、子どもに対する暴力は「しつけ」という名で正当化されていました。そして社会はそれに対して口を出すべきではないと考えられたのです。
つまり、警察は家の中のことには干渉しません。となると警察の役割は家の外を守ることになります。つまり、「知らない人」に対する警護をすればいいという発想につながります。家の中がブラックボックスである以上、悪意は外部からやってくるものになるはずなのです。

こういう考え方が効力を失っていることは、古くから指摘されていることです。

子どもたちに、正しいことを伝えましょう。それはきっと、こんなことではないでしょうか。

世の中には、信頼すべき人がたくさんいます。それは、知っている人の中にも知らない人の中にも、無数にいます。そういう人を見分け、そういう人にかかわっていくことが重要です。

一方、世の中にはわずかではあるけれど必ず、危害を加える人がいます。そういう人たちも、ほとんどは「悪い人」ではありません。けれど、さまざまな経緯から「悪いこと」をするようになっています。こういう人から危害を加えられないように用心することは大切です。

身を守ることは、自分一人ではできません。信頼できる人に相談することです。そのためにも、信頼できる人をみつけておかなければなりません。それだけは、自分でやらなければならない仕事です。

けれど、世の中には信頼できる人の方が危害を加えようとする人よりもはるかに多いのです。むずかしいことではありません。心を開いて、できるだけたくさんの人と話をしましょう。まっすぐに目を見て、自分をわかってもらいましょう。

それがあなたの身を守る第一歩です。


地域や家庭が本当に自分を守ってくれるものだという信頼をまず築かないことには、いくら「知らない人に気をつけましょう」と言っても説得力がないのではないでしょうか。
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2009年09月16日

「いかのおすし」は安易過ぎませんか?

昨日の記事を書いていて気がついたのですが、「いかのおすし」がターゲットにしている連れ去り犯被害は、その他の子どもが巻き込まれる可能性のある犯罪に比べれば比較的発生率が低いもののようです。もちろん被害が大きいものは、発生する確率にかかわらず問題としては大きいものです。けれど、たとえば両親どちらかによる子どもの虐待では、毎年数十人が殺害されています(出産直後の嬰児殺しを含めればさらに数は増えるとのこと)。発生件数も被害の大きさも、こっちの方がはるかに大きいのに、「知らない人に気をつけましょう」と教えられることがあっても、「知っている人に気をつけましょう」とは教えられません。

もちろん、児童虐待に対する取り組みも、学校では行われています。被害児童が気軽に相談に行けるカウンセラーが学校には(曜日を決めてですが)常駐するようになっています。そのことを知らせるお知らせも子どもたちに配られ、その配布物は子どもが読めるようにわかりやすいひらがなで書いてあります。

けれど、実際にそういった情報が子どもにきちんと伝わっているかといえば、首を傾げたくなります。学校からの配布物は基本的に「親に宛てたもの」として(少なくとも小学校1年生の私の子どものクラスでは)配布されます。息子は「今日は手紙が3枚」というような報告はしますが、中身は見ようとしません。改めて親の方から、「これは君が読むためのものだよ」と渡さなければなりません。おまけに、その文書は、ひらがな書きとは裏腹に、奥歯にものの挟まったような書き方で、よっぽど気をつけなければ「家庭で虐待されている子どもはここに逃げ場がありますよ」というメッセージだとわかりません。

もしも連れ去り犯の予防に「いかのおすし」のようなキャンペーンが必要なのだったら、それ以上に家庭内での児童虐待予防のために強力なキャンペーンが必要になるはずです。けれど、実際には「知らない人に気をつけましょう」ばかりが強調され、もっと被害の大きな児童虐待について子どもが知るべきことを知らせようという努力が見られません。

なぜそうなのかは簡単に想像がつきます。「家族の暴力に気をつけましょう」なんて学校で子どもに教えられたら、私だって穏やかな気分ではいられません。「あなたの親は犯罪者かもしれません」というのは可能性としては嘘ではなくとも、そんなことを言ったらふつう、「何と非常識なことを子どもに教えるのだ」と保護者からクレームが殺到して当然でしょう。

一方、「知らない人には気をつけましょう」といくら大声で言っても、「知らない人」からクレームがつく心配はありません。「知らない人」は学校に文句を言いにきた時点で「知らない人」ではなくなるのですから、「いえ、あなたのことではないんですよ」と答えればおしまいです。「知らない人」はこの地球上に50億人以上います。その無限に多数のよそ者に転嫁してしまえます。ところが「おうちの人」だと、たとえ特定の人に「あなたのことじゃないんですよ」と言い訳したとしても、「じゃあこの学校の保護者にそんな人がいるんですか?」と問い詰められたら返答ができなくなってしまいます。

だから、「いかのおすし」を子どもたちに唱えさせるのは、単純にそれが簡単だからに過ぎません。それを子どもに教えても誰からも文句はこないし、防犯に努力している格好はつきます。実際の効果よりも、そっちの方が重要なのではないでしょうか。

人は問題の重要性によって動くのではなく、問題の取り組みやすさによって動くものです。これは、古くは「パーキンソンの法則」でも指摘されていることです。残念なことに、「いかのおすし」はこの好例となっているようです。

確かにときには、「手をつけやすいところから手をつける」のは重要なことです。けれど、それで事足れるという顔をするのは別問題。そういう態度が子どもたちのどんな模範になるかは言うまでもありません。

困難なことでも、人を導く学校には、困難な課題から優先して取り組んでもらいたいものだと思います。
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2009年09月17日

「いかのおすし」のここが変

思いつくままに。

  • そもそも言葉として変。(こちら参照)

  • 「いかのおすし」で効果があるとみんなが思っているのが変。そんな標語をバラまいたって、防犯効果はあるの? みんなが一様に「子どもに覚えさせましょう」って書いてるのには背筋が寒くなる。

  • 「いかのおすし」にここまで力を入れるのが変。だって学校現場は忙しいし、防犯関係の予算だって限られてるでしょう。もっと効果がはっきりしている優先順位の高いことにエネルギーを投入すべきじゃない?

  • 「いかのおすし」の発想が変。なんでそんなに「知らない人」を排斥したがるの? 「知っている人」なら何でもOKなの?

  • 「いかのおすし」の悪影響を考えないのが変。こんなもの教えたら、子どもの性格が歪むでしょう。常識的に考えて。

  • 「いかのおすし」と道徳教育の矛盾が変。「道徳教育」がどういうものかはさておいて、一方で人を信じることを教えて他方で人を疑うことを教えるのはおかしいじゃない? いや、両方大切だけど、バランスは考えてるの?


「いかのおすし」的な世界に、私は住みたくありません。今日読んだ漫画にも、「人を騙す人になるよりも騙される人になる方がずっといい」という言葉がありました。犯罪者から身を守ることよりも犯罪者をつくらないことの方がはるかに重要だと思うこの頃です。
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2009年09月18日

「いかのおすし」と交通安全運動と

少し前の記事で、「いかのおすし」のキャンペーンが広く行われるのは、単純にそれが取り組みやすいからではないかという仮説を出しました。より被害が大きく深刻である児童虐待と比較して、児童誘拐は発生率も低く、被害の大きさも(全体としてみれば)小さいものです。しかし、対策としてのキャンペーンの大きさは逆転しています。それは、「知らない人」を悪者と決めつける方が「おうちの人」に対する注意を喚起するよりも簡単だからではないかと、推測できるのです。

しかし、児童誘拐を児童虐待と比較するのが間違っているのかもしれません。子どもが巻き込まれる事件として、もっと頻度が高く、もっと(外面的な)被害が大きいのは、交通事故でしょう。比べるべき対象は、こっちのほうかもしれません。

そして、交通事故に対するキャンペーンは、「いかのおすし」以上に活発です。息子が「いかのおすし」を教えられたのは二学期冒頭でしたが、交通安全に関しては入学直後から繰り返し指導があります(もっとも「いかのおすし」とは異なった「知らない人に気をつけましょう」指導は一学期にもありました。けれど、頻度は交通安全よりずっと低いものだったようです)。公平にいって、ここではより被害の大きなものほどより大きなキャンペーンが行われるという正しい順位づけになっています。

しかし、ここで、「車に気をつけましょう」と「知らない人に気をつけましょう」のちがいを吟味してみる必要があります。

事件・事故は加害者と被害者があって成り立ちます。交通事故の大部分は、加害者・被害者のどちらかが十分気をつけていれば防げるものです。そのため、潜在的な被害者である子どもに交通ルールの徹底と十分な注意を指導することが大きな効果を生むのです。一方の潜在的加害者である運転者にも、免許更新等の機会を利用して度々指導や呼びかけが行われます。キャンペーンは包括的なものとなっているのです。

そして、いくら注意しても防げない交通事故もあります。それは、意図的、半意図的に加害が行われるものです。飲酒運転や薬物の使用、異常な速度違反は、半ば意図的な加害行為です。ごく稀に、「人を跳ねてやろう」と最初から思ってくるような異常行動もあるでしょう。このような意図的な加害に対しては、子どもがいくら交通ルールに気をつけても被害を防ぐことはできません。登校中の子どもの列に猛スピードで自動車が突っ込むときに、被害は子どもの力では防げません。このような被害に対してはいかなるキャンペーンも無力であり、実際、交通安全運動はこういった被害を防ぐことを想定していないはずです。

交通安全運動が想定しているのは、当事者が注意することで防げる事故です。猛スピードで突っ込んでくる車を避けるような訓練は子どもに対してでも可能かもしれませんが、そこまでやることはあえてしないのです。「通常予防できる範囲で予防する」のが常識的なキャンペーンのあり方です。

では、子どもの連れ去り犯罪に関してはどうでしょう。交通安全と同様に、「ルールを守ること」で防げるものでしょうか。

残念ながら、多くの場合、そうではないでしょう。特に営利誘拐などの計画的な犯罪の場合、連れ去りは用意周到に行われます。子どもの自衛行動ぐらいはちゃんと織り込み済みでしょう。「お母さんが呼んでいる」「病院に行こう。急いで車に乗って!」などの口実は、意図的に子どもを騙すために用意されるわけです。不注意や怠慢でルールを破る運転手とは意味が違います。そういった運転手でさえ、意識の上では交通事故を引き起こしたいと思っているわけではありません。ところが、連れ去り犯は意識して事件を引き起こそうとしているのです。

このような意図的な加害行為に対して、子どもに「注意しましょう」と呼びかけることは正しいことなのでしょうか。それは、不意の突進車に対応できるよう、日常的に子どもにスタントマンの訓練を施すのと同じレベルの発想ではないでしょうか。

交通事故被害にあった子どもに、「もっと信号に気をつけていればこうならなかったのよ」と諭すことは意味があるかもしれません。しかし、連れ去られた子どもに「あなたがもっと気をつけていれば...」と言うのはナンセンスです。子どもにそこまでの責任を求めてはならないでしょう。

「車に気をつけて」と「知らない人に気をつけて」は、ほとんど同列に唱えられます。けれど、こうやって考えてみると、対策として前者には意味があるのに、後者にはほとんどないことがわかります。車にはねられることと見知らぬ人に連れ去られることは、親にとってはどちらも耐えがたい恐怖です。どちらも絶対に起こってほしくはありません。そういう立場からいえばふたつの注意喚起は同じレベルのものです。しかし、前者は合理的な対策なのに、後者は「おまじない」でしかありません。

子どもの親に、この点で理性的になれというのは間違っているでしょう。私も一人の男の子の親です。自分の子どもが危ない目にあうと思うだけでお腹のあたりがきゅっとなります。

けれど、学校は理性的、合理的になれるはずです。交通安全と同じレベルで連れ去り犯罪予防の心得を子どもに教えるのは奇妙です。ところが、確かに力の入れかたとしては交通安全が優先されているものの、「いかのおすし」には異常なほどエネルギーが投入されているのです。

なぜ「いかのおすし」がそこまで好まれるのか、案外と深い理由があるのかもしれません。私には現在のところ想像がつかないのですが、機会があれば調べてみたいと思っています。
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2009年09月19日

「情報提供」と「宣伝」の間

警察に限らず、公的な意味での広報は、本来のあり方としては「情報提供」なのでしょう。公的な情報を知らないことで不利益を被る人がないよう、政策は広く周知されなければなりません。これが広報の目的だと思います。

ところが、近年の広報は、より「宣伝」としての色を強めているように思います。これは、広報のチャネルの特徴として、情報提供と宣伝が混同されやすいからかもしれません。堅い情報を噛み砕いてわかりやすく周知することは、重要なことです。そのために有効な様々な技法は、宣伝に用いられる技法と同じです。そのため、情報提供と宣伝は、現場ではほとんど区別されなくなるのでしょう。

けれど、宣伝は、何らかの誘導意図をもって行われるものです。中立的な立場での情報提供とは明らかに姿勢が違います。このことをもうちょっと意識する必要があるのではないでしょうか。

そんなことを考えながら、こんな記事を読んでいました。
posted by 松本 at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月21日

リアル「いかのおすし」

今日、近くの回転寿司に行ってきました。私、けっこう「いかのおすし」が好きなんですね。いえ、本当のイカをネタにしたおすしです。甘いコウイカも、歯ごたえのあるスルメイカも、ゲソをつけたヤリイカ姿なんかも、いつも必ず食べます。焼いたイカや煮たイカはそれほど好きでもないのに、どういうわけかお寿司は好きです。

ところが今日は、回っているイカがどれも干からびて見えて、結局手を出しませんでした。いえ、テカテカ光っているのもそれなりの処理をしてあるからだってわかっているので手を出し辛いのですが、その上に乾いてしまっているのはなおのこと...

こんなブログを書き始めてしまったから、リアルな「いかのおすし」にまで見限られてしまったのかもしれません。けれど、おかしいと思うことはおかしいって言わないと。もうちょっと、「いかのおすし」批判を続けることにしましょう。
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2009年09月22日

ちょっと失望

「いかのおすし」がおかしいって思う人は、少数でも絶対いると思うのです。私の身近では、だれも同意してくれません。「だって子どもの安全は大事じゃない」「世知辛い世の中かもしれないけど、それが現実なんだから」という反応はまだマシなほう、私が何を問題にしているのか全くかみ合わない方が多いでしょう。

それでも広い世の中、「こんなものを普及させようという大人の態度は許せない」と思う人が他に一人や二人いるはずだ、と思いたいのです。

今日、少し時間があったので、ブログ検索をかけてみました。ほとんどの記事が、「いかのおすしを子どもに教えましょう」というものばかり。たまにちょっと批判的なものがあっても、それは「言葉として無理があるんじゃない」という程度で、発想そのものが問題だと書いている人は一人も見かけませんでした。

これが世の中なんでしょうか。自分だけは正義の側にいると思って、実際には(確かに存在はしても)不確かでつかみどころのない「知らない人」や「不審者」に全責任をおっかぶせようとする態度が、いまの人間社会なんでしょうか。

軽い絶望感におそわれます。
posted by 松本 at 18:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月23日

結局、私は何を求めているのか?

「いかのおすし」的教育がおかしいと思ってこのブログを書き始めた私ですが、では、私はいったい何を求めているのでしょう。「ぐちゃぐちゃ文句をつけているけど、何が欲しいんだ?」と聞かれたら、何と答えればいいのでしょう。

私は、自分の子どもに「いかのおすし」を教えてほしくないと思います。それが子どもの成長に悪影響を与えると思うからです。余分なことは子どもに吹き込まないでほしいと思うのです。

「いかのおすし」は指導要領に記載されているわけでもない、学校の自由裁量で指導している事柄です。私は個人的に文部省指導要領の記載事項のなかにさえ、「教えてもらわなくていいよ」と思うことがあるのですが、そこにはとりあえず文句を言わないでおこうと思います。息子を公立の学校に行かせる選択をした時点で、ある程度のことは容認しなければいけないと覚悟を決めました。ですから、「学校で教えると定められたこと」について問題にするつもりはないのです。

「いかのおすし」が教えられるのは、おそらく警察の都合、そして学校の事なかれ主義です。そういった教育とは全く関係のない事柄に子どもを巻き込まないで欲しいのです。

もちろん、親御さん方の中には、やはり報道される「連れ去り犯罪」に対する嫌悪感から(この嫌悪感は私も共有しています)、「学校は予防対策を万全にとって欲しい」と希望される方も多いでしょう。そのために「いかのおすし」推進を願う方も多いかと思います。つまり、私が「いかのおすし」を止めてほしいと願う一方で、それをやってほしいと思う親御さんもいるわけです。学校としては両者の意見を公正に聞いて、おそらくは多数派である「いかのおすし」推進派の意見を尊重せざるを得ないということもあるのでしょう。

けれど、冷静になってほしいのです。「いかのおすし」で子どもの不幸は防げません。たとえばこんな記事にあるように、「いかのおすし」という言葉を覚えても、そこに込められた願いが届いているとは限りません。それよりは、こんな語呂合わせではなく、本当に何を心配しているのか、本当はどうしてほしいのかを具体的に説明する方がいいのではないでしょうか。

そして、さらにじっくり考えていただければ、仮想敵である「知らない人」を持ち出すことが本当に子どもの安全につながるのかどうか、疑わしいことが理解いただけるのではないでしょうか。子どもを傷つけるのは他者かもしれませんが、子どもを救うのも他者です。他者を締め出して可能性を奪うのではなく、もっと踏み込んで、あらゆる状況に「生きる力」を発揮できる知恵を子どもに与えるべきではないのでしょうか。

私は、「いかのおすし」に賛辞を送る人々、「いかのおすし」を子どもに教えるべきだと唱える人々と、対立したくはないのです。そういった人々と手を携えて、本当に豊かな子どもたちの未来を考えていきたいのです。

これは大それた願いなのでしょうか。

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2009年09月24日

休み明け

休み明けの朝は、どの子もみな、不機嫌そうですねえ。眠いんだろうな。うちの子も、くたくたになって帰ってきました。
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2009年09月25日

「不審者」をつくり出す「いかのおすし」

「いかのおすし」は防犯のために考えられた標語です。防犯は警察の仕事であり、犯罪の多寡にかかわらず、犯罪がこの世からなくならない限りは続けられるべき活動でしょう。ただし、「近年多発する犯罪に」とか、「少年犯罪の増加傾向」のような宣伝文句には、実証性がないかもしれません。

私自身がデータをもっているわけではないので真偽の議論に立ち入るつもりはないのですが、たとえば、こんな本があります。

犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (浜井 浩一/芹沢 一也  光文社新書)

私はまだ読んでいないのですが、この本には、「治安悪化言説こそが「神話」なのである。……事実と相反する「神話」がなぜ「常識」と化したのか? 統計と思想の両面から迫る」というようなことが書かれているそうです。公式統計のグラフにかかわらず、その内容を精査すると、実際には犯罪は増えていないのではないかということのようです。

「いかのおすし」を肯定する人々の大半は、そもそも異議があることなど考えられないようです。子どもの安全は無条件で重要であり、そのために「いかのおすし」があるのなら、やはり無条件でそれを普及すべきだろうと、強いて尋ねればそんなふうに考えておられるでしょう。しかし、なかには、「確かに嫌な言葉だよね。でも、むかしと違って怖い事件がいっぱい起こっているから、しかたないよ。時代が悪いんだから」と、「いかのおすし」のマイナス面を認めながらも、「危険な時代だからしかたない」と肯定される方もいらっしゃるようです。

しかし、「治安悪化言説」が「神話」に過ぎず、実際には凶悪犯罪は増えておらず、子どもの身の危険も「むかし」と大差ないのだとしたらどうでしょう。「しかたない」の根拠は崩れるのではないでしょうか。

けれど、「しかたない」とおっしゃるお母さんは、きっと、「むかしに比べてそれほど危険じゃないのかもしれない。でもやっぱり……」と反論するでしょう。やっぱり少しでも危険があるのならそれは防ぎたい。やっぱり、「知らない人」に用心するに越したことはないと。

ここに、「いかのおすし」の根深さがあります。それは、存在しない危険に対する過剰な防御姿勢です。いえ、「存在しない」と言ってしまってはウソになります。実際に犯罪は発生するのです。それに対する防御の姿勢も絶対に必要です。存在しないのは、「想定されているほど過大な危険の可能性」です。あたかも日常的に近所の公園に犯罪者が現れるかのような想定であり、そんな想定にもとづいた「人を見たら泥棒と思え」式の防御姿勢です。これはどう見ても過剰です。

こんなことを言うと、「いえ、そんなことはない。だって、先週もこの町内で不審者が現れたっていう警報メールがあったのよ。声をかけられた女の子が逃げたからよかったらしいけど」というような反論があるでしょう。実際、「不審者」を見たという通報はあとをたちません。「不審者」が発見されると、たちまち防犯メールが送信され、保育園や学校、町内掲示板に「不審者情報」が掲示されます。回覧板にも「見かけない人に気をつけましょう」という呼びかけとともに、これらの情報がまとめて告知されるでしょう。こういった情報に気をつけていれば、「過大な危険の可能性」などという指摘は世迷い言に聞こえるはずです。

私は、これこそが「いかのおすし」問題だと思うのです。なぜなら、「不審者」は、「犯罪者」ではありません。「声をかけられた」「連れ去られそうになった」「下半身を露出された」などという被害報告は、「被害者」の一方的な主張です。確かにその中には犯罪につながりかねないものもあったかもしれませんが、多くは意志の疎通を欠いた誤解であったり、犯罪性の希薄な異常行動だったりするのではないでしょうか。

そういった「確かに怪しいけれど危険ではない」人々を「犯罪者」と同一視される「不審者」にしてしまうことで、「神話」は現実となります。そして、それに対処するために「いかのおすし」的教育が強化されます。

上記の「犯罪不安社会」の著者は、「神話」生成の原因をマスコミの過剰報道に求めているそうです。しかし、何でもかんでも「マスコミが悪い」というのは、何でもかんでも「不審者」のせいにする心性と大差ないように思います。そういったマスコミの言説を生み出しているのは、私たちひとりひとりの心の過剰防衛反応かもしれません。

そして、そういった過剰防衛反応を生み出すのが、「いかのおすし」的教育だと私は思うのです。

私たちは、小さいころから「知らない人に気をつけましょう」と繰り返し教え込まれてきました。私は個人的な性癖からこれに対して「それっておかしいよね」と思ってきたのですが、ほとんどの人はそれを疑問に思うことなく育ってきたのではないでしょうか。そういう「常識」を教え込まれた人は、「知らない人」が、ほんの少し常軌を逸した行動をしているのを見ただけで「不審者」と感じるでしょう。そんな「常識」にもとづいて生きていれば、確かに世の中は「不審者」だらけです。そんな「不審者」から子どもを守るには、どうあっても「いかのおすし」がなければなりません。

「いかのおすし」的教育は、このようにして再生産されます。そして、それはどんどんと「不審者」を増やしていき、この世の中をどんどんと生きにくいものにしていきます。

「安全崩壊」が本当に「神話」であるのかどうか、私には検証する能力はありません。しかし、少なくとも、それが「神話」ではないかと疑うことは許されていいのではないかと思います。「神話」だと疑えば、「いかのおすし」が奇妙に見えてきます。

だから私は、「いかのおすし」に疑問を投げかけていきたいと思うのです。

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2009年09月26日

強者と弱者をつくらないために

前回の記事を書きながら、「ああ、これにはツッコミどころがいっぱいだな」と思っていました。いろいろな立場から、いろいろと批判できる記事だったと思います。そして、私自身の立場からも、ひとつ、大きく欠落している部分がありました。今回はそこを書こうと思います。

前回の論旨は、荒っぽくまとめると、「実際には犯罪者は "いかのおすし" が必要になるほどには多くはいない。犯罪者ではない "不審者" は、"いかのおすし" 的感性からつくられるものである」というようなものでした。事実関係について批判を受ける可能性も、もちろんあります。しかし、仮にこれが事実だとしても、その上でやっぱり、大きな問題はあるのです。

それは、「不審者なんていない」という考え方が、強者の論理だということです。仮に、世に言う「不審者」の大部分が実際には悪意がなかったり犯罪性が希薄な「非常識」程度の行為だと仮定しても、それを「あの程度じゃ不審者とは言わない」と笑えるのは強者だけです。被害を受けやすい弱者にとっては、どのような犯罪の兆候でも笑って見過ごせるものではありません。だからこその「不審者」であるわけです。

強者には、弱者の視点はわかりません。ですから、弱者が「怖い」と素直に訴えても、「そんなことはあるものか」と門前払いを食わせます。かつての警察はそうでした。不安感に少しでも漠然としたことがあると、とりあってくれなかったものです。

しかし、犯罪の兆候を敏感に感じた人の訴えを退けた後に実際に犯罪が起こる事例がくり返された反省なのでしょうか、最近は警察も、ややあやふやな訴えをとりあげてくれるようになりました。以前の強者の論理を改めて、弱者に歩み寄るようになってきたわけです。このことは高く評価すべきでしょう。

しかし、その結果、「不審者」の情報は増加していきます。気がつけば、まわりには不審者だらけで、世の中が非常に危険になってしまっているような錯覚に陥ってしまいます。

そして、その「不審者」の中には、不審者情報を届ける人々とは別な意味での弱者が含まれています。家を失って公園ぐらいしか行き場のない人や、昼間からぶらぶらせざるを得ない失業者、十分なケアを受けられない障害者などが、ひとくくりに「不審者」として報告されている可能性があります。こういった社会の周縁部にはじきとばされた人々をさらに疎外していこうとするのは、やはり強者の論理ということになります。

つまり、「不審者なんかいない」というのも強者の論理ですが、「不審者がいるから用心しよう」というのも強者の論理です。弱者の視点が欠けています。どちらをとっても、どこかで弱い人が苦しむ可能性が高いのです。

ここを改めなければ、「いかのおすし」問題は解決しません。

なぜ、弱者の視点を取り入れた「不審者情報」が、強者の論理になってしまうのでしょう。検討すべき課題とは思いますが、私の思いつきでは、これは共感が足りないからではないかという気がします。

警察は、絶対的に強者です。これは社会制度上、強者であるようにつくられているわけです。警察が弱ければ、犯罪は取り締まれません。弱い警察など不要です(理想としては警察が不要な世の中になればいいわけですが、そこまで話を拡張するのは控えましょう)。ですから、常に弱者に対する共感を意識しないと、その行動はどうしても強者の論理にもとづいたものになってしまいます。

弱者の「怖いから助けてください」という訴えに対して、強者の論理では「それではその不審者に対する警戒を強化しよう」となるでしょう。しかし、それが本当に弱者に対する共感にもとづいた行動なのでしょうか。弱者の不安を取り除くには、「怖い」対象を「不審者」として一括りに警戒対象にするのではなく、実際に恐怖を与えた人物が誰であったのか、その行動がどういうものであったのかをしっかりと実地に検証し、恐怖をひとつひとつ解消していく対応が必要なのではないでしょうか。

まさかとは思いますが、警察は「不審者の届け出」を「成績」のように扱っていないでしょうか。不審者情報を、自分たちの業務の根拠づけとして利用していないでしょうか。

「不審者」の実体が判明すれば、それは「不審者」ではなくなります。「不審者」が「不審者」として放置され、ただ単に「情報」や「統計」として流布してしまうのは、ある意味、警察がその正体を確認する能力を欠いていることをあらわしているに過ぎないのではないでしょうか。

とはいえ、警察ばかりを責めるべきではありません。「不審者」を届ける人にも、「不審者」扱いをされた人にも、相手の気持ちを思いやる共感する力があれば、「不審者」は大きく減るのではないかと思います。その上で、共感する力は、弱者よりも強者により大きく求められます。そういう意味で、警察には、ことに弱者に対する配慮をさらに求めたいと思うわけです。

そして、何よりも、数多くの弱者である子どもらをあずかる学校には、弱者に対する共感を強く求めたいわけです。いったい、「いかのおすし」を子どもに唱えさせることが、本当に弱者のためになるのでしょうか。それは、強者と弱者をどんどん再生産していく思想を植え付けることにはならないでしょうか。

強者と弱者は、常にこの世に存在します。しかし、人間には共感する力があります。この共感する力によって、強者と弱者をできるだけつくりださないよう努力することはできるはずです。そして、そのために教育の果たす力は小さくありません。

その教育は、「いかのおすし」的教育ではあり得ないと、私は思います。
posted by 松本 at 15:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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