2012年08月14日

「いかのおすし」は、半世紀前のアメリカの遺物だった!

驚くべきパンフレットを見つけました。以下のリンクです。

http://www.budgetraygun.com/featured/how-to-tell-good-people-from-bad/

http://boingboing.net/2012/08/13/how-to-tell-good-people-from-b.html

1964年頃にアメリカの子ども向けに配布されていたパンフレットらしいのですが、この内容、「悪い人の車には乗らない」「逃げる」など、「いかのおすし」の原型ともいえるものです。もちろん、こんな時代錯誤のパンフレットは、現代のアメリカでは配布されていません。

さて、半世紀前のこのパンフレットを見て、どう思いますか? 「やっぱりいまもむかしも子どもの安全のために重要なことは変わらないんだ」と思うのでしょうか。現代日本で「いかのおすし」を唱える人は、まさにそう思うのでしょう。けれど、この古色蒼然としたパンフレットからわかるのは、「世の中にはいい人と悪い人がいるんだ」という色分けこそがおかしいという事実です。

元記事が消える可能性もあります。お早めにごらんください。
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2010年09月14日

「避難訓練」という名のアリバイづくり

今日、息子の通う小学校で「避難訓練」があったというので、「地震対策かな」と思って聞いてみました。すると、不審者対策だというのです。

いろんなケースが想定されたと、息子が報告してくれました。教室に「不審者」が侵入したケース、別の校舎に侵入したケースなどなど。息子は、模範的な行動はどうすべきかもきちんと覚えて帰ってきました。

しかし、ひとつ前のエントリでも書いたとおり、これはほとんど無意味なことです。学校への侵入者による暴行事件は、確かに全国で数年に1回程度は発生します。そんな事件で亡くなられた方や心身に傷を追われた方がいるのも事実です。けれど、発生確率は、非常に低いものです。子どもの安全ということでいえば、交通事故その他の物理的な事故、さらには家庭内での虐待や日常生活での逸脱から巻き込まれる事件の方がよっぽど重大です。偶発的な侵入者による事件は極めて発生数が少ないだけでなく、今回のような「訓練」によっても、実は防ぎにくいものなのです。なぜなら、発生件数が低いということは、それだけ統計的に意味のある対策というものを確立するのが難しいからです。3年前にある県で発生した事件が、1年後に別の県で発生する事件と似通った性質をもっていると考えるほうが無理があるわけです。

それでなくても、指導要領の改訂によって、学校では「時間が足りない」と言っています。実際、この秋の運動会のプログラムも、昨年までよりは減りました。各学年3つのプログラムに出るのが慣例だったところ、今年は2つになったのです。その理由は、学習時間の減少でした。

そんなに忙しいのに、実効性があるかどうかも定かではない「訓練」をするのは何のためなのでしょう。それが意識されているか否かにかかわらず、これは教職員の自己防衛意識の現れではないかと思えて仕方ありません。有り体にいって、万が一何らかの事件が発生したときに、「対策はとっていました」と答えることができるようにするための、いわばアリバイ工作です。そうでもなければ、こんなことをする合理的な理由は考えつきません。

「悪い人」を外部化してしまうこういった「訓練」は、子どもの教育上、非常に問題があると私は思います。「悪い人」は、常に学校の外からやってきます。そう教えられた子どもは、やがて、「敵は外国人」というような誤った排外思想を受け入れやすくならないでしょうか。そうではありません。問題は、外部にもあるでしょうが、同時に内部にもあります。自分自身の中にも、危険の芽は存在します。そういった現実を直視できる人間に育ってほしいと、ひとりの子どもの親である私は切に願っています。

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2010年09月09日

最も危険な5つのこと

興味深い記事を見つけました。子どもの安全について、親のもつ考え方と実態がいかにかけ離れているかを説明した記事です。こちらに原文があります。

5 Worries Parents Should Drop, And 5 They Shouldn't

最もわかりやすいのが、次の部分。引用します。ちなみにこれは、The Paranoid Parents Guideの著者であるChristie Barnesさんの研究によるものだそうです。

親が心配する危険性の上位5位
  1. 誘拐
  2. 学校での銃撃事件
  3. テロリスト
  4. 不審者
  5. 麻薬・覚せい剤など

一方、子どもが実際に遭遇する危険の上位5位
  1. 交通事故
  2. 顔見知りや近親者による殺人
  3. 虐待
  4. 自殺
  5. 水難事故



このブログで何度も繰り返し力説してきたとおり、実際には不審者による危険性はトップ5に顔を出しさえしていないのです。不審者以外の殺人が2位に入っているのはさすがにアメリカならですが、これは「不審者対策」では防げません。むしろ怖いのは、不審者ではない人による虐待でしょうね。「自殺」がそこに関係してくるケースも十分に考えられます。

ということで、最も理性的な親のとるべき対応として、「シートベルト着用」と「ヘルメット着用」をChristie Barnesさんは推奨しています。「あまりにありきたりかもしれないけれど」それが最も合理的な子どもの安全対策のようですね。



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2010年04月12日

教科書にまで! 「いかのおすし」

読売新聞の報道によると、「いかのおすし」は、ついに教科書で教えられることになったようです。

[生活・音楽]防犯意識を強調
 生活では、犯罪から身を守る意識を強調する教科書が目立った。
 「(付いて)いかない」「(車に)のらない」「大声を出す」「すぐ逃げる」「知らせる」という不審者への対応を5項目の頭文字でつなげた標語「いかのおすし」は三つの教科書に登場した。入学後に学校生活に適応できない「小1プロブレム」解消のため、遊びを中心とした活動を授業につないでいく試みもあった。
 音楽では、扱う楽器で和楽器が新指導要領で明記され、琴の弾き方も取り上げられた。また、沖縄の音楽を特集し、独特のリズムと音階を使って節を作る内容を扱った教科書もあった。
2010年3月31日 読売新聞

教科書は、多くの人が制作に携わるものです。本来中立とは言いながら出版社の立場によって実際には様々な思想・信条を反映した教科書が存在するのは現実ですが、それでも、多くの人の手を経ることによって、あまりに極端な考え方が表面に出ないようになるものです。

しかし、「いかのおすし」は、常識では理解できない極端な排除思想です。教科書編集に携わった多くの人の誰一人としてそれを気にしなかったというのは、背筋が凍るほどの怖ろしい状況だといえます。

「学校とはそういうものさ」「教科書とはそういうものでしょう」と、肩をすくめることもできるかもしれません。けれど、単純に一人の大人として、私はこういった思想を子どもに伝えることを恥ずかしいとおもいます。自分自身が人間として、恥ずかしいのです。

私は、自分自身の恥辱を雪ぎたいというその個人的な思いをもとに、引き続き「いかのおすし」批判を強めていきたいとおもいます。
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2010年04月07日

防犯ブザー持って遊びにいきますか?

息子の学校でも新学期が始まり、息子も小学2年生になりました。明日は入学式があるので、いよいよ下級生の面倒をみる立場になります。この1年、ずいぶん成長したと思う一方で、まだまだ頼りなく、本当に大丈夫かなと心配になります。

そんな新学期準備のために春休み前に配られたプリントを改めて見直していたら、やっぱり「いかのおすし」的な注意事項が列記してありました。まあ、「知らない人に声をかけられてもついていかないようにしましょう」程度のそれほど害のあるものでもないので、特に目くじらをたてることもないように思います。それよりも、笑ってしまったのは、「あぶない目にあったら防犯ブザーを鳴らしましょう」というもの。近所に遊びにいく子どもに、防犯ブザーを持たせるのでしょうか。

こういう書類を作る教育現場のセンスがどうなっているのかと、疑いたくなります。こんな事なかれ主義が、「いかのおすし」的教育に反映されているのではないかと思います。いったいあなたは、防犯ブザーを持って遊びにいきますか? それはまるで、片時も銃器を離さないアメリカ人のように滑稽な図ではないのでしょうか。

安全のためには、もっといい知恵があると思います。
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2010年03月28日

子どもを混乱させる「いかのおすし」

ここのところブログの更新が止まっていた理由のひとつに、ツイッターを始めてしまったということがあります。よくわからない世界でウロウロしていて時間がなくなってしまったわけです。

そのツイッターの世界でも、ときに「いかのおすし」がつぶやかれることがあります。大半は、ブログの世界と同じような肯定的なものです。「子どもを狙った犯罪が増加している」という過った認識のもとに「こうやって身を守らなければいけない」と思い込んだ記述です。けれど、たまには、こういうものもあります。

spoonist 近年子供達の教育に疑問あり。 「いかのおすし」を変に捉えてるのか同じマンションでも大人に挨拶しない子が多い。 大人からは子供達に挨拶してるのに。 これでは守って(気をつけて)あげようにも守れないかも。 米国では、他人の子供を守ることで他人からは自分の子供を守ってもらえるというが。 4 days ago


この「つぶやき」を読んで感じたのは、「子どもも大変だなあ」ということです。子どもは、「元気にあいさつしましょう」と指導されます。実際、挨拶はコミュニケーションのスタートであり、それが伝統的な方法であるとか作法がどうのこうのということに関わらず、人と人の接点をつくりだす基本的技術として重要なものです。そして、その一方で子どもは「いかのおすし」を指導されます。これは、「大人を見たらまず疑いましょう」と教えるものです。疑いの心からは、コミュニケーションは生まれません。

つまり、子どもはまったく矛盾する指導を常に大人から受けているのです。そんな矛盾を抱え込まざるを得ない子どもの日常は実に大変です。

それが人生というものと断じることもできるかもしれません。確かに、多くの矛盾を折り合わせて生きていくことは、将来は必要になるでしょう。けれど、この矛盾の一方が仮想された根拠のないものであるならどうでしょう。実際には「いかのおすし」なんて意味はないのに、それを教えられているのだとしたらどうでしょう。

以前にも何度も繰り返してきたように「いかのおすし」の根拠には具体的な裏付けがなにもありません。「いかのおすし」は、確かに警察の犯罪捜査の経験からは誤りのない事実であるかもしれませんが、それを子どもらの日常に導入すべき理由は何一つないのです。そして、むしろ有害であり、子どもを混乱させます。

間もなく新学期です。新学期には、多くの学校で、「いかのおすし」が教えられることになるでしょう。このような状況を変えたいと、私は願って止みません。
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2010年02月18日

やっぱりおかしい「いかのおすし」

この数ヶ月、「いかのおすし」問題について考えることはあまりありませんでした。寒くなってあまり出歩かなくなったことが関係しているのかもしれません。「いかのおすし」的世界に触れることがなければ、これが問題だという気持ちにもなりません。

もともと私が問題意識をもったのは、昨年9月の新学期、小学校1年生の息子が学校で「いかのおすし」を教えられたことがきっかけでした。これにどうにも納得できなかった私は「いかのおすし」について調べ始めたわけです。そして、身の回りに無数にある「いかのおすし」的発想に気づき、批判を繰り広げました。

しかし、直接「いかのおすし」が身に降りかかってきたのはこのときぐらいです。以後、自分から「いかのおすし」について調べたり、そんな話題を持ち出すようなことはあっても、「いかのおすし」の方からやってくることは特にありませんでした。

そういうこともあって、「まあこの問題はもういいか」という気持ちにもなっていました。さらに3学期の初めに息子の学校であった「安全教室」の内容がそれほどひどいものでもなかったので、「常識的にいってそこまでひどいことはしないんだなあ」と納得したりもしていました。

けれど、先日久しぶりに「いかのおすし」で検索をかけて、状況は相変わらずなのに気づきました。当たり前といえば当たり前です。何が変わったわけでもないのです。単純に、私のモチベーションが下がっていただけで、「いかのおすし」を巡る悲惨な状況は変わりません。

私が悲しいと思うのは、どうして「子どもの安全」という大義名分の前で、誰もが思考停止をしてしまうのかということです。何度でも繰り返しますが、「子どもの安全」は何よりも大切です。しかし、「いかのおすし」は、警察的観点からの安全に対する回答ではあり得ても、一般解ではあり得ません。人間に対する信頼なくして、どうして人間が安全でいられるでしょう。そんな単純なことも、「子どもが危険だから」というお題目の前で考えられなくなっている状況が悲しいのです。

やはり、「いかのおすし」批判は続けなければいけないと思います。ただ、非論理的な行動を理解するには、深層まで掘り下げた批判が必要になります。前途多難にため息をつくこの頃です。

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2010年02月05日

いかのおすし指導の実際に少しだけ安心

昨日、小学校1年生の息子が学校で「安全訓練」があったというので、「どんなことを教えてもらったの?」と尋ねてみました。すると、「怪しい人に気をつけることとか」というので、「ああ、やっぱりいかのおすしだ」と、もうちょっと詳しく聞いてみました。

「怪しいひととか泥棒とかに気をつけましょうっていうこと」と、かなりいい加減なことを聞いてきています。まさか子どもに「泥棒に気をつけましょう」とは教えないでしょう。「じゃあ怪しいひとってどんなひとって教えられた?」と尋ねると、案の定、「怪しいひととかあ...」と、具体的ではありません。「いかのおすし」の困った点のひとつは、誰でも「不審者」にしてしまうことです。現実には犯罪性のある不審者はごくごくわずかで、大半の「不審者」は単純に見慣れないひと、理解できない行動をしているひと、あるいはもっと極端には「知らないひと」でしかありません。ここをしっかりおさえないと、子どもの心から人間に対する信頼が失われてしまうと私は危惧するわけです。

実際、子どもに具体的に犯罪の匂いを嗅ぎ分けるよう求めるのは無理でしょう。大人にだってたいていはわかりません。「いかのおすし」は出発点から破綻していると思います。そこで、私は息子に、「じゃあ、怪しいひとってだれ? 知らないひとはみんな怪しいひとなの?」と重ねて聞きました。すると息子は、「ちがうちがう、誰でも疑ったらあかんねん」と言いました。そのように学校で教えられたと。

では、どういうときに気をつければいいのかと聞いてみたら「しつこく聞いてくるときは気をつける。それから、どんなときでもこのくらい離れる」といって両手をいっぱいに伸ばしました。

これは正しいと思います。最初に疑いありきではなく、普通に対応して、それが尋常でなければ用心するというのは、何も「いかのおすし」を持ち出さなくても常識的な行動です。そして、他人に対してある程度の物理的な距離を置くというのは、安全のためでもあるし、礼儀の上でもそうあるべきことでしょう。

このブログでは「いかのおすし」教育の弊害をしつこく繰り返してきましたが、実際に息子が報告したように過剰な危機意識を子どもに植え付けるのでない「安全教育」なら、まあそれほど害はないのかなと、少し安心した次第です。もっとも、だからといって「いかのおすし」の奇妙さがなくなるわけではないのですけれど。

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2009年12月16日

「強制」でなければいいのだろうか?

「いかのおすし」が主張する事実そのものには、確かに正しい知見もあります。たとえば、子どもが加害者に対して「たたかう」姿勢をとるのは危険です。「逃げる」「助けを求める」のがもっとも有効な防衛方法になるでしょう。「いかのおすし」には、そういう知恵を伝える部分もあります。

しかし、「いかのおすし」は、問題です。その問題点はこのブログで再三にわたり述べてきました。これが子どもの成長に与える悪影響は、何度強調しても足りないと私は思います。

これに対して、「別に強制されているわけじゃないからかまわないではないか」という議論もあり得ると思います。どんな教育内容にも、正しい部分と誤った部分があります。重要なのはその文脈です。文脈を無視して強制されることで誤った部分の弊害が大きくなるわけですから、そういった強制がないのであればとりたてて目くじら立てることでもないだろうという話はよくわかります。けれど、「いかのおすし」に関しては、これはあてはまらないと私は思うのです。


まず、「いかのおすし」教育は、現に強制されています。すべての教育現場でそうだとは思わないし、また思いたくはないのですが、実に多くの幼稚園や学校で、「いかのおすし」は唯一無二の「正しいこと」として教えられています。たとえば、警察や警察の外郭団体が出張してきて「いかのおすし」を題材にした寸劇を見せるとき、これを拒否することは児童にも保護者にもできません。たとえば、私の息子の通う学校では、新学期の冒頭に、全校生徒に「いかのおすし」を斉唱させました。やはりこれは、私の観点から言えば「強制」です。強制される「いかのおすし」はまっぴらです。

しかし、強制されなければそれでいいのでしょうか。強制されるから「いかのおすし」は問題なのでしょうか。そうではないと私は思います。「いかのおすし」教育は、それ自体が問題です。

第一に、これは、「子どもを狙った犯罪が増加している」という過った事実認識にもとづいて展開されています。第二に、そういった過った事実認識を、根拠もなく多くの人の心に植え付けます。第三に、そういった過った事実認識、そして「不審者」という非常に恣意的な概念により、子どもの社会に関わる姿勢を歪めます。そして、子どもの正常な社会能力の発展を阻害します。第四に「いかのおすし」が無批判に行われているという事実そのものが、教育業界の異常な実態のあらわれです。さらに語り出せばきりがないほど、「いかのおすし」には多くの問題があります。

こういった問題を抱えたものを、「強制されていないならOK」と言えるわけはないと私は思うのです。

私は何も、「いかのおすし」を主張することそのものが犯罪だと言っているわけではありません。たとえば警察がこういった標語を考え出し、それを広めようと思うことは、別段何の問題もないでしょう。警察という仕事を遂行する上で、ひょっとしたらそれが役に立つのかもしれません。もちろんその場合でも、「過った認識に基づいている」という批判の対象にはなり得るとは思います。けれど、人間の多くの行動はそういうものです。あまり堅いことを言うべきではありません。

もちろん仮に、警察が「いかのおすし」を徹底させるために強権を発動するというようなことがあれば、これはアウトです。けれど、いかな警察でもそういうことはしません。そういう文脈では、「強制されていないからかまわないじゃないか」と言うこともできます。

しかし、ほとんど犯罪的だと私が思うのは、教育の専門家としての自らの職務を放棄したような学校の「いかのおすし」に対する姿勢です。正常な感覚なら、これが低年齢の児童に対しては何の役にも立たないこと、むしろ有害なことぐらいの判断はできるでしょう有害だという判断まではしなくても、何らかの批判的な検討を行うことぐらいは、現場への導入前に当然すべきことでしょう。ところが学校は、行政の下請けとして、要請された「いかのおすし」を無批判に、ほとんど右から左へと、児童に伝達しています。これは完全にアウトです。こういう姿勢で教育現場で教えられる「いかのおすし」は百害あって一利なしであり、「強制でないからかまわない」などという議論が入る余地のないものだと私には思えるのです。

しかし、実のところ、もっと怖ろしいことがあります。

それは、ほとんど私以外の誰一人、「いかのおすし」が問題だと思わないことです。疑いさえしないことです。「強制されている」と感じるどころか、むしろ空気のように当たり前の存在だと思っていることです。

これはまるで、「信号を守りましょう」とか「歯を磨きましょう」とかというのと同じ次元で教えられています。根本的に違います。だれも違いを意識しないのはどうしてなのでしょう。

「信号を守りましょう」というのは、それが明文化されたルールだからです。ルールを守ることで、子どもは身を守ることができます。これは、ルールに対する潜在的な批判までを含めて、ほぼ間違いのない知識として子どもに伝えることができます。

「歯を磨きましょう」は、人が定めたルールではありません。しかし、多くの科学的な議論と実地の数多くの検証のもとで、有効性が確認されてきた知恵です。歯を磨く習慣をつけることは、子どもの身を守ります。もちろん、他の方法や、併用してさらに効果のある方法(甘いものを食べないなど)があることは確かです。しかし、そこまで含めて、やはり間違いのない知識として子どもに伝えるべきものです。

これに対して、「いかのおすし」は、定められたルールではありません。さらに、何らかの検証を経て有効性が確認されたものでもありません。警察の犯罪捜査の実地の経験から、その一部の有効性は確かにある程度認められるでしょう。しかし、それは百万分の一以下の確率で発生する非常に特殊なケースにおける有効性であり、日常生活に一般化できるかどうかの検証は、議論にさえのぼりません。さらに、そういった犯罪の現場での知恵を低年齢児童の教育に導入することの影響に関しては、誰一人考えた形跡がありません。

つまり、「いかのおすし」は、交通ルールや基本的生活習慣とはまったく異なったレベルの、かなり「迷信」に近いものです。であるのに、それがまったく同一レベルのものとして扱われていることが、私には怖ろしいのです。

ここまでの無知は、無知として処理すべきものではないでしょう。むしろ、これは主体的に疑うことを放棄していると考える方が合理的です。

では、主体的に疑うことを放棄して、大人社会は何を目指しているのでしょう。ここのところがどうやら「いかのおすし」問題の中核のように思えてくるこの頃です。

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2009年12月14日

忘年会にて

先週の週末、近所の数家族が集まって忘年会を開きました。息子の保育園の同級生つながりです。保育園というのは送迎の関係で親同士が顔なじみになることが多いので、卒園後もなにかにつけ集まります。今回は、その中でもごく近所の家族が集まったという形です。

忘年会ですから無礼講で、とりとめのない話で盛り上がっていましたが、途中、「近頃はむかしとちがって危ない世の中になってきたから...」という話が出てきたので、「いや、実際はそうでもないんですよ。子どもを狙った犯罪の発生率は15年ほど前まではずっと減少してきていて、その後はほぼ横ばいらしいですよ」と、持ち出してみました。

意外なほどに反論がなかったのは、場の雰囲気だったのか、メンバーの性格だったのか、よくわかりません。「不審者情報は急増しているが、それが実際には犯罪の発生とは相関していない」という話も、すんなりと受け入れられました。「不審だと思えば不審者」という背景や、「知的障害者等の弱者が不審者として統計に含まれている」という指摘も、なるほどと納得されました。

それでもやっぱり、安全に対する懸念は消えません。そこで気がついたのですが、この席にいた親御さんは、いずれも女の子のいるご家庭の方々でした。私のところは男の子です。やはり感覚がちがうのかもしれません。

ということは、日本でも、英語圏のstranger-danger同様に、懸念の対象は性犯罪なのでしょうか。だとしたら、英語圏での分析が日本にもあてはまる部分が大きくなってくるようにも思えます。今後、注意すべきところかもしれません。

もうひとつ、やはりここで気になるのは、「子どもの安全」を言う親の真意です。以前にも書きましたが、何らかの主張の根拠となる事実が誤っていることを認めた上でなおその主張を続けようとするのは、実はその主張された論理とは別な論理が働いているからだと考えていいことになります。私を含めた親たちを「安全」へと駆り立てている論理が何なのか、改めて考えねばならないだろうと思います。
posted by 松本 at 11:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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